表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

影に住む人

作者: 仔象

家のそばの住宅地を母とふたりで歩いていた。ぼくは歩きながらヘッドホンで音楽を聞きながらだった。ヘッドホンからはドラムとギター、ベースのシンプルなスリーピースバンドの曲が流れている。太くあたたかい男性ボーカルが自然に耳に入ってきた。リズムに合わせて歩くのは気分がいい。

今日は母の買い物に付き合った帰りで、もうすぐ家に着く。

母の後をついて歩いていると近所の公民館で、お葬式をしているのを見つけた。ぼくが足を止めたタイミングで母も立ち止まった。

参列者は二、三十人はいるだろうか。集まっているのは喪服を着た人もいるが、ほとんどが学生服らしい同じ半袖の制服だった。高校生くらいだろうか。ざっと勘定してみると女子のほうが多いみたいだ。女の子が死んだんだろうか。

ぼくはヘッドホンを外して首から掛けた。頭の中の音楽が遠ざかり、視界が広がった気がした。ぼくは音楽プレイヤーの電源を切った。人の群れはザワザワと話し声を立てている。彼らがなにを話しているかはわからないが、ぼくの耳に小さく「自殺」という単語だけが飛び込んできた。ぼくは体の芯が針で刺されたようになった。

母とふたり、足を止めたまま眺めていると、ぼくは葬儀会場には場違いな、真っ赤なミニスカートの女の子がいるのに気がついた。スカートから伸びる足が白過ぎるくらい白い。彼女は会場になっている公民館を覗き込んでいる。

彼女は戸惑っているように振り向いた。僕は、彼女と目が合った気がした。彼女はまたすぐに会場のほうに視線を戻した。その女の子は、化粧こそ厚いが、見た感じきっと学生服の子たちと同じくらいの年齢だろう。ぼくの頭にピンとくるものがあった。

ぼくは母さんに声を掛けた。

「ちょっと見てくから、先帰ってて」

母はもう慣れているのだろう。母は首を左右にゆっくりと振り、こちらを見もせずに自宅のほうへとまた足を進めはじめた。

ぼくはひとりでさっきの女の子の近くに立ち、並んで葬儀会場の公民館を覗き込んだ。ぼくが想像していた通り、遺影に写る女の子の顔は、今ぼくの横にいる彼女と同じ顔だった。彼女の視線を追う。彼女は参列者の中のひとりの女の子を見つめていた。ぼくは彼女の横に並んで立ち、手を後ろ手に組むと口角を上げ、つとめて笑顔をつくった。

「自分の葬式なんて、一生に一度だぜ」

声をかけると女の子が口を大きくあけ、驚いたような表情をこちらに向けた。

「あなた、わたしが見えるの?」


五分後、ぼくと女の子はふたりで公民館の近くの駐車場の低い塀に並んで腰掛けていた。死んだあとでも、立っているよりは座っているほうが楽なのだろう。まだ葬儀は続いている。駐車場に車の出入りはなかった。

彼女はうつむき黙りこんでいた。ぼくは彼女のほうに顔の向きを変えた

「きみ、名前は?」

女の子が「ハル」とだけ呟くように言った。

ぼくは腕組みした。

「さっきだれかが言ってたのが耳に入った。ハルが死んだのは自殺なのか?またなんで?」

ぼくは促した。

彼女はイヤイヤするように首を左右に振った。唇がへの字に歪み力が入っているのが見てとれた。ぼくは彼女を安心させるよう、つとめて柔らかい表情を作った。

「何か力になれるかもしれない」

そのまま四、五秒経ったろうか。彼女はうつむいたまま話し始めた。

ハルの話す声は、湿り気を帯びていた。


わたしは教室で机に突っ伏したままトイレに行ったナツを待っていた。さっきの数学の授業で眠気が倍増、ナツが帰ってくる前に本当に眠ってしまいそうだ。

教室の外からわたしを呼ぶナツの声が聞こえた。

「ハル!だれか呼びにきたよ!」

わたしたちハルナツコンビは、わたしたちのクラスでも仲がいいと評判らしい。わたしとナツは家が近く、小学校に入る前からずっと一緒だった。

わたしは振り返って教室の扉の方を見た。ナツと一緒にいるのは隣のクラスの男子だ。わたしはその男の子に見覚えがあった。たしか、ナツが好きだって言ってた男の子の、親友だったはずだ。彼は背が低く丸い体で目立たない存在だ。わたしもナツの片思いがなければその友だちのことなんて、きっと知らなかった。

