135 初めての相手
ロビーのソファでは、まだアイリーンさんが寝息を立てていて、私はその向かいの席で座って、PCで作業をしていた。クラースさんに頼まれたケイト先生の依頼は、アイリーンさんが起きてから行おうと思った。
ジェーンは彼の研究室に籠っているが……あんちくしょーめ、私の新しいアームを作ってくれているのはありがたいが、しれっと私の捕獲機まで作っていたとは。水を与えてはいけないタイプの魚だったようだ。スイスイと好き勝手泳いでは、荒波を立てている。
「キルディア、」
「わああああ!?」
振り向けば、ジェーンが居た。時々足音がしないのはどうしてなのか、ちょっと心臓に悪い。私はジェーンを睨んだ。ジェーンは私の隣に座った。
「すみません、驚かせましたね。」
「ま、まあ少し驚いたけど……何か用事でも?」
「はい、実は今夜なのですが服装が「う……。」
呻いたのはアイリーンさんだった。見れば、目をこすりながら体を起こし始めていた。私は咄嗟に彼女の背中を支えて起きるのを手伝ったが、何故か睨まれてしまった。きっと私を犯人だと思ったのか?傷付けるつもりはないと、両手のひらを彼女に向けて言った。
「わ、私はここの所長です。入り口であなたが倒れていたから、ここまで連れてきて……今、医師を呼びますね。」
「そうですとも、彼女はあなたを助けたのです。睨むのはおやめなさい。」
と、ジェーンが行ったその瞬間、アイリーンさんはジェーンが側にいるのを発見し、パッと明るい笑顔に変わった。更に間髪入れずに、アイリーンさんはコーヒーテーブルを飛び越えて、ジェーンの膝の上に座り、彼に熱烈なハグをしたのだ。スリスリと頬を寄せられて、ジェーンはポカンとしているし、私だって呆気にとられて、ポカンとした。
「ああ!シードロヴァ博士!お会いしたいと思っておりました!あなたを慕い、毎晩月を見ては同じ月を見ているだろう博士のことを想って、涙を流しました!私の事を、真剣に考えていると仰っておりましたね。お忘れではございませんか?」
「え……?」
どう言う事だろう。この人、ただの秘書じゃないの?結構顔に出ちゃっていたのか、いつの間にか隣に立っていたリンが、私を宥めるために背中をさすってくれている。かく言うジェーンは、やれやれとため息をついてはいるが、アイリーンを引き剥がそうとはしない。何だろうこれ、何なんだろうこれは。
「アイリーン……」ジェーンはため息交じりに言った。「真剣に考えるとは、あなたの処遇についてです。あなたは研究者として優秀ですから、更に上を目指しても良いと、そう意味でですね、私は発言を。」
「ですが、」
アイリーンはジェーンの首に手を回して、至近距離で彼を見つめながら言った。その距離感、どうにかならないんだろうか。どこまで進んだら引き剥がしていいの?歯を食いしばっていると、私をちらっと見たジェーンが一瞬、満足げに眉を揺らした。
するとなんてこった、彼はアイリーンの細い腰に手を回したのだ。あんな破廉恥な体勢、私だってジェーンとしたことは無いのに!きっと彼は私を妬かせようとしているに違いない。しかしそれは効果抜群だ!胃がギリギリしている。追い討ちをかけるように、隣でリンがゲラゲラ笑っている。この笑い袋め!
