9話。弘農でのこと①
久々登場。あとで文章修正の可能性あり。
11月・弘農郡弘農県。
「李儒殿。職務中に申し訳ないが、少しお時間をお借りしてもよろしいかな?」
「これは荀攸殿。無論構いませんよ」
巷に吹く風に冬の寒さを感じ始めた頃、弘農の宮城内にある執務室の中で書類仕事をしていた李儒の下に、30代にして尚書令となった荀攸が訪れた。
因みに呼び名が官職では無いのは意図的なものである。
普段は両者とも公私はきっちりと分ける型の人間であり、基本的に職務中には荀攸は李儒のことを『太傅殿』と呼ぶし、李儒も荀攸のことは『尚書殿』と呼ぶ。
しかし今回、荀攸があえて『李儒殿』と呼び掛けて来たことで、彼の用件が『職務にも関係しているが多分に私的な用件である』と解釈した李儒が『遠慮はいらない』と配慮した形となったのだろう。
これらは面倒と言えば面倒なのだが、元々ただの挨拶一つにも意味を持たせるのは名家の嗜みだし、防諜の意味もあるので無駄なことではない。
何故なら、盗み聞きと虚言を用いた讒言は名家の得意分野であり、油断するとどんな形で足を引っ張られるかわかったものではないからだ。
そのような事情から、荀攸や李儒は普段から会話をする際には目線や呼吸にも『含み』を加えて話を短く纏めている為、たとえ名家を探ることに特化した間者が盗み聞きをしていても、第三者には意味がわからない文脈となっていたり、意図せず違う意味になる会話が成立していると言う自然な防諜が出来上がっていたりする。
……そんな名家あるあるはともかくとして。
今は、あの荀攸が、李儒が職務中と知っているにも関わらず、私的な話題を持ち込んできたと言うことが問題なのだ。
これがどれくらいの問題かと言うと……現在劉弁の側で彼と一緒に課題をこなしている司馬懿や徐庶がこの場に居たなら、何かしらの大問題が発生したことを確信し、二人の会話を一言一句余すことなく記憶して考察を始め、その考察に劉弁が混じって意見を交わしていることがあるくらいの問題である。
……李儒が朝から晩まで職務をしているので、話し掛けるタイミングが職務中にしか無いと言う事情もあるように思えるが、それはそれ。今回は荀攸が『太傅殿』と呼び掛けなかったこと、つまり彼が私人として李儒に接触したことが問題なのだと理解できれば良いだろう。
「で、どのようなご用件で?何やら面倒事なのはわかりますが、現状で荀攸殿の手を煩わせるようなことがありましたかな?」
仕事以外での絡みが殆どない相手(と言っても、ほぼ毎日仕事で顔を合わせているが)からの私的な用件となると、流石の李儒も心当たりがない。さらに職務中に話しかけてきたと言うことは、完全に私用ではなく、自分の職務にも何かしらの関係があることだと推察できる。
つまりはこれも仕事なのだ。それも書類仕事以上に厄介な。そう判断して荀攸と向き合えば、案の定、彼は話を持ってきたにも関わらず微妙に喋りづらそうにしているではないか。
しかし、李儒の経験上、面倒事は隠されて問題が大きくなるよりも、さっさと報告してもらった方が結果的には楽なのだ。だから『相談されないよりは相談された方が良い』と言うのが彼の持論である。
「実は……」
そのため内心では(……一体どんな厄介事なんだ?)と警戒しつつも、とりあえず表面上では荀攸に対して『遠慮をすることはない。というか遠慮をされると困る』と言うニュアンスで話を切り出しやすいようおどけてみせると、荀攸もホッとしたような表情をして、その『問題』を口にすることができるようになった。
自分と部下の身を守ると同時に、部下の持ってきた問題も解決する。
これを両立させなければいけないのが管理職の辛いところであるが、幸か不幸か社畜精神旺盛な太傅殿は、裏役としての暗躍だけではなく、管理職としても優れた実績を上げているのであった。
――――
「……実は長安の蔡邕殿から書状が届きまして」
真剣な顔をしてたから何を言ってくるかと思ったら、長安の蔡邕?