そんな目立たないヤツがいったいなんの用事だろう。わたしは教室の扉までゆっくりと歩いた。彼は恥ずかしそうにひとこと「ちょっと」とだけ言うと、わたしに背を向けて歩き出した。振り向き際に見えた顔が赤い。わたしは彼の後ろ姿に声をかけた。

「なんの用?」

その子が立ち止まった。

「時間はかからない。来ればわかる」

こちらを振り返らずに答えた。よく見ると耳の後ろまで真っ赤になっているのが見えた。

わたしは左右に首を振ると、その男子の後ろをついて歩き始めた。

廊下を歩きふたつ教室を通り過ぎると階段がある。彼は階段を上がっていく。わたしも後に続いた。上がった先の四階は、家庭科室や技術室、理科実験室など専門教室の階だ。

階段を上がりきると一番手前、いつもは閉まっているはずの理科実験室の入り口の扉が開いている。

彼は扉の前で立ち止まると中には入らず、入り口から声を掛けた。

「連れてきたよ」

彼はこちらに振り向き、赤い顔でうつむきながら、手でわたしを実験室にうながした。

わたしが実験室に入ると彼の足音が遠ざかっていくのが聞こえた。

部屋の窓からは曇り空が見える。薄暗い実験室を入ったところに、また隣のクラスの男子がいた。ナツが好きだって言ってた男子だった。

こうやって間近で改めて見ると、確かにナツの言う通りカッコいい。ナツが熱を上げるわけだ。わたしは自分の気分が高揚しているのを感じていた。

彼はわたしを見つめ自信たっぷりの笑顔を作ると、口を開いた。

「ぼくと付き合ってくれないか?」

わたしは、彼に催眠術にかけられたようにうなずいていた。


わたしはナツに彼と付き合うことになったことを言えなかった。ナツが好きな彼と付き合うなんて。なんとか隠し通そうと考えていた。

でも三日も立たずにバレた。きっと誰かがチクったんだ。もしかして彼の友人だろうか。

ナツはあからさまにわたしへの態度を変えた。

仕方ないのかもしれない。相手から告白されたとは言え、ナツはわたしに取られたと思ったのだろう。

ナツは口もきいてくれなくなった。しゃべりかけても無視される。ナツはクラスの別のグループに入り、わたしはそのグループの五人からいじめられるようになった。


上履きや登校用の靴を隠され、家まで学校の来賓用スリッパで帰る、なんてかわいいもんだった。

ひとりで裏庭でお弁当を食べてから教室に帰ると黒板一面にわたしの顔の酷い似顔絵と彼とのものらしい行為の絵が描いてあった。クラス中が笑っていた。わたしが泣きそうになりながら黒板消しを動かしても、クラスのだれも手伝ってくれはしなかった。

机の中の教科書やカバンが、わたしがトイレに行っている間に水浸しになっていたこともある。

彼の告白からしばらくすると、毎晩、深夜のイタズラ電話のベルで家族みんなが眠れなくなった。電話に出ても無言で切れるだけだった。

最後にはわたしの父が怒り狂い、電話の線を引きちぎった。


男は目をつぶってわたしの話を聞いていた。腕組みをして首を振った。

「ふうん、それっぽっちで自殺を選んだのか?」

「それっぽっちでって…。あなたになにがわかるの?」

「学校なんて行かなくてもいいような気がするけど」

「わたしはがんばってた。あいつらに負けないって。でもあいつら、ひどすぎる」

わたしは自分の声がだんだんと熱を帯びていくのがわかった。


その日の四限は体育は水泳だった。わたしは水の中が好きだった。小さいころから泳ぐのが好きだったこともあるけど、水の中ならイヤなことを忘れられる気がして、わたしは水の中では夢中で手足を動かした。

その日の授業では、順番に25mプールの端まで繰り返し泳いでいた。何回目だったろう。飛び込むときに、三人見学していた中のナツのグループのヤツと目が合った気がした。

授業が終わり教室に帰った。着替えようと自分の席に行くと、机の上に置いてあるはずの着替えがなかった。制服上下とから靴下、下着まで全部ない。わたしは自分の背中から、イヤな汗が吹き出してくるのがわかった。わたしはさっき目が合った女子を目で探した。彼女はいつものグループで固まり、グループみんながわたしを見ていた。彼女たちの顔には、それぞれわたしをバカにするような笑みが貼りついていた。

