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6話。解散後の諸侯の話②

文章がうまく纏まらないけど、とりあえず投下だっ!


レビューありがとうございます!

突然だが、橋瑁が勅を騙った檄文を大々的に発し、彼と親しい者達が寄り集まって徒党を組み上げ、この徒党が袁紹を盟主として担いだことで形となった反董卓連合だが、この連合の発足によって利益を得た者は実は驚くほど少ない。


この一連の流れの中でまず一番利を享受したと見られているのが、連合や董卓軍に物資を売り捌いていた商人たちなのは語るまでもないことなので除外するとして、商人を除いた者たちの中で一番利を得たと言えるのが南郡都督の孫堅である。


彼は袁術からの要請を受けたと見せかけ、襄陽に二万人分にもなる物資を蓄えさせてそれらを回収する事に成功し、その上で元々劉表が備蓄していた物資や、劉表に仕えていた文官や武官といった人材をほぼ無傷に等しい状態で麾下に組み込む事に成功しているのだ。


最初は孫堅に仕えることを()しとしていなかった元劉表配下の者たちも、連合に参加した諸侯が全員逆賊に認定された挙げ句に、董卓の軍勢に手も足も出ずに蹴散らされ、最終的には内部分裂を起こして連合が解散した様子を見て取り、董卓と敵対しなかった孫堅が勝ち馬だったことを認識することとなった。


その為、彼らは今では孫堅に仕えることが漢の臣として正しい行為であると再認識し、基本的に皆が真面目に職務に励むので孫堅陣営は襄陽を手に入れて所領が広くなったにも関わらず、一人頭の書類仕事が減り円滑に処理されていくと言う状態になっている。


さらには零陵に隣接している交州に於いても、地元の異民族を裏で操っていた士燮(老害)が逆賊として殺された結果、今まで漢に対して徹底抗戦を唱えていた者は後ろ楯を失う形となり、一つの集団として組織だった反抗が出来なくなっていた。


そして孫堅から『異民族を扇動していた元凶を殺したから引き締めを緩めても大丈夫だ』と言う助言を受けた朱符が、その言葉通りに引き締めを緩めたところ彼に懐柔される者もポツポツと現れているし、交州を実効支配していた士一族の内部でも後継者争いが起こったことで、彼らは他所に対してちょっかいをかける余裕を無くしてしまう。


これにより孤立状態に陥った異民族を討伐した孫堅は、暫くの間内政に力を入れることが出来るようになり、劉表が死んだことで混乱している江夏の黄祖や、馬相の乱の影響を引き摺っている益州の劉焉らとは一線を画す纏りを見せる勢力になりつつあった。


そんな孫堅に次いで利益を得たとされるのが董卓だ。


彼は圧倒的な兵力を誇った反董卓連合を相手に、精鋭と謳われた官軍を用いずに自前の兵だけで戦いきったことで、その軍事力を帝国全土に知らしめると共に、今では『漢の軍事を取りまとめる大将軍に相応しい』と、誰もが認める存在に上り詰めている。


ちなみに『これなら遷都する必要が無かったのでは無いか?』などと言う声に対しては、董卓は『後ろを心配する必要が無かったからこそ出来たことである』と謙虚に答え、今は長安の北方方面に位置する【()】に対異民族用として長安に匹敵する城塞を築いている最中である。


これは董卓が政治に関与するつもりはないと言う意思表示であり、彼の自身を軍人として定義し、政治と一線を画す無欲な姿勢は、董卓に近寄り甘い汁を吸おうとした一部の俗物を除き、好意的に受け止められているらしい。


また、董卓陣営に所属する牛輔や徐栄と言った面々も、基本的な書類仕事は長安の文官に回すことになると言う布告を受け『もう政に関わらなくても良いんだ!』と知り、喝采を挙げたと言う。


このような感じで、反董卓連合はその戦の内容や、そもそもの連合発足の切っ掛けを知る士大夫層から『名家が皇帝陛下を私物化しようとして失敗し、董卓を追い詰めるどころか、無駄に銭を費やして名ばかりの大将軍であった董卓に実績を与えた』と物笑いの種にされてしまう。


