表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
91/203

8話。董卓の現状+地図

地図の引用元は もっと知りたい!三国志 様 でございます。

初平2年(西暦191年)11月。


「もう11月か……今年も酷い一年だったが、去年より()マシだったな」


涼州に吹く風に冬の寒さを感じ始めた頃、書類地獄から解放された董卓は、建設途中の城砦を眺めてしんみりと呟いた。


「えぇ、去年より()マシでしたね」


その横に立つ娘婿の牛輔もまた、しんみりした様子で、しかし力強く頷いている。


今まで数えきれない程戦場に出て命を削って来た自負がある董卓陣営の諸将と言えど、反董卓連合発足から、否、何進の死から上洛、そして遷都が終わるまでの激務は、彼らをして『地獄』と称せしめて憚らない程にその心を蝕んでいた。


それが今はどうだ。


皇帝に従わない連中の管理をする必要は無くなったし、先に文官を逃がしたためにてんやわんやになった洛陽とは違い、長安に関してはノータッチで良いから書類仕事も激減。


皇帝に忠義を誓っている孫堅は、襄陽を制圧して名実ともに南郡都督となったことで、最低限の準備資金だけを渡せば後は自分たちで軍を回せる状況になった。


後は有事に備える為、南陽に派遣した朱儁が細かい調整をすることになっているので、董卓がすべきことは無い。


また公孫瓚については、董卓も同じような立場であったので、彼が欲する物は言われなくても大体分かる。故に必要な分を必要なだけ送ればそれで解決してしまう。


これだけ見れば収入より歳出が多いように思えるが、そもそも長安はシルクロードの出発点にして終着点である。


異民族からの干渉が無ければ交易の利がそのまま長安の収入となるし、洛陽から遷都した際に徴収した財は、現時点で最低でも10年持つだけの余裕があるのだ。


結果として、今の長安は確かに漢全土からの歳入は無くなっただろうが、同時に漢全土を管理する為の軍事費や設備費、人件費等の莫大な予算が不要となった。


更にどこぞの腹黒の仕込みにより、洛陽から来た民を農業に従事させることで三輔地域の生産力が増しつつあるので、司隷周辺域の収穫量は年を重ねるごとに上昇することが予想されている。


また、塩や鉄に関しても、元々遷都で廃棄したのは河南尹。もっと言えば洛陽だけなので、河東郡の塩池は変わらず確保しているし、西域の塩湖から取れる塩を回収出来るので、生活必需品についても特に問題は無いと言う状況だ。


つまり、逆賊共が苦労して自陣営を纏めている間に長安は、黙っているだけでその戦力を拡充させる事が出来ると言う訳だ。


終わりよければすべて良し。と言うか何と言うか、この状態になるまでの苦労は(まさ)しく筆舌に尽くしがたいものであったが、今となっては良い……良い思い出である。


……絶対に繰り返したくはないが。


兎に角、今の董卓は大将軍とは言え、何進とは違い外戚では無いので政に口を出す気は無い。その為、彼に割り振られた業務は司隷と涼州の軍勢の管轄をするだけで良いと言う状況である。(公孫瓚と孫堅は都督なので自分たちで軍勢を管理する権限があるし、益州の劉焉や幽州の劉虞も州牧の為それぞれに兵権が有る)


その上、司隷には司隷校尉と言う司隷の軍を管理する役職が有るし、涼州は元々それぞれの軍閥と付き合いがあるので、その管理など今までの業務の延長でしかない。


よってこの程度の仕事量ならば、洛陽で地獄を経験した董卓陣営の諸将にとっては温いものである。その証拠に、脳筋の代表格であった華雄ですら普通に書類仕事をこなしてから軍務に向かうだけの余裕があったと言う。


だがそんな余裕が長続きするほど、この乱世は甘くはない。別にどこぞの腹黒が何かをしなくても、彼は仕事から逃れられるような身分では無いのだ。



―――



司隷右扶風(しれいゆうふふう)()


「久しいな皇甫嵩」


「はっ。大将軍閣下におかれましてはご健勝の程、お慶び申し上げます」


「うむ。お主も元気そうで何より。で、早速だが用件を聞こう」


一時期皇甫嵩の副官扱いであった董卓だが、今は立場が完全に逆転している。年功序列が基本の古代中国であっても後輩が先に出世することなど良くある話だし、軍と言うのは究極の成果主義の社会である。