わたしは頭に血が上っていくのを感じた。床を踏み締めるように歩き彼女たちの前に立った。

「わたしの服は?」

彼女たちはあからさまに目を背けた。彼女たちの貼りついた笑顔は変わらなかった。ナツだけが固い顔でわたしを見ていた。ひとりが口を開いた。さっき目が合った女だ。

「さあ?なに言ってんの?言いがかりつけんの、やめてくれない」

ナツ以外が声を上げて笑いはじめた。

わたしはナツをにらむと、振り返った。

わたしは水着にタオルを巻いたまま服を探した。ゴミ箱の中、教卓の机、掃除用具入れ。もう昼休みだった。お弁当も食べずに廊下に出た。トイレまでさがしたけど出てこない。結局わたしは午後からの授業を水着で受ける羽目になった。本当はもう家に帰りたかったが、アイツらに負けたくなかった。

授業中、先生はわたしが水着なのはきっと気付いていただろう。授業中に、先生と何度も目は合ったが彼女はなにも言わなかった。

午後からの授業も終わり、わたしは水着にタオルのまま教室を出た。階段を降りエントランスに向かう。男の子の声が聞こえた。

「お、あいつ水着じゃん。誘ってんのかな」

その声に下品な笑い声が続いた。

わたしは無視して速足で歩いた。エントランスに着き、自分の下駄箱から靴を取り出そうとした。

服はそこに有った。丸めてシワクチャになった制服と下着。わたしは、急いで水着の上から制服のブラウスとスカートを着る。下着と靴下はカバンにねじ込んだ。

わたしは下駄箱から走った。グチャグチャの服、グチャグチャの頭の中。

エントランスを抜け校門をくぐる。走るのをやめると声が出そうで、わたしは家まで足を止めなかった。


翌日、彼に会った。

それまで彼にはいじめられていることを黙っていた。原因が原因だ。でも、わたしももう限界だった。彼なら、もしかしたらなんとかしてくれるかもしれない。

わたしと彼はファミレスのテーブル席で横に並んで座った。

わたしは今までやられたことを正直に細かく彼に話した。必死だった。わたしにはもう、彼しかいない。

彼の反応は予想と違っていた。

無邪気に笑いながら、彼は口を開いた。

「ハルは真剣に考えすぎなんだよ。向こうだってどうせ飽きたらすぐにやめるよ」

そう言うと、彼はわたしの肩を抱いてわたしの顔に彼の顔を近づけてきた。わたしは顔を背けて両手で彼を押した。そのまま立ち上がり走って店の出口に向かった。背中越しに彼がわたしを呼ぶ声が聞こえた。わたしは振り返らずに店から出た。