この広まった風評に頭を抱えたのが、連合に参加した諸侯である。


なぜなら、彼らは勝てなかったことを批難されているのではなく、董卓の軍勢の力を知らなかったことや、大軍を集めながらも積極的に前に出なかったこと。さらには橋瑁が勅命を偽造したことに気付かず、正式に逆賊にされた迂闊さを批難されたからだ。


……ちなみに彼らが批難される原因となったこれらの情報を拡散したのは、どこぞの腹黒らしいが確たることは誰にもわからない。


そんな情報の出処はともかくとして。


当然、諸侯としてはこれらの風評はなんとかして払拭したい類のものであったが、連合に参加した諸侯が董卓との戦で何も出来なかったことや、皇帝から逆賊に認定されたことは事実であるので、どうしても反論に勢いをつける事が出来ず、それがまた士大夫層の者たちからの失笑を買うことに拍車を掛けた。


そして彼ら士大夫(知識人)を自称する者たちは、口を揃えて『敵のことも己のことも知らずに何が出来るものか』と連合に参加した諸侯を貶し、反対に連合に参加しなかった劉虞や孫堅を称賛した上で(こぞ)って彼らの陣営に加わろうと図っていると言う。(董卓陣営は色々怖くて近付き難いらしい)


そんな彼らの動きを危ぶんで即応したのが袁術であった。


彼は袁紹が洛陽で犯した宮中侵犯と言う罪を公表し、袁紹のせいで先代を含む袁家の関係者が軒並み首を刎られたこと、翻って宮中侵犯を初めとした一連の自身の罪を認めぬどころか、新帝を廃して劉虞を帝に擁立しようと(くわだて)ていることを暴露し、さらに橋瑁が勅を偽造したことを知っていながら、己が袁家の家督を簒奪するためにそれを利用したことを挙げ、袁紹を批難した。


これは袁家の関係者を反袁紹に纏めると同時に、袁紹こそが真の逆賊であることを声高に叫ぶことで士大夫層からの批難を連合に参加した諸侯から、袁紹個人に向けようとしたのだ。


さらに袁術は楊彪を通じて長安に使者を送り、劉弁の代理である丞相劉協に対して己が橋瑁に騙されていたと謝罪。さらに袁術が実効支配してた荊州南陽郡の明け渡しを行うことで、新帝を認めていない袁紹とは違い汝南袁家には皇帝に対する叛意は無いと言うことを証しだてしようとした。


……まぁ最初は袁術も南陽の明け渡しを渋っていたのだが、連合が解散して襄陽に孫堅が入城し、弘農や長安には官軍が居を構える現状では、南陽が孤立してしまうと言うことを袁家に仕える幕僚たちから語られて情勢を理解した袁術が、反撃を受ける前に進呈したと言うだけの話なのだが、それはそれである。


こうして袁家の名声や金・人脈などをフルに注ぎ込んだ結果、この助命嘆願は一定の効果を上げることとなり、汝南袁家とその関係者は長安より『袁紹を討ち取れば逆賊の認定を解く』と言う言葉を引き出すことに成功する。


元々袁術にしてみれば、袁家の家督簒奪を(たくら)んだ挙句、自分たちを窮地に追い込んだ袁紹を殺すことに否は無い。


よって彼は長安から正式な赦免を得たことを声高に(けん)(でん)し、周辺の諸侯に対して『味方をするなら助命や逆賊認定の解除に関して袁家が口添えをする』と言うことで、連合に参加した諸侯に対して恩を売り、汝南袁家の足場を再構築して行った。


この袁術の動きにより、袁紹を担ごうとした者たちの足並みは乱れに乱れることになる。


特に大きな動きを見せたのが冀州の韓馥だ。彼は逆賊の汚名に耐えかねて、袁術からの使者に対して肯定的な返事を返すことになる。


そもそもの話だが、彼は袁家の被官であって袁紹個人の配下では無いのだ。更に韓馥は、王允や楊彪によって冀州刺史に任じられていることからわかるように、董卓が大将軍となってから冀州を任された人間である。


