138 玄関前の訪ね人
店の外に出てウォッフォンの時計を見ると、二十二時だった。
「大丈夫?ラブ博士。」
私の質問にラブ博士は頷いた。飲み終えてバーを出た我々は、帰る方向が違うので、店の前の道路で少し話をしていた。暗いサンセット通りの街灯の下でラブ博士は、酔い潰れてヘナヘナとワカメのような動きをしているリンを支えている。博士は言った。
「ボスや部長は明日、大事な会議がありますから、俺が彼女を送ります。大丈夫です、家はこいつに聞きますから。」
もうこの日だけで既にコイツ呼ばわりされてしまっている……。
「そ、そっか、じゃあよろしくお願いします。ごめんね。今日は楽しかった。」
私は手を振った。ジェーンはお辞儀をした。ラブ博士は両手が塞がっているので、そのままコクっと頭を下げた。
「こちらこそ、久々にとても楽しいひと時でした。では。」
ラブ博士はベロベロのリンを支えながら、ユークの住宅街に向かって歩き始めた。私とジェーンも家に向かって少し歩いた時に、背後から声が聞こえた。
「ンヘ~ラブ博士、私を送ってくれるの~ん?」
本当に大丈夫か心配になって振り向いたが、ラブ博士が「うるさい」と、適当にあしらっているのが見えたので、彼は強いから大丈夫だろうと思うことにした。
それにしても、バーでは先程まで楽しげに素粒子がどうのこうのと楽しげにラブ博士と会話していたジェーンが何も言わない。通りをまっすぐ行けば家があるので、徐々に帰宅が迫ってくるが、やはり無言だった。ひも理論がどうのこうの、博士と語らいでいたのに……やはり相手が私では遠慮して話すことも限定するんだろうか。ちょっと、彼をチラッと見た。
すると何やら真剣な表情で、何か考えているようだった。今話しかけたら邪魔かな。そう思った私は、とにかく黙って歩いた。波の音、潮の匂い、月が明るかった。二人分の足音はするが、言葉は無い。少し寂しい。でも、ほろ酔い気分なので、そこまで凹むことは無かった。
少しすると、自宅がもうそこまで近付いてきたので、私は小走りで先に玄関に向かった。先にドアを開けて、支えてあげようと思った。「どうぞ」「ありがとうございます、ただいま戻りました」「お帰りなさい、私もただいま」そんな会話が出来れば、それだけで嬉しい。
だが走った先に、誰かが立っていて、私は驚き、立ち止まった。玄関の前に居たのは、アイリーンさんだった。今夜は、白いワンピースを着ていた。彼女は目を丸くしていて、少し後にジェーンが私の隣に来ると、二人の服装に何を思ったのか、疑い始めた。
「そう、デートは楽しかったですか?博士。」
「アイリーン……何か、用ですか?」
「ええ、話したくて。今から少し、良いでしょうか?」
ジェーンは私を見た。私は別に、彼の行動を制限する権利は無いから、頷いて彼をその場に残し、先に部屋に戻ろうと思った。アイリーンさんとすれ違った時に、例のフェロモン香水の匂いがした。確かに良い匂いだ。少し、心配になった。
だがその心配も、吹き飛んでしまった。玄関に向かっていた時に、階段上で、誰かが隠れてこちらを伺っているのを発見したからだ。一瞬誰だか驚いたけど、すぐに犯人が分かって、私は笑いをどうにか堪えながら階段を上った。クラースさんがクリアリングのしゃがみをして、何故か大きなスコップを構えていた。私は彼に小声で話しかけた。
「ねえクラースさん、何やってるの?」
「何ってお前」と、クラースさんが振り向いた。「不審者がうろついてるから警戒しているだけだ。お前……今夜は随分とめかしこんでるじゃ無いか、あそこに居るジェーンもだが。」
「さっきまでリンとラブ博士と食事してたんだよ。あそこの彼女はジェーンの元秘書のアイリーンさんだよ。家に来るのは意外だったけど。」
「そうだ、お前たちは連合の要なんだ、あのアイリーンだって、急に何をしでかすのか分かったもんじゃ無い。これくらいして普通だ。」
クラースさんはまだジッと二人の様子を監視している。確かに、いきなりジェーンが危険な目に遭う可能性もある……この前みたいにね!だから見張るべきなのだろう。
私もその場所から二人のことを見たが、アイリーンさんが砂浜に行こうとしていて、ジェーンが道路で立ち止まったまま動かない様子だった。私は気になっていることをクラースさんに、また小声で聞いた。
「言いたいことは分かるけどさ、クラースさん、そもそもなんでこんな時間にここに居るの?」
「……。」
やっぱりな。私でも分かる。本当はこの扉の奥に守りたい人が居るってことが。更に私は聞いた。
「今日は泊まりなの?」
「……見張りだ。」
なるほどね、泊まりじゃなくて見張りに来たんだね。それなら仕方ない。クラースさんの新手の言い訳に納得したふりをして、私は彼の隣にしゃがんだ。物音を立てずに静かにしていると、元々静かな通りだからか、ジェーン達の声が聞こえた。
「はぁ……」ため息をついたのは、アイリーンさんだ。「シードロヴァ博士、どうして連絡を返してくれなかったんです?パーティクルの新しい周回層を発見したと、重要な連絡でしたのに。」
ジェーンは腕を組んで、軽く仁王立ちをして、答えた。
「それは重要です。その発見は魔工学において、新たな道筋を作ることでしょう。申し訳ない、営業時間内でしたら返事をしたのですが。」
営業時間内じゃないとメール返さないのか。そんなに不精な人だったっけ?そしてアイリーンさんは戸惑った様子で訴えた。
「それでは研究所の営業時間外では、私と連絡を取らないと仰るのですか?こんな大事なことでも……。」