「蔡邕殿……確か少し前に王允殿に投獄されたのを、董閣下と荀攸殿が釈放させたと伺っておりますが、その方でしょうか?」
「えぇ。その蔡邕殿です。釈放はされましたが、今は王允殿らによって出仕を禁じられ、職務である漢史の編纂事業へ関わることを許されておらず、自邸にて自発的な謹慎をしております」
「自発的に謹慎。ねぇ」
勿体無い。
これがその辺の若造なら『働け』と言って無理にでも引っ張って来て働かせるんだが、確か彼は今年で60歳。つまり定年だ。ならば無理に働かせるわけにはいかんか。
それに俺が知る限りだと、蔡邕ってのは董卓の政を正面からはっきりと否定した数少ない人物で、一度は彼の上役が董卓に忖度して(というか巻き添えを恐れて)投獄したんだが、否定された当の本人が蔡邕の言葉を正論と判断して釈放させ、その気概を買った董卓に信頼されて色んな仕事をするんだよな。
そんで董卓が殺された後、王允によって『俺の悪口が歴史に残ることは許さん』って感じのことを言われて処刑された人間だったはず。
日本だと娘の蔡文姫が有名なんだが、彼女の名が売れるのは彼女が魏に引き取られてからだから、今のところは『蔡さんの家の優秀な娘』くらいに知られてる程度なんだろう。
そのうえで蔡邕と荀攸との繋がりを考えれば……そもそも荀攸は交友関係が広いし、鍾繇も蔡邕の関係者だったと考えれば、無くは無いな。
問題はその謹慎中の彼が出してきたと言う書状の内容か。
本来謹慎中の人間は外出も出来なければ、外部への連絡もできないもんだ。
それなのに『自発的』とは言え謹慎中の蔡邕が、よりにもよって尚書として劉弁政権の中枢にいる荀攸に書簡を出した?劉協政権の中枢にいる王允に睨まれているにも関わらず?
面倒事確定じゃねぇか。
「えぇ。その書簡では『自分の釈放の返礼として陛下と私に挨拶をしたい。しかし自分は年老いており、長旅ができるほど健常ではない。故に誠に失礼ながら、娘の蔡琰を代理として派遣するので、面倒を見てやって欲しい』とありまして」
「ほぅ。要約するに『自分は王允殿に目を付けられていて、このままだと娘もどうなるかわからないから、王允殿の手が届かないところに避難させたい』と言うことでしょうか?」
「……包み隠さず言えばそうなります」
「それならそのまま荀攸殿が保護すれば良いだけの話でしょう。特に問題があるとは思いませんが?」
今更王允ごときが何をしようと、荀攸に何かができるわけでも無いしな。
それに実際問題、史実だと蔡琰は王允によって蔡邕が殺されたあと、董卓の残党刈りだの李傕・郭汜による長安攻めだのと言ったゴタゴタの最中に、匈奴の連中に拐かされて南匈奴までお持ち帰りされて側室扱いを受けることになるはず。
……これ、俺が思うに実際のところは蔡邕を殺したあとで、娘に自分の悪評を広められても困るって考えた王允が、匈奴の連中に彼女を売ったんじゃないかと思ってる。
そうじゃないと長安に居た彼女が、羌族じゃなくて匈奴に拐われた理由がわからんし、彼女をピンポイントで南匈奴の勢力圏に拐い、わざわざ匈奴のお偉いさんの小倅である劉豹に嫁がせる(しかも扱いは奴隷みたいなものだったらしい)理由が無いじゃないか。
自分の手で処刑しなかったのはアレだろう。周囲の目を気にしたんだろう?