故に橋瑁が檄文を発した時点では冀州の事など何も知らない状況であり、当然冀州の豪族に対しての影響力など存在しなかった。


そこに橋瑁や鮑信に張邈と言った兗州所縁(ゆかり)の者たちから冀州の豪族に対して連合参加の呼びかけが行われ、彼らがそれに応じてしまった以上、韓馥には冀州勢の連合への参加を止める術など無かったのだ。


命懸けで参加を止める?彼にそんな気概はない。


このような感じで、状況に流されるがまま連合に参加することになった韓馥にとって最良だったのは、袁紹が勝って皇帝を手中に収め、全部をなぁなぁで済ませてしまうことだった。


と言うか、それしか無かった。


しかし、結果は連合の敗北。(大本営発表がどうあれ、戦略目標である董卓の打倒と皇帝の奪取ができなかった時点で負け)


この結果、袁紹共々正式に逆賊に認定されてしまった彼は、多大なストレスに襲われることになった。


さらに問題なのは、洛陽の真実を知らない地方の軍閥連中とは違い、彼は元々洛陽に居たので、洛陽で袁紹が何をしたかと言うことをしっかりと理解していたと言うことだ。


今回の一連の流れに於いて非は宮中侵犯と言う罪を犯した袁紹にあることを知っていた彼は、当然橋瑁が発した檄文の中にあった勅と言うのが偽りであったことも知っている。

 

故に、彼は現在長安から『全て承知の上で皇帝に弓を引いた本物の逆賊』と見做されているのだ。


しかし重ねて言おう、韓馥にそんな気概など無い。


だが今のままでは釈明の余地などなく、使者を送っても殺されて終わるだろう。劉虞を皇帝にすることが出来たなら彼に仕えることで逆賊の認定も取り消してもらえるかも……と淡い期待を抱いたのだが、劉虞は袁紹らから提案された『皇帝として擁立したい』と言う要請をあっさりと拒否してしまった。


こうして最後の希望も絶たれ『もう袁紹を掲げて逆賊として生きていくしかないのか……』と絶望していた韓馥の下に袁術からの使者が訪れ、逆賊からの脱却の可能性を示唆されたなら、主従揃ってその提案に心を動かすのも仕方のないことだと言えよう。


ちなみに今でも袁紹を担いだ諸将から『袁家の当主は袁紹なのだから、自分たちは袁紹の下で一致団結するべきだ』と言った内容の使者は来ているし、袁紹から送り込まれて来た審配などは、勝手に袁紹へ味方する確約までしている始末だ。


韓馥がそれを知り咎めれば逆切れして『袁紹様がいなければ、公孫瓚や董卓が攻め寄せてきたら滅ぼされるぞ』などと脅してくる始末である。


同じ袁家の被官ではあるが、ただ袁紹の取り巻きだからという理由で、州刺史の自分よりも大きな顔をする審配を嫌っている韓馥にしてみたら、これだけでも袁術へ味方したいと思うには十分であった。


それに、配下の沮授も『連合が解散した今、根拠地を持たない袁紹に味方しても得るものは無い』とか『逆賊の認定を解く為には袁紹より袁術に味方するべきだ』と言っているのも大きい。


これらの事情が重なり、袁紹を切り捨てて袁術に味方しようとしていた韓馥の下に、予想もしなかった報を携えた使者が訪れたのは偶然なのか必然なのか……。




史書は『初平2年10月、韓馥は袁紹を(ぎょう)へと迎え入れた』とだけ伝えている。


孫堅がホクホクですが、洛陽から解放された董卓も中々イイ感じです。


袁紹のやろうとしたことって『帝(劉協)が若いから董卓の専横を許したんだ。だから壮年の劉虞を皇帝にしようぜ!』と言うことですよね?それって『帝(劉弁)が微妙だから賢い劉協を帝にしようぜ!』って言った董卓と一緒じゃね?


そりゃ董卓を逆賊扱いできませんし、劉虞だって乗りませんわなってお話。


沮授は当初、袁紹を迎え入れることに反発してたんですよねぇ。

審配の動きについてはオリジナル。田豊はこの時期から韓馥に疎まれております。




――――



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