それを鑑みれば、今の董卓は皇帝に軍を率いる事を認められた上に、逆賊を相手に真っ向から迎え撃った実績を持つ大将軍だ。名実兼ね備えた大将軍に対して頭を下げるのは、軍人として恥でも何でもないので、皇甫嵩は当たり前に配下としての態度を取るし、董卓もその挨拶を鷹揚に受けた。


そして宮廷作法に長じた皇甫嵩とは違い、董卓(と言うか軍部の将軍はほぼ全員)は長々と前置きを置かれることを嫌うところがあるので、挨拶もそこそこに本題に移るよう彼を促すと、


「えぇ、実は閣下に確認したいことが有りまして」


皇甫嵩としてもやれば出来るが、別に長々と時候の挨拶や前置きを語りたいわけでは無いので、この申し出はありがたかった。ほっとしたような表情を浮かべて本題に入ることにした。


「確認したいこと?」


官軍や司隷の軍勢に関わる気が無い董卓は『なんの話か知らんが、聞きたいことが有るなら弘農へ行けば良いものを』と言いたくなるのをぐっと堪えて、話の続きを待つ。


「えぇ。最近の長安の様子についてなのですが……」


「あぁ長安か、連中がまた何かやらかしたか?」


もうこの一言だけで皇甫嵩の言いたいことがわかってしまい、心の中で溜息を吐く董卓だが、長安に関しては自分も無関係では無いので、皇甫嵩を止めることなく先を促した。


「何かではございません!」


「お。おぉう」


「某も将軍としての任に専念する為、政に関わることについては口を出す気は有りませんでしたが、先だっての袁術に対する逆賊認定の解除に始まり、露骨な人材の優遇政策等、最近の楊彪殿と王允殿のやりようは限度を超えてますぞ!」


「うむ……」


董卓は、自分ですら思わず仰け反るほどの勢いで身を乗り出し、力説する皇甫嵩に対して「コイツ、こんなヤツだったか?」と疑問に思うも、皇甫嵩の憤りも理解出来ると頷いて見せる。


そもそも袁術の恩赦に関しては、楊彪が勝手にその許可を出して劉協の許可を引き出した結果の産物であり、弘農の劉弁は認めていなかった。


当初は丞相である劉協も恩赦を認めていなかったのだが、司空である楊彪が『元々袁紹と袁術を嚙合わせる事は陛下の計画にあった』だの『袁術に対する餌として使うだけだ』と言って幼い劉協を言いくるめ、半ば無理やり認めさせたに過ぎない。


そして丞相である劉協が決めたことに関して、皇帝であり兄でもある劉弁は、劉協の立場を慮る意味もあり、彼の決定を頭から否定しないと言うことまで織り込んでいると言うおまけ付きである。


これにより袁術は『皇帝から条件付きで許された』と喧伝することが可能となり、今ではコレを利用して自らの立場の強化と配下の引き締めを行っていた。


しかしこれは根回しと言えば聞こえが良いかもしれないが、厳密に言えば楊彪による勅の偽造行為と言える行為だ。


それは数年前まで勅を好き勝手に偽造し、自分たちの権力の強化を図っていた十常侍や、偽勅を根拠にして反董卓連合と言う名の逆賊の集団を作り上げた橋瑁と何が違うのか?


元々帝派と言っても良い人間である皇甫嵩からすれば、漸く洛陽の澱みが無くなったと思ったら、劉協の周りに居る連中が同じような存在に変貌しているようにしか見えないのだろう。


確かに楊彪が当主を務める弘農楊家は弘農の名門であり、袁家と婚姻関係を結んでいるので、旧来の名家と言えばその通りだ。また、どこぞの腹黒の実家とも繋がりが有るので、董卓としても中々に文句を言いづらいところがあると言う事情もある。


それらの事情に加え、司空と言う三公の身分にあることもあって、今の楊彪に対して正面から文句を言える人間はかなり少ない。


その数少ない人間の一人である王允はと言うと……


「王允殿に至っては閣下の兵を半ば私物化した上で『治安維持の為』と銘打って己に敵対する者の粛清を行っております!これは由々しきことですぞ!」


「……うむ」


現在司徒として劉協の側に侍る王允は、将軍として黄巾の討伐に従事したことも有り、それなりの経験を備える人物であった。


そんな彼は、董卓が長安(政の世界)を離れ、郿に造った城に留まることを公表した際、同郷である并州勢を長安に留めて欲しいと董卓に依頼をしていた。


董卓としても反董卓連合が解散した以上、自身が必要以上の兵力を持っていると周囲から無駄に警戒されると言うことを自覚していたし、配下に派閥を作ることに抵抗もあったので、その要望を受け入れ、王允の下に呂布を筆頭とした并州勢を派遣している。