一応王允は、蔡邕を殺したあとでそのことを悔いていたって話が残ってるし。
それは劉封を殺したあとの劉備や、馬謖を殺したあとの諸葛亮のように、周囲の批判を散らすためのポーズなんだろうが……それをした以上は、表立って蔡邕の家族を蔑ろには出来ん。
かと言って、生かしておけば自分のことを悪し様に言うのは目に見えている。ならば漢とは関係ないところに放逐すれば良いって感じだろうよ。
なにせ匈奴には文字の文化がないから、蔡琰がいくら優秀でも何かを残すことは出来んし、そもそも漢を見下している匈奴の中に嫁いだとて待遇が良くなるハズも無いしな。
あとは匈奴の連中が納得するかどうかだが、この辺は『自分の養女』とでも言っておけば良いんじゃないか?
王允の考えた設定としては、漢側には『蔡邕を殺したことを悔い、残された娘を養女にして育てようとしたが、ゴタゴタで行方不明になった』と言い、匈奴側には『自分の養女を下げ渡すから、今後とも仲良く頼む』とでも言ったんだろうよ。
匈奴にしてみれば『お高く止まった漢って国の頂点に立つ三公が、自分たちに人質を出してきた』ってことだからな。そりゃ喜んで受け入れるわ。
で、流石にそこまでは予想していなくても、自分が死んだあとの娘の今後を案じた蔡邕が、愛娘を荀攸に預けて来たんだろ?特に問題ないじゃないか。
なんならそのまま結婚しても良いぞ?尚書たるもの妾の一人や二人いても問題ないから。
あ、だけど家庭内の問題に関しては自分でなんとかしろよ。俺に相談されてもリアクション取れんからな。
「確かに私が保護すれば問題はないでしょう。しかし……」
「しかし?」
何かあるのか?奥さんが怖いとか?
「蔡邕殿は、娘に自身の仕事を引き継いで欲しいと願っているようでして」
「……自身の仕事?漢史の編纂ですか?」
「はい」
「……なるほど」
そうきたか。
確か男子がいない蔡邕は、娘の蔡琰に自身の技能やら何やらを継承させたはず。その己の全てを引き継いだ娘に、己のやり残した仕事を任せたいっていう気持ちはわからんでもない。
荀攸にしても、蔡邕の命を懸けた最期の望みとなれば叶えてやりたいと言う気持ちもあるのだろう。
しかし史の編纂事業とは、歴史を重んずる名家や皇家にとっては重要な意味を持つ一大事業だ。
男尊女卑の思想が蔓延している古代中国と言う時代では、一般の女性には社会的な立場というものが存在しない。(家庭内はともかくとして)
故に、いかに父親が偉大であり、本人がどれだけ優秀であっても、娘である限り蔡琰を史の編纂事業に参加させると言うのは、通常では不可能なことと断言しても良い。
そう。通常では。
「つまり、荀攸殿は私に彼女を雇い入れろと?」
「……はい」
なるほどなぁ。荀攸にしてみたら俺に非常識なことを要請してるわけだから、こんなに言いづらそうにしてるのか。
しかし元々俺は普段から『書類仕事の前には男も女も、老いも若いもねぇ!』と言って身分に関わらず働かせているから、荀攸みたいに他の名家の連中の機嫌を窺って人選に配慮する必要はないんだよな。
さらに、いままで弘農では史を編纂する役を置いてなかったから、そこに彼女を入れるのは構わない。
この場合、長安で纏めているものとは違う感じのものが出来上がる可能性も有るが、元々こういうのは多角的に見るべきだから、これも問題ないだろう。
つまり、現状問題はない……か?いや、まだ有った。
「荀攸殿は私の立場の問題を考慮して下さっているのでしょうが、それについては無用の心配です。その娘を雇い入れる分には問題ありません」
「おぉ、そうです「しかし!」……なんでしょう?」
喜ぶのは早いぞ。
「蔡邕殿の意思は確認しましたが、本人の意思や能力を確認しておりません。もし本人が望まない場合や、能力が私が求める水準まで至らない場合、また本人の性格に問題がある場合は、雇い入れることは出来ませんよ」
何よりもこれだよな。能力に付いて不安は無いが、やる気がない奴に仕事を回すくらいならやらせない方が良いし、王允への恨みが凝り固まっていたら困る。感情を殺せとは言わんが、できるだけフラットな目線で職務にあたることが出来ないなら、史の編纂と言う公文書の作成を任せるわけにはいかん。
「あぁ。それはそうですな。その場合は当家で保護する形になりますね」
うむ。家庭の中にも幸せは有るんだ。無理に周囲と衝突してまで働く必要はないだろうよ。
「そうして下さい。なんにせよこれ以上は本人が来てからの話ですね」
この段階まで話が進んだなら、根回しって言う意味ならもう十分だろう?
