136 雰囲気の良いバー
ああ、気分が重い。こんなに重いのは、ギルバート騒動の時以来だ。今夜の合コン、バーでの待ち合わせは二十時だった。
研究所の定時が十七時なので、それまでちょっと時間がある。無駄な残業をして、ジェーンと帰宅時間が被らないようにして、ポータルで彼が帰宅したのを確認してから、私は研究所を出た。
帰宅して、キッチンで麦茶を飲んでいると、背後から「お帰りなさい……私は先に現地に向かいましょうか?」と聞かれたので、私は無言でうんと頷いた。すぐに玄関が閉められた音がした。
はあ、なんて子どもじみた拗ね方をしてるんだ。ため息をついてグラスを持ったままソファに向かう時に、彼の香水の香りがして、思わず立ち止まってしまった。
私はどれくらい彼のことが好きなのだろうか。どれくらい好きだったらこうまでなるんだろうか。ジェーンが別の人とキスをしているのを見て、私は内臓をえぐられるような心持ちになった。どれほど……いかほど……
「いかほど~~~!」
もう仕方ない。今日は飲むぞ。ベロベロで帰宅して、明日の会議に備えよう。私はカーテンの部屋内で、それっぽい服装にサッと着替えて、部屋を後にした。
サンセット通りは、まっすぐな道がずっと続いている海岸通りの道だ。はるか前方にジェーンらしき影の人物が歩いているのが見えた。
目を凝らしてよく見て見たが、保護色なのか、夜に紛れたジェーンはあまりよく見えなかった。私もいつもの服装では無いけれど。もう暗くなった通りをゆっくり歩いて、約束の場所へ向かった。
海岸沿いのお店が立ち並ぶエリアの真ん中らへんに、そのバーはあった。ログハウス長の建物で、店内は暖色の間接照明を使っていて、ちょっと薄暗い。バーテンダーのおじさんと綺麗な店員のお姉さん、皆ボルドー色のシャツに黒いベストを合わせて、高級感があった。
リンの名前を伝えると、窓際の一番端のテーブル席に案内された。もう既にジェーンが着席しており、私が来たことに気付くと彼は立ち上がって、執事のように私の椅子を引いてくれた。真四角のテーブル席で、彼は私の隣……と言っても斜め前に座った。慣れないヒールだったからか、座った時にじんわりと足の裏が熱くなった。
窓から見える夜の海も綺麗だ。まだリン達は来ていないが、なんだか緊張してきた。この店内のムードがいけないよ。テーブルにはワインレッド色のテーブルクロスが掛けられていて、中心には丸いグラスに小さなキャンドルが入っていて、その可愛らしい灯火が、グラスをゆらゆらと照らしている。
ジェーンはいつもの清楚な感じとは違い、いつものベストは無く、チャコールグレーのシルクシャツに、黒いネクタイを合わせているワイルドなスタイルだった。髪型は前髪を残して後ろに一つで結んでいたが、よく似合う格好だった。
だからさっき、保護色で夜に紛れてよく見えなかったのか。でもいつもと違う攻めたファッションの彼に、少しどきっとした。
ああ、まだリンは来ないのかな。周りの席を眺めると、店内には他にもお客さんが何人か居て、皆、話をするのに夢中になっているようだ。薄暗いからか、まだ我々のことに気付いていないようだ。もしかしたら知らないフリだろうけれど。視線をテーブルに戻すと、ジェーンと目が合った。
「な、何……」
「いえ、今夜のあなた、すごく綺麗だと思いました。」
グオオ……早々に何を言い始めるんだ。そういうのはアイリーンさんにでもカタリーナさんにでも言ってくれなのだ。でも折角そう言ってくれたのだから、私も何かジェーンのことを褒めようと思った。
「ジェーンこそ、いつもと違ってすごく……なんていうか、攻めてる感じで、す、す、素敵だよ。」
「ふふ……」彼は嬉しそうに微笑んだ。いつも見せないような彼の表情が可愛くて苦し「今夜の私はセクシーですか?」
何だろう、そんなにストレートに言う?疑問に思っている隙に、テーブルに置いてあった私の左手を、彼がぎゅっと握ってしまった。何だろう、今夜はグイグイくるな……私は店内を見回して、まだリン達が来ていないことを確認して、手をそのままにした。
「キルディア、今日はごめんなさい。あんなに突飛な行動をとるアイリーンは初めてで、それであなたも、あからさまに妬いてくれたので、つい嬉しくなってしまいました。」
「ああそう……まあ、私は素直ですからね。でも、分かったよ、アイリーンさんはジェーンのことが好きなんだろうなぁ。私は別に、ジェーンの関係を制限する立場に無いから、私が怒るって言うのも筋が違うんだろうけど。」
「いえ、我々の関係は、普通ではありません。ここに席は二つしかありません。そしてその二つに座っているのは、明瞭にあなたと私です。増やすことも、減らすことも出来ない。」
「え?席なら四つあるよ?このテーブル。」
「……例え話です。」
ああ、そう言う意味ね!失敬失敬……でもまあ、嬉しかった。そうそう、彼の言う通り、ここには席は二つしかないのだ。増やすことも減らすこともないのだ。私はご機嫌になった。
「しかし、」ふう、とジェーンが恍惚のため息をついた。「あなたも、このように女性らしい服装を召されるとは、予想もしませんでした。これは、以前より所持していたのですか?」