そうして得た武力を背景に王允は、長安内部に巣食う反董卓連合の関係者の粛清を行っていたのだ。


これだけなら特に問題はない。問題なのは、彼が自分の意見に反対する者や王允に否定的な態度を取る者まで粛清していることだ。


これまで幾度となく洛陽の連中に自分の意見を否定されて来た董卓にすれば、己の陰口だろうが否定意見だろうが好きに言えば良いし、長安への遷都に関しては今も賛否があることを知っている。しかし遷都が終わった今、そのことにどうこう抜かしても無駄であることも知っているので『勝手に言ってろ』と聞き流すだけの話だったのだが、王允はそれすら我慢が出来なかったらしい。


彼は遷都を『悪しきこと』と断じた名家の人間を逆賊として捕え、拷問して殺したり、王允が上奏した政策を貶すようなことを言った民を捕らえて殺したことも有った。


この病的とも言える保身行動の最大の被害者として知られるのが、長安の遷都については理解を示したが、その後の施政について疑問を抱き、劉協に対して政策の意見具申をした蔡邕である。


彼はその才を董卓や荀攸に認められてこれまで漢史の編纂に当たっていたのだが、ある日、彼に自身の政策を否定された王允は、蔡邕が史書に己の悪評を記すのではないか?と不安になり、彼を投獄してしまう。


その話を聞いた董卓は「訳の分からないことをするな!」と言って蔡邕を解放するよう劉協に働きかけ、董卓からの上奏を聞いた劉協が即座に蔡邕を牢から解放させるよう動いたのだが、王允は「それは大将軍のすることではない」等と今も周囲にグチグチと言い募っていると聞いている。


また王允は、理想主義的なところもあり、その政策は現実からかけ離れたものも多々あった。


たとえば子飼いの文官から「将来、銭が不足するかも知れない」と言う意見が有った際、彼は「無ければ作れば良い」と言い、劉協に五銖銭の増産を上奏したのだが、その際に銅の含有率を下げて量を増やすことも重ねて提案していたと言う。


この話を聞いた時、董卓は「別に良いんじゃないか?」としか思わなかったのだが、流石に銭の改鋳は劉協の権限を逸脱した行為だったので、王允が上奏した草案をそのまま弘農に送ったところ、劉弁からは『却下。銭に関しては今すぐ不足するわけではないから大人しくしてろ』の一言が返って来たことが有ったらしい。


この時も王允は、自分が無能者扱いされることを恐れたのか『これは大将軍も認めたことだ!』などと言って、関係者を巻き込むかのような発言をし『政から離れている大将軍に何の関係が有るのか』と周囲から失笑を買ったとか。


董卓も『そこで俺の名前を出されてもなぁ』と苦笑いするしかなかったので、この話は彼らの中では笑い話でしかないのだが、王允はそうやって自身が笑い話の種になることも許せないらしく、長安近郊では飲酒や村祭りの開催などに関しても締め付けが厳しくなっているらしい。


これらも問題では有るのだが、分類すれば政に関することなので、これだけなら皇甫嵩も口を出す気は無かった。


しかしその締め付け行為を行っているのが、官軍ではなく王允の私兵のような扱いを受けている并州勢であると言うなら話は別だ。


「現在長安では、并州勢や王允殿への批判だけではなく、閣下の悪評も流れておりますぞ!」


「……俺の悪評なんざ今更の事だしなぁ」


今まで散々洛陽の連中に陰口を叩かれて来た自覚が有るし『その気になればいつでも踏みつぶせる連中が何を囀っても心に響くものは無い』と言うのが董卓の素直な気持ちだった。


「閣下がそんなことでどうしますか!」


「いや、俺が怒ったら困るからこうしてお主が来たんじゃないのか?」


「それもありますが‥…!」


董卓が政に口を出す気が無いことを知っている皇甫嵩にすれば、王允の行動は董卓に罪を擦り付けようとしているようにしか見えなかった。


そこで彼が懸念したのは、董卓が言うように『もしも董卓が己の悪評を流されていることに激怒して長安に兵を進めたらどうする?』と言うことだ。


前の戦で20万の連合軍を歯牙にもかけなかった董卓の軍勢が大挙して襲ってきたら、長安は間違いなく陥落するだろう。そうなれば洛陽と長安を立て続けに失った皇室の威は間違いなく地に落ちることになる。


