161 参りました
私は切ない顔をしながら駒を進めていった。そして一時間が経とうとしたその時だった。
「王手です。」
「……。」
私は遂に、ジェーンに王手をかけることが出来た。ジェーンはこの窮地を打開出来ないかと、真剣な顔で盤を見つめている。だが、私はにやけた。ふっふっふ……その駒をこっちにしても、あの駒をこっちにしても、ジェーンはこの王手から逃れられない。ああ、私は上機嫌で聞いた。
「参りました?」
「……。」
ジェーンはわざと首を傾げて、何を言っているのか分かりませんね、と言わんばかりの顔で、金色の髪を手櫛で整いながら、ため息をついた。
「はあ……確かに、私は詰みました。そのようですね。」
「ふふふ」私は得意げに腕を組んで、ソファに寄りかかった。「それじゃあ分からないもの。負けた人は、ちゃんと参りましたって言ってください。参りました?」
突然、ジェーンがボードの電源を落とした。セーブ機能とか無いので、彼がまた電源を入れた時には、初期の状態に戻ってしまった。そして彼は言った。
「誰が一回勝負だと言いました?次です。」
「いやいやいや!」私はブンブン首を振った。「ちょっと待って、一回でいいから!時間を見てごらんなさい、ね?もう一時だから、明日大事だから!」
「明日はチェイスを迎えに行くだけでしょう?」
「ジェーンはそうだけど、私はヴァルガと戦うでしょうが!それだって何が起こるか分からないし、万全の体制を整えることが大事だよ。ね?もう寝ようよ……。」
そうだそうだ、人生何が起こるか分からないものだ。寝不足が原因で、ヴァルガとの戦いに集中出来なくなったらどうするんだ。そりゃこの勝負をふっかけたのは私だが、長引かせるのは良くないよ。ジェーンも少し分かっているのか、ボードを眺めて少し考えている。
そして私の目をじっと見つめた彼が、不思議な発言をした。
「それでは、条件があります。」
「え?何、何の条件?」
「ゲームをしない代わりに、私と一緒の布団で寝てください。それなら私は、我が敗北を甘受し、あなたに再戦を申し込みません。あなたも早い時間に寝ることが出来るでしょう。」
何で負けた側が条件を突きつけてくるんだ……普通に敗北を受け入れて、すぐに寝れば済むことだろうが。だが、ここでその条件を飲まなかった場合、ジェーンが黙って引き下がることは無いだろう。ああ、新しい方法で攻めてきたなあ。そもそも何で一緒に寝たいんだろう。
「……そのさ、それもオフホワイトの本に書いてあったの?条件を出すみたいな、交渉術みたいな。」
「そうかもしれませんね。さあ、どうしますか?ゲームか、私と寝るか。」
ジェーンは笑みを浮かべた。オフホワイトのせいでジェーンが更に面倒くさくなってしまった。おのれオフホワイト、どうしてくれる!
あ!名案が浮かんだぞ。そうだ、こちらも条件を出せばいいのだ。目には目を、歯には歯を。ヒッヒッヒ、これは出来やしないだろうね、プライドの高い軍師さんよ!
私は笑顔で言った。
「じゃあ、参りましたって言ってくれたら一緒に寝てもいいです!」
「参りました。さあ寝ましょうね、私の寝室にご案内致します。」
そしてジェーンはリビングの電気を消した。私は暗闇の中、ジェーンの後ろをついて行く。そして寝室に入り、彼がテーブルランプをつけると、蝋燭の灯火のような淡い明かりが、彼の黒いベッドを照らした。掛け布団をめくったジェーンが寝そべった。何この雰囲気。彼はサイドテーブルに眼鏡を置くと、こちらを見ながら、ベッドをポンポンと叩いた。
「さあどうぞ、お入りください。」
「……参りました。」
「あなたにそれは求めておりません。さあ、どうぞ。それか、私が迎えに行きましょうか?ユークタワービルであなたが私にしてくれたように、私もあなたのことを抱きかかえても、よろしいが。」
それは嫌だ、よろしくない。もう断れない雰囲気なので、私は掛け布団に足を入れてベッドに座った。ああ、当たり前だが、自分のマットよりもフカフカだ。これで毎日寝ているんだから、ちょっと羨ましい。
ベッドが何度か揺れたので横を見ると、ジェーンが布団の中にすっぽりと入って、こちらを見ていた。眼鏡を掛けた彼は知的で素敵だが、眼鏡のない彼も、綺麗なヴァイオレットの瞳と長いまつ毛が直接見えていて、とても魅力的だった。私はつい顔を逸らして、ベッドフレームに寄りかかった。ぎっと木の軋む音がした。
「……どうしました、まだ寝ませんか?」
彼が聞いた。私は、もう少しこの部屋に慣れてから寝ようと思った。
「ちょっとまだ部屋に慣れてないから、もう少ししたら横になる。先に寝てていいよ。少し考え事をするから。」
「考え事ですか、それはどういったことでしょうか?」
「今日はどんな一日だった、とか、最近のこととか。明日のこととか。最近は……何だか変な感じがする。落ち着かないことが多い。何だか、私の周りが急激に変化して行くようで、それが……ごめん、もう寝る時間なのに話しかけた。寝ていいよ。」
