18 姉さんの考え
ぱらぱらと捲り、三面の記事が読めるように、新聞を折った。見出しを見て、私は言葉を失った。
『サウザンドリーフ 保護解除進む』
サウザンドリーフの森は、数百万種類の原生生物が住んでいる美しい森だ。その奥にはリーフの村という小さな集落があり、そこは私と姉さんの故郷でもある。もうとっくに両親はいないけれど、長期の休みになると、その村に姉さんと一緒に帰る。その度に、村人の彼らは温かく私たちを迎えてくれる。
温厚な彼らは、その森に住む他の動植物と共存して暮らしている。家は大きなサウザンドリーフの木の必要なスペースだけ削って、リスのようにその穴の中に暮らしていて、森を守るために最低限の伐採しかしない。城下の近くにあるのに伐採されずに資源が豊富なのは、保護指定の条例があったからだ。それが新しい皇帝の手で解除され始めている。もしそれが、どんどん続いていけば……あの森は美しさを失うどころか、消滅してしまうかもしれない。
最悪の場合を考えてしまった私の肩に、ポンとリンさんの細い手が置かれた。
「何か方法があれば良いのだけど……。」
「方法ってどんな、だって皇帝が、保護解除するってもう……。」
故郷が無くなるかもしれないと思うと、目頭が熱くなる感じがした。どうしよう。こんな、すぐに涙が出そうになるなんて。泣き顔は誰にも見られたくない。堪えてみるが、余計に目が潤んだ。
「でもまだ、全てが解除された訳じゃないから「そのうち!そんなの一辺に解除されて、リーフの村だって、新たなる光の騎士団に奪われる!皆が、あそこにいる方法も、サウザンドリーフの木がそのままでいられる方法も、何も無いよ!」
「アリス!」
リンさんが私を呼ぶ声が聞こえた。私は泣きながら自分の研究室まで走った。重い鉄製の扉をウォッフォンで開けて、中に入ってすぐにロックをかけると、我慢していた涙が、ボロボロと床に落ちた。そのまま扉に両手をついて、水色の床に、透明の斑点が出来ていくのをじっと見つめた。
「うあ……。」涙が止まらない。こんな私に優しくしてくれた、家族のような彼らが迫害され、故郷が消えていくのを見るのは嫌だ。
トントン、と私の手の先のドアが動いた。このノックの仕方は姉さんだった。白衣の袖で涙を拭ってから扉を開けると、案の定、そこには医務室の白衣姿の姉さんが立っていた。何故、私が泣いているのを知っているのか。私の泣き顔を見ても、表情一つ変えずに研究室の中へと入ってきた。
「今朝の新聞、読んだかしら?」
「うん。姉さんは読んだ?」
「ええ。そのことで話があるの。」
姉さんと私は、二人掛けの白いソファに並んで座った。姉さんが太ももの上で、寒くて悴んだ手を温めるかのように、両手の指をまとめて何度も握っている。何か、話しづらいことでもあるのかな。少しの沈黙の後に、姉さんが静かな声で話し始めた。
「……新しい皇帝が即位した時に、真っ先に浮かんだのは、あの森のことだった。あそこはルミネラ皇帝がいたからこそ、存在していた美しい場所。それ以前は、城に近く資源豊富なあの森は、真っ向の伐採区だった。だけど、ルミネラ皇帝率いるルミネラ騎士団が、騎士団の過激派から派生したレジスタンスを鎮圧し、この世界を統一して、この森のことも村人のことも守ってくれていた。おかげで、森は美しく生まれ変わり、木々は成長して、類を見ない原生生物の楽園と化した。私も……故郷である、あの森を守れることなら守りたい。でもねアリス、今の皇帝は、私欲にまみれた魂の怪物。何故ルミネラ皇帝が、あのような人間を側に置いていたのか理解は出来ないけれど。兎に角、世界が変わることに、私たちはついていかなければならないわ。」
涙に滲む視界で姉さんの方を見ると、彼女の白い頬にも、涙がすっと零れていた。
「森のことも心配だけどアリス、私たちのことも心配だわ。何が言いたいか分かる?」
「何?私たちって?」
「幸いなことに、リーフの村の住人も、この研究所の人たちも、私たちの肌色について、差別する人はいない。だけれど、今度のネビリス皇帝は、アルビノに対して嫌悪感を抱いているわ。この事はいつか、彼の著書を興味本位で読んだ時に知ったのだけれど。」
「そんなの、生まれつきの色なんだから、仕方ないじゃない……。じゃあ日焼けすれば良いの?髪の毛を染めれば良いの?見かけだけで人を判断するって、愚か者のする事だよ。それをみんなだって分かってる。だから姉さん、気にする事ないよ。」