それを回避するためにこうして董卓の下を訪れたのだから、今の段階で董卓が怒りを覚えていないと言うのは、皇甫嵩にとっても朗報と言えよう。


しかし、だからと言って王允の暴走をそのままにもしておけないと言う気持ちもある皇甫嵩は、彼が元々考えていたことを董卓へと上奏することにした。


「閣下、并州勢を長安から引き上げることは可能ですか?」


「……ふむ」


皇甫嵩は王允が調子に乗っているのは、劉協が幼いことに加えて、手元に并州勢(大将軍の委任状)が有るからだと考えていた。


ならばまずは董卓が王允に預けた軍勢を回収することで、その動きを掣肘出来ると踏んだのだ。


その事は当然董卓も理解している。王允に対して政治的な委任状を渡しているのも事実だし、王允がそれを使って調子に乗っているのもわかった。その結果自身に悪評が生まれつつあるのも、だ。


しかし董卓には王允を罷免(この場合はそれに近いことになる)した場合、後任として誰に政を任せれば良いのか判別が出来ないので、これは簡単に決断出来ることでは無かった。


かと言ってここで何もしなければ、董卓は長安の官軍からの支持を失うことになるだろう。


それらのことを考慮した董卓は……


「お主の言いたいことは分かった。畏れ多いことだが、一度弘農の陛下に連絡を取ろう」


弘農に居る皇帝陛下の代理人(どこぞの腹黒)にぶん投げることだった。


「……弘農ですか、なるほど」


一見無責任な行為に見えるが、普段から『政に関係しない』と公言している董卓の判断としては間違ったものでは無いし、そもそも都の統治に関して絶対君主である皇帝に確認を取るのはおかしな行為ではない。


皇帝の代理である丞相の劉協としては、自分を飛び越して勝手に接触されたことに文句も出るかも知れないが、ことは常に劉協の側に侍る王允に関することである。


さらに言えば、皇帝である劉弁も幼く、喪に服している最中なのだが、その劉弁の側に侍る男は王允を遥かに凌ぐ腹黒外道(政治家)だということは皇甫嵩も知っているのだ。


故に、そんな彼の意見も聞いてみたいと言う気持ちもあった皇甫嵩は、董卓が問題を弘農にぶん投げたことを無責任と思うことはなく、むしろその意見を引き出せたことに満足して長安へと帰還していったと言う。




――――



11月。司隷弘農郡・弘農。


「ここが弘農……ここにお爺様を苦しめる外道が居るのね!」


「……お父様が認める方がどれほどの方か。王允のような俗物とは違うことを願うわ」


「「ん?」」




――――




京兆尹。長安が有る地域ですね



挿絵(By みてみん)




右扶風。董卓はここに居ます。韓遂との戦いもこの辺でした



挿絵(By みてみん)



弘農郡。別名魔王の居城がここに有ります。



挿絵(By みてみん)

洛陽の河東郡は塩と鉄が取れますし、西域の異民族を従えている董卓は、岩塩の補充にもあまり困ってません。


楊彪は袁家の繋がりや名家として動きますし、王允は自分の色を出そうとしてますが、とりあえず長安陣営としては、今は待つ時期ですので『余計なことしなくて良いから黙ってろ』と言うのが本音でございます。


王允の面子が丸潰れですが、優先するのは皇帝の都合なので、この扱いもシカタナイね!


董卓五銖銭って言いますけど、史実に於いて董卓が長安に撤退したのが191年4月で、死んだのが192の4月です。その間に新しい銭を作っても、その経済効果が現れるのは1年じゃ無理ですし、そもそも経済学者なんか居ない時代なので、この件で董卓一人を責めるのは微妙な気がします。


実際劉備とか孫権も似たようなことして経済崩壊させてますし。


そもそも董卓は政治に於いて王允や蔡邕に任せてましたよねぇ?元凶って王允じゃね?ってお話。


まさか董卓から弘農へ接触するとは……読めなかった。この作者の目をもってしても!


最後に現れた二人は一体誰なんだ?!(迫真)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