今にも鼻と鼻がくっつきそうな状態のまま、アイリーンはジェーンに言った。
「私は博士が研究所から去る時も伝えましたが、やはりこの心は抑えきれないのです。今この情勢になって、博士が危険な道を歩んでいることも理解していますが、私は帝国研究所を抜けて、博士の下でまた研究を続けたかった。だから、城下からどうにか逃げて、ここまでやって来て、気合を入れてサプリを飲もうとしたら、間違えて眠剤を飲んでしまったのは……少し恥ずかしいところですが、私は、博士の下で研究を続けたいのです!」
えええ……と言っても、今は研究員募集をしていない。何故ならこんな状況だからである。もう少し落ち着いたら依頼も増やしていきたいから、研究員募集をかけようかと思っていたけれど、どうしようか……。
てか、この人、いつもこんな距離感でジェーンと共に居たのかな。それってどうなの?ジェーンこそ、私とこんなに仲良くなったの初めてとか言っているのに、それって嘘だったのかな。私は取り敢えず、アイリーンさんに聞いた。
「と言うことは、アイリーンさんはジェーンを追って、帝都からどうにかここまでやって来たんですね?」
「そうだと、言いましたけれど。」
何を言ってんだこいつと言わんばかりの視線を私に向けて来た……辛い。更にアイリーンさんはジェーンの首元に頬を寄せて、いいでしょ?ふふふ、と顔から滲み出る程の、挑発的な視線を私にぶつけた。
「ああ、あなた、ニュースで見る顔よりも実物の方が……いえいえ、キルディアさんですね。こんなに優秀な博士と組めて、羨ましい限りですわ。」
「ああそう……まあ、ジェーンと組めて色々とあるけれど。じゃあ、アイリーンさんは、その、ここに来たいの?」
「私はただ博士と見聞を深めたいのです。ここで働き、給料をもらうことは望んでおりません。ただ、私はユークアイランドのウォルズ社の研究開発に転職をしたので、度々お会いすることは許して頂きたいのです。シードロヴァ博士も、私の、セルパーティクル理論の行方が気になるでしょう?」
猫なで声でジェーンにそう聞いた。これは地獄だろうか。この途轍もない目の前の地獄は、一体私をどれだけ苦しめれば気が済むのか。ジェーンは腰に手を回すのをやめて、アイリーンに言った。
「確かに、行方は気になります。あなたがウォルズ社にいるのなら、研究において情報交換をすることは魅力的ですね。」
はいはいそうですか、お熱いことだ。じゃあ後はもう二人で話せばいいんんじゃないの?アイリーンさんは私を邪魔だと思ってるっぽいし……と、踵を返してカウンターに向かおうとしたら、リンが私の腕を組んで付いて来て、小声で私に聞いた。
「ねえ、今夜さあ、ジェーンも来るんだろうけど、アイリーンさんも呼べば?それでキリーのお相手になる誰かも誘おうよ、タージュ博士とか。」
「ぶっ……何その地獄絵図。アイリーンさんが来たいって言うのなら、いいけど。どうして私の相手がタージュ博士……。」
「まあ確かにちょっと年上だったかな。じゃあ私の大学の同期を呼ぶよ!それでいい?」
「キルディア、」
声がしたので振り返ると、ジェーンが私に向かって突撃してくる瞬間だった。そのままリンから私を奪ったジェーンは、少し離れたところまで私の腕を引いて歩き、皆に聞こえないように私に小声で訴えた。
「どうして置いていきますか!?」
「どうしてって!」私も小声のまま、つい熱くなる。「あの元秘書さんと、とっても仲良さげじゃないの!いいじゃない、普通に再会を分かち合えば。それに何あの体勢!まるで恋人のような破廉恥……あれは日常的に行われていたの?だったとしたら、私、ちょっと驚きすぎてお腹下しそうだよ。」
「あれは」ジェーンは狼狽えた様子で答えた。「あなたが見ていたから、あなたが私にヤキモチを焼いてくれたから、試しに彼女の好きにさせた結果です。あんなこと、過去に一度もしたことはありませんよ。あなただって、ギルバートとの関係を意味ありげに保持していたではありませんか!その時、私がどれほど嫉妬したか、分かりますか?今、どれくらいあなたは、私に妬いてくれているのでしょう?それは私と同程度ですか?ならば腑が煮えくりかえる程だ。」
「だっ、だから、それ程、結構だよ!……」チラッとアイリーンさんを見ると、悔しいことに、テレビモニターのCMのように、すらっと美しく立ち上がって、こちらを見ていた。