安心させようと、姉さんの手に自分の手を載せようとしたが、姉さんの手で弾かれた。少しショックだった。姉さんはひどく真剣な目で、私を見ていた。
「そうだけれど、人の中には、自分には無いものを持っているものに対して、嫌悪感を抱く者がいるのよ。彼らの深層心理までは理解出来ないわ。古の地上世界に存在していた、様々な肌色を持つ人間が、この場所で暮らし始めた。その歴史の途中からは、ここよりさらに地下の世界、深淵の地であるインジアビスに、新たな魔族と呼ばれる人間も生まれた。様々な背景を持つ人々が、差別なしで暮らしているというのは、奇跡に近いのかもしれない。でも、それには理由があった。それは初代皇帝が執行し、ルミネラ皇帝が守り抜いた差別撤廃の厳しい条例があったからこそなのよ。私たちの安全で平和な暮らしは、皆の理解があったからとも言えるけれど、条例があったからこそ存在していたとも言えるわ。しかし、その条例も、今回ばかりは危ういわ。ましてや現皇帝は、我々に対して嫌悪感を抱いている。民意などなくても、現に法は強制的に変えられるし、メディアの利用すれば我々が……いけない存在だと、簡単に市民に植え込める。」
「そんな!故郷まで奪われて、差別も、されるようになるの?」
私は両手で涙を拭いた。これが何の涙なのか、涙と鼻水で、ぐちゃぐちゃになっている自分の顔のように、その理由が分からなくなってきた。姉さんは極めて冷静な声で言った。
「その可能性が、大いにあると言っているのよ。まだ、どうなるか分からないわ。」
いつだって、姉さんの考えは当たる。良いことも悪いことも。
「そんな世界、耐えられない。じゃあどうなるの?どうやって暮らせば良いの?」
優秀なはずの私に、何も考えが浮かばない。よりによって、こんな肝心な時に頭が働かないなんて。自分という生き物はとんだ役立たずだ。
そして姉さんが、私の手をそっと握ってくれた。私にとっては姉さんの温もりが、お母さんのような温もりだった。生まれてからずっと、年の離れた私の世話をしてくれたのは姉さんだった。絶対的な精神の柱、揺るがない安心感、その存在が私と共に、新たな皇帝により脅かされようとしている。これ以上ない恐怖と不安が、胸を支配している。
「もしそうなれば、一緒に逃げましょう。アリス。」
「え?」
「逃げて逃げて、どこまでも逃げるの。二人で安心して暮らせる場所を見つけるまで。この広い大地、そんな場所は、いくらでもあるわ。」
本気なの?そう思って姉さんの表情を見ると、彼女の潤んだ瞳は、真っ直ぐに私を見つめていた。姉さんが本気で、こんなことを言っているのだと、状況はそれほどなのだと理解した。
「に、逃げ切れるかな……あの騎士団から。」
「それでも逃げるのよ。諦めてはいけない。大丈夫、少しぐらい怪我をしても、私なら治せるわ。」
「じゃあ姉さんが怪我したら?私は治せないよ。」
「その時は、私を置いて逃げなさい。」
姉さんが叱るように、そう言った。それは子どもの頃から、よく悪いことをした時に、叱られた時に、私を躾ける声と同じものだった。姉さんは、私にとっては唯一の家族、そんな姉さんを置いていける訳が無くて、そんなことは出来ないと思う度に、涙がまた溢れた。
「置いていくなんて、そんなこと出来ない……。」
「今から脳内でシミュレーションしなさい。」
「出来ない。想像もしたくない。」
「アリス、」
泣き崩れて、床に力なく座り込んだ私を、姉さんが優しく抱きしめてくれた。ふわりと姉さんの陽だまりのような匂いがして、私は抱きしめる力を、不意に強くしてしまった。
「アリス、あなたは私の唯一の家族。あなたには、どんな状況になっても生き抜いて欲しい。これから何度も、一人になった時のことを想像しておいて。出来るだけ私も、対処法を残しておくから。」
「……うん。」
「それから皆に言わないこと。どこに、ネビリス皇帝の信者がいるか分からないわ。」
「え?でもキリーは?キリーだったら絶対、私たちの味方になってくれるよ。」
「いいえアリス、人は分からない。いつ裏切るのか、いつ少数派である人々を虐げるか。」
「う、うん。」
密かに、姉さんと逃亡する準備を始めることになってしまった。それまでとは違って、この世界の居心地が一気に悪くなった気がした。
研究室の壁に貼ってある、私が作った、通信電波の拡張波動器の設計図が目に入った。あれを書いている時、私はシードロヴァ博士に怒っていれば良いだけで幸せだった。あの頃に戻りたかった。