あんなやつに相談したわたしがバカだった。

わたしも、彼も、クラスのやつも、ナツも。みんなバカばっかりだ。

気がつくとわたしは、家に帰る途中の歩道橋の階段を休み休み登っていた。自分の目に涙が溜まっているのがわかる。

わたしは登りながら寝不足のふらついた足をもてあましていた。昨夜もまともに眠れていない。手すりを使いなんとか体を引っ張り上げる。体が重く足が上がらなかった。

階段を登り終えると西日が顔に当たって眩しい。歩道橋の下からは、道路を行き交う車の音がわたしの神経に刺さった。イライラする。

なんでわたしがこんな目に合わないといけないの?いったい、これはいつまで続くのだろう。だれか、助けて。わたしの視界がわたしの周りを回りはじめた。


「で、お前は歩道橋から飛び降りた、と」

今までほとんど聞き役にて徹していた男が口を開いた。男の言葉は耳に痛かった。

いつのまにか日は落ちかけていた。

男の真っ白のはずのパーカーの色が、かたむいた太陽の色を受けて少し黄色っぽく見えた。男はパーカーを頭からかぶり、黒いヘッドホンを首に掛けている。

彼は大学生くらいだろうか。高校生のわたしよりはだいぶん大人だろう。

わたしは彼に吐き出して、少しすっきりしたようだった。

「でも、いいの。死んじゃったら、もうどうでもよくなっちゃった」

自分に言い聞かせるように笑って言った。彼が塀から勢いをつけて飛び降りた。

腰に手を当てながらこちらを振り返る。

「ふん、そんなのウソだね。だって心残りがなけりゃ、幽霊になんかならない」

図星だった。心臓のあたりが縮むように痛んだ。

「そりゃ。そりゃ、そうなのかもしれないけど」

だんだんと小さくなる言葉の最後は、自分の耳にも聞き取りにくかった。

「よし、わかった。彼女、ナツって言ってたっけ。ナツに復讐してやろう」

彼がキッパリとした口調で言った。

「え?」

わたしの口から思わず大きな声が出た。

「心残りがあるままじゃ、成仏できないんだよ。さ、そいつは今どこだ?」

男がおどけるようにあたりを見回した。


わたしたちは近くの公園に居た。もうすぐ日が完全に落ちる公園では、遊具が長い影を作っていた。遅いからか、公園には子どもの気配はない。公園は、昼間に吸い込んだ熱気を吐き出すように少しずつ温度を下げていっていた。風が少し吹きはじめた。

わたしたちはブランコのそばの茂みに隠れるようにしゃがみ込んでいる。公園は見晴らしがよく、向かって左右、二箇所ある入り口はここからでもよく見渡せた。

彼がブランコのほうを見たまま口を開いた。

「ホントに来るのか?」

「多分、来ると思うけど」

わたしは目を伏せた。

ここはわたしとナツがいつもたまっていた場所だった。ナツの悩みも聞いたしわたしの悩みも打ち明けた。特別な場所だった。今日わたしの葬式が終わった。きっとナツは家に帰る前にここに寄るだろうと思った。わたしの中には来て欲しくない気持ちも有った。

左側の入り口から、制服の女の子が公園に入ってくるのが見えた。

「ナツ」

声が出た。ナツは夢遊病者のような足取りでふらつきながらブランコの前まで来るとブランコの鎖を持ちブランコに腰を下ろした。ナツがうつむいたままブランコをひねるとブランコは重い軋み音を立てて揺れた。