今夜、私はネイビーの膝丈のレースワンピースを着ている。オフショルダーで肩が見えるので、アームが目立たないように、肩に同じく紺色のショールを羽織っている。履いているヒールは黒だ。
他にも実は赤いワンピースを持っていたが、今日の主役はリンなので、あまり目立たないカラーを着ようと思った。それにこういったスカート的な服装は久々なので、恥ずかしいから控えめなカラーが良かった。
「持っていたことは持っていたけれど、滅多に着た事ないよ。サンセット通りでモンスターをいつものように狩った時に、近所のアパレル関係の仕事の方から貰ったの。」
「そうでしたか、凄く似合っていますよ。」
「ジェーンは?そのシャツ持っていたの?」
「はい。帝都に居た頃に、帝国研究所の関係者の結婚式に呼ばれることもありましたので、その時の服ではありますが……キルディアは、私のこの格好は、好きですか?」
そんなダイレクトに聞く?私はにやけながら答えた。
「うふーん……んん~、私は好きだよ。うん。いつもと違って、ワイルドな感じがして。いつもの優しい紳士的な格好も好きだけど。それもいい。」
「そうですか、ふふ。」
ジェーンがじっと見てくる。今日はもうハグは絶対にしないようにしよう。もしハグしたら、我々は仲直りするどころか、どこか異次元に行ってしまうような気がする。ちょっと怖いし、よろしくない。
するとその時、私のウォッフォンが鳴った。今日この会に呼んだ、彼からの着信だった。
『お疲れ様です。』
「お疲れ様です。今どこです?」
『……何を着ていけばよろしいのか?』
「まだ家を出てなかったんかい……うーんそうだね、」とここで、私の通話を隣で聞いていたジェーンが真顔で腕を組み始めた。そうだ、彼を参考にしよう。「ダークトーンのシャツみたいに、ちょっと攻めてる服装がいいと思う。そうだ!前に隠れ家バーボンで偶々会った時の髪型がいいと思うな、出来れば。」
『分かりました。』
通話を切ると、すぐにジェーンが私に聞いた。
「行動にツッコミを入れていましたね。随分とその方とはお親しいようだ。」
「まあ……普通に親しいよ、来たら分かる。ああ、なるほどって。」
私はそう言って、テーブルの上に置かれた彼の手をポンと軽く叩いた。するとその手をジェーンが掴んでしまった。そしてじっと私を見つめてきたのだ……今夜はグイグイくるな。
「バーでお会いしたようですが、一人でバーに行かれた時にお会いした人でしょうか?」
「いや、元々知ってた人だよ、前の所長だった時に仕事で滅茶苦茶ストレス溜まったから美味しいお酒が飲みたくなって、珍しく一人で行った時に、偶々そこに彼がいた。でも互いに知ってたから、おお!って合流して一緒に飲んだだけ……ジェーン、ちょっといい?なんかいつもより、様子が違うけれど、どうしたの?」
「そうですか?」瞬きの多いジェーンが、私の手の甲を、親指で撫で始めた。「そうですね……ねえキルディア、」
「なあに?」
「帰ったら、私のお尻を触ってください。」
私は今、完全に顔が赤いだろう。暑くて熱くて仕方ない。いきなりなんて発言をするんだこの人は。もう飲んでいるのか?いや、テーブルの上にあるのはお冷だけだ……私はそのお冷を一気にごくっと飲み干した。からかっているのかと思って彼の方を見ると、結構顔が真っ赤になっていた。
とすると彼は本気で言っているのか。ちょっと待ってよ。私は彼の手から自分の手をサッと引き抜いてから言った。
「パーツも全部集まったし、もう組み立てたら帰るだけでしょ?あまり私にそう、なんていうか、からかわないでよ。お尻だって触れないよ。先代の陛下が見てるもの。」
「まだ帰りません。前にも言いましたが、公共の場では抽象的にしか言えませんが、あなたが平和に暮らせるようになるまで、私は帰りません。他にも色々と案を練っている最中です。私はからかってなど、そんなつもりは微塵もございません。そしてお尻は触って頂きます。先代の陛下も、我々の蜜月によるこの奇怪な行動の理由が、この現象の解明であることを知れば、ああそうかとパチンと指を鳴らして納得されることでしょう。あなたは、この感情の正体が何なのか、知りたくはないのですか?」
「……それが知りたいから尻を触れと、」
「ええまあ。知りたいから、尻を……またリンのようなことを。」
「嘘ですって、ごめんなさい。で、でもそんなぁ、私じゃないとダメなの?」
「いけません。これは我々の間に生じている現象です。我々が向き合うべき感情です。立証、準備、実験、結果、それら全てを私は記録します。あなたが触ってください。それに……あなたこそ私にお戯れが過ぎます。」
「ええ?」私は顔が赤いまま、首を傾げた。「いつ私が?」
「そのように、戯れに、瞳が綺麗です。私はいつも、目を奪われます。」
これは何だろう、胸が死にそうだ。側から見たら、ジェーンは私を口説いていないか?いや、そんな筈はない。我々はソウルメイトなのだ……あああ、椅子に深く座って、ミイラのように腕をクロスさせて目を閉じた。ジェーンが「ふふ」と笑った声が微かに聞こえた。