「ジェーンの同じぐらい、や、妬いてる。でも私の場合はさ、ギルバートとの噂ってだけで、実際にあんな破廉恥に座ってないもん!だからいいよ、今日の合コン、リンの提案どおりにアイリーンさんとタージュ博士か、リンの大学の同期も誘おう。こうなりゃヤケだ、お祭りだ。」
「タージュ!?」つい声が大きくなってしまったジェーンが、前髪をかきあげて動揺しながら言った。「何故タージュが候補に?まさかあなたを狙っているとか?馬鹿馬鹿しい、あの男に持ち帰られることは、骨折れ損のくたびれ儲け、いえ、百害あって一利なしです。リンの同期だってどうせ遊び人です、どうかヤケになるのはおやめください。先程の件は謝りますから……今日の合コンは予定通りの人数で行きましょう?」
あんたの部下だと言うのに酷い言い草だ……しかしあのような破廉恥ラブラブ座り、思い出す度にグルグルとお腹が唸る。私の気は収まらない。
「じゃあさ、合コン行ってもいいけど、今日の夜のハグは絶対に無しね。」
「……なりません。」
「嫌だよ、あんな破廉恥、ワザと起こしておいて。」
「破廉恥破廉恥って、あなたとチェイスの方が破廉恥ではありませんか。」
「ぶっ……あれは事故」
「シードロヴァ博士、」
振り返れば、アイリーンさんがそこに居た。カモシカのような美しい目で、私とジェーンを交互に見た。隣にはリンが立っていて、気味の悪い程にニヤニヤしていた。この一連の流れを聞いていたのかもしれない。アイリーンさんは言った。
「どうやらお邪魔をしてしまったようですね。私としては、今後研究について博士とお話できれば、それで構いません……それはお許し頂けますか?」
「え、ええ。」と、ジェーンが答えた。
「ですがシードロヴァ博士、少し、二、三確認したい点があります。境界線について。」
「はい、それはどのような話ですか?」
と、ジェーンはいつもの真剣な表情で、アイリーンの話を聞こうと彼女に近づいた。ここからは研究の話になりそうだったので、私はあとはリンに任せて、ケイト先生に報告だけでもしに行こうとしたが、その時だった。
アイリーンさんが、ジェーンのネクタイを引っ張って、彼と口づけをしたのだ。
頭の中が真っ白になった。何してる?何?何が起きたの?
彼は誰ともキスをしたことが無かった。彼の初めてはアイリーンさんになってしまった。その座に私は着けないとは思っていたが、これ程にショックを受けたことは今までに無い。
それはもう今までに無さすぎて、一瞬で沸点に達した私は、二人に近付いてジェーンの腕を引いて、それをやめさせた。結果的に一秒ぐらいで止められたが、出来れば、完全に阻止したかった。
「な、何してる……!もう二度と、この研究所内で好き勝手しないでください!」
「あら!」アイリーンさんは顎を上げて、私を見下ろした。「あなたがどうして怒るの?別に構いませんよね、博士?」
そして驚くべき事実がそこにあったことに気付いた。なんと、ジェーンが手で口を隠し、笑いを堪えていたのだ。私は一気にムッとした。
「もういい、もういいよ!私は……どうぞ二人は好きに過ごしてください。ああああ!あああああああ!」
叫びながら走ってケイト先生のところへ向かった。その後三人がどう過ごしたのか、メールをよこしたリンによれば、アイリーンさんはジェーンに注意をされた後、研究の話をしばらくしてから帰ったらしいが、私は医務室の片隅で、PCでずっと作業をし、極力ジェーンに会わないようにした。
ケイト先生は度々私に、「あなたずっとそこにいるの?」と聞いてきたが、訳を話すと、「素直じゃ無いんだから、まあ好きにしなさい」と応援してくれた。何が素直じゃ無いんだ、素直すぎるだろうが。こんなに動揺したことは初めてで、誰に対しても怒ってしまいそうで、それが怖くて、結局定時になるまでずっとそこに居た。
定時になった時に、ジェーンからメッセージが来た。『何処にいるのかは理解しています。今日は不誠実な対応をしてしまいました。申し訳ございません。お食事会には行かれますか?』という内容だった。私は『行きますが、先に現地に向かっていてください。』と連絡した。『承知致しました。』とそれだけ返ってきた。