男が立ち上がった。

「さ、行くか」

「え?でも、わたし、人に見えないんじゃ」

彼が口の片端を持ち上げた。

「やり方があるんだよ」

彼がわたしを見下ろし、指を二度鳴らした。静かな公園に乾いた音が響いた。

ナツが驚いたように顔を上げ辺りを見回す。彼女は振り返ると、まだしゃがんでいるわたしの顔で視線を止めた。ナツの目が大きく見開かれる。

「ハル!」

男がジーンズのポケットに手を突っ込み、伏せた目のまま呟くように口を動かした。

「この子、お前に用があるんだってよ」

男の唇がいびつな笑みをつくった。

ナツがイヤイヤするように顔を左右に振る。

「ハル!ハル、ごめん!わたし、そんなつもりなかった」

ナツと呼ばれた少女が手を顔の前で交差させた。

「ただ、わたし、自分なんかいなきゃいい、そう思って、ハルからはなれたの」

ナツは早口でまくしたてた。

「いじめるつもりなんかなかった。わたしの気持ちを知ってるグループの友だちが、ハルのこと、許せないって」

わたしは立ち上がり、右足を前に腕組みしてナツを見た。

「でも、でも本当の友だちなら、アイツら止めてくれることできたんじゃないの?」

ナツが膝から崩れるように座り込んだ。ナツは顔を伏せ、今にも泣きそうに見えた。

「そうだよね。ハル、ごめん」

ナツの言葉の最後は震えていた。


男の気配がわたしの後ろを右往左往していた。

「さあ、どうする?」

わたしは振り向いた。

「今のお前ならこいつに取り憑いて、呪い殺すなんてこともできるんだぜ?」

男が歪んだ笑みを浮かべている。

「なんと言っても、お前は幽霊なんだからなあ!」

男の笑い声が公園中に響いた。わたしは自分の頭に血が上っていくのを感じていた。

「なんだこの野郎」

わたしは男に詰め寄って男のパーカーの襟首をつかんだ。

「ナツはわたしの親友だ。お前なんかになにがわかる!」

男の笑い声は止まらなかった。

「意地はんなよ。お前、こいつが原因で自殺したんだろ?」

わたしは男を突きとばした。男がバランスを崩し尻餅をついた。男はその体勢のまま、まだ笑っていた。おかしくてしょうがないとでも言うようだ。

わたしは地面に座り込んでいるナツまで走り、ナツを抱きしめた。

「わたしアイツに、わたしのナツを取られるのが怖かったの」

ナツが驚いた顔でわたしの顔を見た。

わたしは抱きしめていた力をゆるめるとナツの顔を見つめた。

「本当は、わたしから告白したの」

ナツの顔色が変わった。真剣な眼差しで下からわたしの目を覗き込んだ。

「どういうこと?」

わたしはナツの視線から目をそらし斜め上を見た。

「全部、わたしのせいなの」

わたしはそのまま話しはじめた。


わたしはその日の夜、家のそばにあるコンビニの駐車場で、彼が出てくるのを待っていた。コンビニの看板の照明に、蛾が二匹とまっているのが見えた。

ナツには言ってなかったが、ナツの好きな彼とは、夜お菓子を買いに行くこのコンビニで、よく顔を合わせることがあった。

ナツの家はお母さんががうるさく、こんな夜にコンビニでばったり出会う心配は無い。

今日わたしは、彼を待ち伏せしていた。

Tシャツ短パンの彼がコンビニから出てきた。彼は棒付きのアイスを袋から取り出し、袋だけゴミ箱に入れると歩きながら食べはじめた。わたしは彼の後ろ姿に声を掛けた。

「ねえ」

アイスを口に含んだまま立ち止まり、彼が振り返った。彼とはここで顔は合わせるが、今まで話したこともない。声を掛けられたのがよっぽど意外だったのか、彼は目を見開き驚いた顔をしていた。わたしは彼の顔を真っ直ぐ見た。一度うつむいて深呼吸した。そのあともういちど顔を上げ口を開いた。

「あのさ、わたしと付き合ってくれない?」

彼がアイスを口から外した。

「となりのクラスの、たしか、ハルって呼ばれてる…」

わたしは彼の言葉を遮るように続けた。

「そう、ハル。わたし、あなたのこと、好きになっちゃった。付き合って、欲しいの」

はっきりと区切るように告げた。

彼がアイスを持っていないほうの手で頭を掻いた。斜め上を見てわたしと目を合わせないがまんざらでもなさそうだ。

「そりゃあオレ、彼女もいないから、別にいいけど」

彼の顔が赤くなった。

「ホント?うれしい!」

わたしは彼の腕に抱きついた。そのまま彼の顔を見上げる。彼と目が合った。わたしはこの、上目遣いを家で何度も練習した。自分で言うのも何だけど、わたしはこの角度が一番かわいいのだ。