「大事です。ですが私は、私の生活も大事にしています。研究だけが人生では無い、今という時間を噛み締めたい、最近は特にそう思います。」
それもそうか、もう彼はいつでも帰れるのだから。するとアイリーンさんがジェーンに一歩近づいて聞いた。
「それは、博士が過去から来た人間だからですか?火山で旧採掘道を通れたのは、博士が過去の人間だったからだと、記事で読みました。」
「ええ、その通りです。私はいつか居なくなります。あなたの研究に助言するのは構いませんが、私が居る間は、このような対応が続くとお考えください。」
「……そうですか、いつかは帰る。だからこそ、ここに居る間は、研究以外の時間を大切にしたいのですね。キルディアさんも、今夜は大変綺麗な格好です。どうして彼女はシードロヴァ博士の自宅に?」
「いえ、彼女と同じ部屋で暮らしています。」
ふっ、と隣のクラースさんが笑ったのが聞こえた。何故ならそれを聞いた途端、アイリーンさんが目をカッと見開いた表情で、こちらの方を振り向いたからだった。ちょっと怖い。私は身を縮こめて、視線を逸らした。
「……それは、彼女と暮らしているのは、何故ですか?」
アイリーンさんの声が聞こえたので、彼らの方に視線を戻すと、アイリーンさんはまだこちらをジッと睨んでいて、ジェーンも我々の方に視線を向けていた。ジェーンは答えた。
「これ以上は話すことはございません。本日あなたが私に行った衝動性のある性的な行為、それで、私の中のあなたの信頼性が消えました。研究に熱心なのは素晴らしいことです。あなたの検証が事実なら、あなたの実力は私以上かもしれません。研究において協力はします。ですが人間としては……。」
アイリーンさんがジェーンを見て、胸を押さえながら訴えた。
「あれは……大変下劣な行為でした。私の中で、帝国研究所で共に仕事をした時の喜び、胸の高鳴り、充実したひと時でした。それは博士も同じだと思っておりました。実際に博士は、研究室で私と二人きりで残業をしていた時のことです。良ければと、飲みかけのドリンクを私にくれました。私は間接的な接吻をしたのです。それは忘れられない、一生の味になりました。」
堪えろ、堪えろ、お前なら出来るキルディア!だが隣の男は堪え切れずにむせこんでしまった。それはいけないよジェーン、そんな密室でまさか間接キスを秘書とするなんて……と、ちょっと冗談でそう思ったが、よく思い出してみれば私の場合、数え切れないほどジェーンとそんなことをしている。日々の夕食のおかず交換、火山での水筒、オフィスでのお茶。
元々、私はそういうのをあまり気にしない性格だから思うのだが、ジェーンも同じく気にしないで、そういう行動をとったのでは?アイリーンさんは、それは特別な行為だと思っていた様だけど……ただまあ、親しい仲でしかしないことだろうから、アイリーンさんの気持ちも分かる気がする。
するとジェーンがそれについて話し始めた。
「あのドリンクは、差し入れてくれた部下には申し訳ないことですが、あまり私の好みの味ではありませんでした。口を付けたものをあなたに差し出してしまったのは、私の落ち度です。申し訳ございません。ですが、あの行為に深い意味は無く、ゴミ箱に放り込む前に、あなたが飲むか確認をしただけです。」
「私は、嬉しかったのです。」アイリーンさん、スルースキルがすごい。「ここまで博士と打ち解けた。私は毎日、どんなに辛いことがあっても、博士が同じ職場に居るから、乗り越えられました。私は正直に申します。シードロヴァ博士が好きです。心から、愛しております。」
「私には妻がいます。」
ジェーンが即答した。そうだそうだ、しかも超ド級のご令嬢だぞ。しかしアイリーンさんは首を振り、ジェーンに言った。
「存じ上げております!それは過去の世界に居ると……知り合いの研究員に聞きました。」
「それは誰ですか?」
「どうか、話を逸らそうとしないでください。それはグレン研究所のスコピオ博士ですが、私があなたを想う気持ちは、誰にも負けません!」
静かなサンセット通りにアイリーンさんの声が響いた。アイリーンさん、スコピオ博士に聞いたのか……確かに今のスコピオ博士はジェーンファンクラブの名誉会長だろうから、大好きなジェーンのことを聞かれたら、それぐらい喜んで教えちゃうだろう。
しかし、アイリーンさんが持っている様な、確かな想いって、どうすれば知ることが出来るだろうか。私は少し、アイリーンさんが羨ましくなった。
仁王立ちのまま会話をしていたジェーンが、その姿勢を辞めて、少しの間のあとに、口を開いた。
「あなたが私を想う気持ちはそうであれ、私が誰かを想う気持ちも、誰にも負けません。私の胸の中の気持ちは、何者も万物も侵略を許されない、絶対領域です。そして、ここにある二つの感情の、ベクトルは全くの別方向です。お応え出来ず、申し訳ない。」
「……。」
アイリーンさんが黙ってしまった。ジェーンは誰かのことをそんなにも強く想っている、それはひょっとすると私だろうか。そうだとしたら、嬉しくて、でも心の奥底がひしひしと怖い。不思議な気持ちだった。まだ、ほろ酔い気分だから良かった。
「では、」ジェーンがアイリーンさんに言った。「あとは、また明日の営業時間内に返事を致します。それでは、お気をつけてお帰りください。」
ジェーンがこちらに向かって歩いてきた。するとアイリーンさんが、ジェーンに慌てて声を掛けた。