「えぇ。では彼女が来たら諸々の確認をお願いします」
「……了解です」
俺が面接すんのかよ!と思わないでもないが、今の時代で女性を働かせようとする管理職なんかそうそう居ないからなぁ。王異?あれは特殊な事例だから。
それに、事が史の編纂となれば俺のお墨付きは有ったほうが良いのも事実。流石に一人でさせるわけにはいかないから他の連中にも関わらせる必要が有るんだが、弘農に女を差別しない奴なんて居たか?
……あ、そうだ。
そんなことを考えていた李儒だが、もう一つ大事なことを確認するのを忘れていたことに気がついたと言う。
「ちなみに荀攸殿?」
「なんでしょう?」
「その娘さんは今お幾つですか?」
年齢確認すんの忘れてたぜ。もし面接した際に『働きたくない』と言った場合、年齢によってはそのまま誰かに嫁がせても良いしな。
「年齢ですか?確か、今年で13か14だったかと」
「……そうですか」
「いかがなさいました?」
「イエ、ナンデモアリマセン」
「???」
いや、未成年やん。
普段『老いも若いも関係ない』とは言っても、それはあくまで『老い』と『若い』の話である。
弟子?弟子は師匠の手伝いをするのも修行の内なのでノーカンで。
それはともかく、このとき腹黒は、蔡琰を働かせることよりも保護と養育が先だと心に決めることになる。
それと同時に、13か14の少女の父親を殺し、匈奴に売り払った(とみなしている)史実の王允の評価を、最低値まで落としたと言う。
このことが長安に居る王允にどのように関わってくるのか、それは誰にもわからない
あれ?李儒ってこんなキャラだっけ?と思った読者諸君。彼はこんなキャラです。噂が一人歩きしてるだけで、彼の性根はまっとうな社畜なんです。
そしてまっとうだからこそ未成年(それも女子)を働かせることに抵抗があります。男女差別と言うか、普通に年齢を考えたら……ねぇ?
董白の霊圧が…………
全部王允って奴が悪いんだっ!ってお話
――――
独断と偏見にまみれた人物紹介。
―――
蔡琰:蔡文姫の方が有名。
本来の字は昭姫だが、色んな事情で文姫と呼ばれる。
西暦177年生まれの14歳。
文官としては極めて優秀で、その才は曹操にも認められた。
長安のゴタゴタの際に匈奴に拐われ、劉豹の側室にされた。この時点で意味がわからない。普通に誘拐されただけなら、そのまま現場の兵士の性奴隷とかなのに、なんでお偉いさんの側室になってるの?と考えた結果、作者は『王允との取引じゃね?』と考えた次第です。
曹操と匈奴の話し合い()によって魏に戻ったあとは魏で色々してたのだが、その辺は長くなるので各自でググってみましょう。
―――
蔡邕:60過ぎても働いていた社畜。死ぬ前にも『足を切っても良いから働かせてくれ!』と懇願したほど筋金入りの社畜。さらに全盛期の董卓にも説教できた人でもある。
この人が居るからこそ『董卓ってただの暴虐の徒じゃないんじゃない?』と言う説が成り立つと言っても良いかもしれない。
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