「でさ、お願いがあるんだけど」

彼の顔色が少し曇った。

「え?付き合っていきなりお願い?」

わたしは目を伏せた。

「たいしたことじゃないの。実は、わたしの友達もあなたのこと好きなんだって」

もう一度彼の顔を見上げた。彼は嬉しそうなにやけ顔をしていた。

「わたしから告白したってなったら、友情、壊れるでしょ?」

彼の表情がゆるんだ。もうひと押しだ。わたしはできるだけかわいい声を出した。

「だから学校でわたしを呼び出して、もう一度そっちから告白してくれない?」

彼は理解してくれたのだろう。彼は笑いながら大きくうなずいた。

その日は、彼とはそのままコンビニで別れた。帰り際、彼のほうを振り返ると、コンビニの照明が目に入った。さっきまで二匹いた蛾は、一匹になっていた。


ナツが目の前に座り込んでわたしを見上げていた。ナツの涙はすでに乾き、わたしを睨んでいた。

わたしの目の焦点は、ナツの目にはじかれたようにふらふらと勝手に空中を動いた。いったいわたしは、今自分がなにを見ればいいのかわからなかった。

「わたし、ナツが好きだったの。今でも愛してる。男なんかにナツを取られたくなかった」

断続的に続いていた男の笑い声がやっとやんだ。

「で、結局親友に逃げられて、挙げ句の果てに自殺か」

わたしは立ち上がってナツを見下ろした。

「違うの。死ぬ気はなかったの。ホントよ」

ナツはわたしを見上げたまま動かなかった。わたしはナツに向かって話し続けた。

「ただ、歩道橋から下の道路を走る車を見てたら、わたしなにやってるんだろうって。ナツを離したくなくてやったのに、結局ナツから避けられて」

わたしはナツの肩を上から抱いた。

「わたしが大けがしたら、ナツがわたしのとこに帰ってくるんじゃないかと思って。バカだった」

地面に座り込んでいたナツがわたしの腕をほどき、ゆっくりと立ち上がった。ナツは目に涙をためていた。

「ハル、ごめんね。わたし、気付いてあげられなかった」

ナツが目を閉じわたしの体の上から腕を回した。ナツのつぶった目から大粒の涙がこぼれ、わたしの頬を濡らした。わたしはナツに抱きしめられ、自分の体から力が抜けていくのがわかった。頭の芯のほうがゆるんでいくようだ。

男が立ち上がるのが目の端に見えた。

「ふん。心残りはなくなったようだな」

わたしは男の言葉の意味がわからなかった。顔だけを動かして男のほうを見た。男は目に微笑をためていた。

「自分の体を見てみろよ」

わたしはナツに抱きしめられたまま手を動かして目の前に持ってきた。わたしの手は透き通りガラスの彫刻のようだ。それでもわたしは、ナツの腕をほどくことが出来なかった。

「ああ、ナツ、わたし、もう行かなきゃいけないみたい」

わたしはやっとそれだけを絞り出した。

ハルがわたしを抱きしめる手にさらに力を入れるのを感じた。

「ハル、ハル、ダメだよ」

ナツの叫ぶ声が、耳に心地よかった。わたしの足先、指、頭のてっぺんが空気に溶け込んでいったのを感じた。わたしは自分の顔が、笑顔になっているのに気づいた。わたしはまるで、体全体が細かく滑らかな泡のようになったような気がして意識を失った。


ナツが、抱きしめていた手をほどいた。そこにはもうなにもなかった。

ぼくはナツの目の前に立った。ひとこと、ハルが、彼女が行くべき場所に旅立ったことを伝えたかったのだ。

ナツの視線は目の前のぼくを素通りしていた。ナツはぼくを無視するように空を見上げた。ハルの行った先を想像しているのだろう。つられて見上げると、澄んだ夜空には星が出ていた。

ナツの目にぼくは映っていないようだった。ぼくはか彼女の名前を読んだ。返事はなかった。

いつものことだった。

「クソ」

ぼくは小さくつぶやき、首にかけていたヘッドホンを頭にかぶった。ぼくの周りの音が遮断される。ポケットの中のプレイヤーのスイッチを入れると激しいドラムの音が聞こえてきた。耳に痛い。ぼくは空を見上げたまま動かないナツに背を向けて歩き出し、公園を出た。


家に帰ると明かりはついていたが、リビングもキッチンも静まりかえり、母の姿はなかった。

「母さん、ただいま」

リビングで他の部屋にいても聞こえるくらいの大きさで声をかけたが返事はない。

もっと早く帰るつもりだったのだが、ハルの手助けをしていて遅くなってしまった。一階には母の気配はないようだ。

「またぼくの部屋か」

ため息をひとつつき、廊下を歩き階段に右足をかけた。階段を上がってすぐ右手の洋室がぼくの部屋だった。

二階にあがるとぼくの部屋の扉は開いていた。

真っ暗な部屋から小さく母の呻くような声が漏れ聞こえている。

ぼくは部屋に入った。窓際にあるはずのぼくのベッドのほうを眺めるとカーテンが開いた窓から月明かりが差し込み、母がベッドの上にうずくまっているのがぼんやりと見えた。母は泣いていた。

「母さん」

ぼくは母を呼んだ。呼んでも母に聞こえないのは分かっていた。ぼくは何度も繰り返し指を鳴らしてみた。何度やっても自分自身に効果はなかった。母の目の前に顔を近づけてもみた。母はぼくにまったく気づかない。

ぼくはベッドの母の横に座った。ベッドは沈まず、音も立てなかった。うずくまる母を見下ろす。

母の背中をさすってみた。

「なあ、母さん。オレ、今日いいことしたんだよ」

さするぼくの手に、母の背中の感触は伝わってこなかった。母はぼくの遺影と、ぼくの書いた遺書が入った封筒を抱きしめていた。ぼくの遺書を、母は何度読んだのだろう。入っている封筒はすり切れて汚れていた。母の嗚咽は続いていた。しばらく止みそうになかった。ぼくはもういちど、大きなため息をついた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