「いえ」と、彼が少し私に近付いた。「私にお聞かせくださいキルディア。私はあなたの話が聞きたい。」
これを、カタリーナさんは将来手にするのだ。厳密には過去だが、彼女はジェーンの優しさを我が物にすることが出来る。独り占め出来る。私だって、そうしたいのかもしれない。なんて事を考えた?私は目を大げさに擦って、今の考えを吹き飛ばした。
「キルディア?」
「あ、ああ。いや……じゃあ話します。落ち着かない、というのはきっとケイト先生とクラースさんがとっても仲が良いこととか、タージュ博士が私を食事に誘ってくれて、しかもそれは二人じゃ無いとダメだったこととか、アイリーンさんはジェーンが好きだということとか、落ち着かない。でもこうして一緒にゆっくりと話していると、落ち着くことが出来る。それはジェーン、ありがとう。」
「私こそ、こうしていると落ち着きます。」
そしてジェーンが動いた。私の太ももを枕にして、私の足に抱きついてきたのだ。ちょっと驚いたが、ぎゅっとしがみつくような彼の仕草は、不思議と純粋なように見えて、私は抵抗することは無かった。でも一応聞いた。
「な、何してるの?」
「……心地が良いです。あなたは温かい。重くはありませんか?」
「大丈夫だけど……。」
彼は安心したのか、目を閉じた。実はちょっと重いけれど、気持ちが良くて、耐えられる。ちょっとだけこうしていたい。目を閉じる彼を見つめた。本当に綺麗な人だ。もし彼が女性で、私が男性で、二人とも独身で、この世界の住人だったら、と考えると、耳が熱くなった。情愛の猛りのまま、私は彼に求愛しただろう。
彼の、この頭の重みを、一生覚えておきたい。これが……恋であってもいい。そう思った瞬間に、胸の中で、解放されたような爽快感が広がった。そうか、これが恋だったのか。今、一緒に居られることの、なんと幸せなことか。じっと彼の美しい寝顔を眺めていると、彼のまつ毛がピクッと揺れた。
「ちょっと、あなたの息が荒いようで、顔にかかるのですが。」
「あ!ごめんごめん!」私は顔を遠ざけた。「ふふっ……。」
私としたことが、少々興奮してしまったようだ。顔を遠ざけたまま、私はジェーンの顔に興味本位で手を近付けた。眉毛を撫でる。じっとしている。今度は長いまつ毛を、優しく指先で撫でた。どれだけ近くで見ても、乱れない美しさだ。
「……苦しい。」
「え?」急な彼の発言に、私は焦って指を遠ざけた。「目が痛かった?ごめん。」
「違います」と、彼が目を開け、遠くを見つめたまま言った。「これだけ近くにいて、これだけ落ち着くのに、これは永久では無い。それが苦しいのです。」
そんな事を言わないで欲しかった。永久では無いこと、それが私をも苦しめていることは事実だが、あなたには帰る場所がある。ジェーンが帰る事を苦しいと思わないように、支えてあげたい。私はアームの手で、ジェーンの胸に手を当てた。
「大丈夫、どこに行っても私はそばにいるよ。ジェーンのここに居るから、大丈夫。」
「……ですから」彼は私の金属の手を握った。「そのような子供だましの偏屈を、私は必要としていないのです。あなたは、私が居なくなったら辛いですか?単純に、聞いています。」
「ええ?そりゃあ……居なくなったら辛いです。こんなにお猿さんの毛づくろいのような真似をするくらいだもの。ジェーンが帰ったら寂しい。けどいいの。いつの日か、良い思い出だったと、幸せに思う時が来るから。」
「納得出来ませんね。」何に納得出来ないんだ、私は苦笑いした。
「あなたが居なければ、私は暗闇で一人、抱き枕を涙に染めて、眠るでしょうね。それのどこが幸せですか。もう良いです、寝ましょう。寝てください。」
はいはい、と小声で答えた私は、布団の中に潜った。ジェーンがランプの明かりを消してくれた。何も見えないくらいに真っ暗だ。私はジェーンに背を向けて脱力し、彼に言った。
「おやすみ。」
「お休みなさい、キルディア。」
多分、彼は私の方を向いて横になっていると思う。鼻息が後頭部に当たっているんだもの。
「ねえ、近くない?」
「同じベットですからね、それに私は、そこそこ背が高いので、それを考えて見てください。」
「そうですね、もういいや。」
私は目を閉じた。
夢の中で、ブレイブホース大の将棋の駒に乗って、ジェーンと剣をぶつけ合い、戦い合ってしまった。
ふと起きてしまった。布団は足元に偏り、仰向けで寝ていた私のお腹には、ジェーンの頭があった。私を枕がわりにしているとは、ちょっとどかそうか迷ったが、気持ちよさそうに寝息を立てていたので、そのままにすることにした。
時間はまだ朝の四時だった。今日はジェーンが前線に立つ日だ。私はジェーンの頭を優しく撫でて、また眠りについた。




