36話。進撃の巨獣
初平2年(西暦191年)5月。
華雄撤退の報を受けた河内方面に展開していた連合軍は、華雄が敷いていた陣に対し調査隊を送り、華雄の撤退が事実であることを確認する。
いきなりもぬけの殻となった敵陣を見た諸侯の間では、董卓による空城計を疑う声もあったが、袁紹は構わずに陣の跡地へと進行しその胆力を褒め讃えられたと言う。
それからと言うもの、最初は恐る恐る行軍していた諸侯も勢いを取り戻し、5月に入ってからは行軍速度を上げ、先を競うように進軍を続けていた。
その10万を越える大軍による行軍は『無人の荒野を往くが如し』と称されるほどのモノであったと言う。
……連合軍と言う名の巨獣は徐々に洛陽に迫っていた。
―――
司隷・匽師
「ふはははは!董卓め!この大軍に恐れをなしたようだな!」
「……(今更か?それならば軍の維持費に限界が来たと言われた方がまだ信憑性があるだろうに)」
洛陽に近付くにつれて気が大きくなっていく袁紹とは反対に、ここのところ曹操は陳宮らと共にずっと華雄が撤退した理由を考察していた。
そこで彼らが一番最初に思い至ったのが、兵糧の確保について何か変事があったのではないか?と言うものであった。
この考えは、元々洛陽には租税が集められていたと言うことを考えれば、董卓陣営にとって特に不安があるようには思えないかもしれない。
しかし、よくよく考えてみれば決して荒唐無稽なものではない。なにせ董卓軍の主力は数万の騎兵なのである。
極端な話をすれば、食事を与えていれば最低限の維持ができる10万の歩兵を維持するよりも、大量の飼葉や水・塩を必要とする軍馬を一万頭維持する方が維持費は嵩むと言うのは常識だろう。
そんな軍馬に乗る騎兵が五万の軍勢のうちの6割を超えると言うのだから、その維持費はどれほどのものになるのか曹操には想像もつかないし、その維持費のせいで董卓軍の主簿や王允らは悲鳴を上げているだろうことは想像に難くない。
さらに言えば、現在大将軍府にはいないが、向こうの陣営には極度に無駄を省く思考の持ち主である『彼』が居る。
今までは何かしらの準備をしていて、滞陣を必要なことと判断していたのだろうが、その『何かしらの準備』が終わったならば、無駄に兵糧を浪費するような真似をせずに、さっさと軍を引き上げると言う選択をする可能性は非常に高い。
つまり、今の自分たちは『彼』が用意した舞台に上がろうとする役者であると推察出来る。
「……むぅ(そしてこの状況での演目はなんだ?袁紹と袁術による同士討ち?いや、諸侯は袁家の配下ではないから戦に発展する可能性は低い。ならば孫堅に対して軍勢を派遣させて後ろから襲う?いやいや誰が己の領地を放棄してまで襄陽まで行くんだ)「……い!おい!」……ん?うぉ?!」
「聴いてるのかッ?!」
誰かに呼ばれた気がして視線を上げた先に、厳しい顔をしたオッサンの顔がドアップが写りこんで来たので、曹操は思わず声を上げて背筋を逸らす。
「あ、あぁすまない。これからどう動くか考えていたのでな」
「む?そうか。まぁ気持ちはわからんでもないぞ。あまりに順調過ぎるのも考えものだと言いたいのだろう」
「そ、そうだな。(こいつが順調さを疑うだと?……まさか、偽物か?)」
自身が苦し紛れに言い放った言葉を真に受け何やら考え事をする袁紹に対し、非常に失礼なことを考える曹操であるが、袁紹を知る人間なら誰もが同じようなことを考えるだろうから、これは仕方のないことだろう。
そして密かに頭の中を疑われた当人は、深刻な顔をして己の考えを述べる。
「うむ。このままでは袁術が来る前に全てが終わってしまう。私としては、袁術やその周囲の人間にしっかりと現実というやつを見せつけてやりたいのだがな!」
「……そうか(なんだいつもの袁紹だな)」
ハッハッハッと高笑いをする袁紹を見て、曹操は偽物疑惑を隅に追いやって彼の内心を推察することにした。
現代日本人にわかりやすく言うならば、彼は今まで本家の跡取り面をしてきた袁術に対して『ざまぁ』をしたいのだ。
もっと細かく言えば「本家の跡取り面してたのに俺よりも少ない兵力しかないねぇ?」だとか「普段あれだけ偉そうにしてたのに孫堅に裏切られてるしw」だとか「ボコボコにされた挙句洛陽に一番乗りできなかったけど、ねぇ、今どんな気持ち?」と言った感じだろうか。
非常に性格が悪いが、無駄に誇り高い名家などこんなものだし、いつも偉そうに使っている『四世三公』と言う家の格でマウントを取れない以上、抱え込んでいる人間の数や行動の成果でマウントを取るしかないのが彼の現状なのである。
抱え込んでいる人間に関してはともかく、行動の成果でマウントを取るのは決して間違った行為とは言えないので周囲からも文句は無いのだが、実質家督を簒奪しようとしている(本人には家督簒奪の自覚は無い)現実を考えると、儒教的には決して褒められた行動ではないのも確かである。
結局のところ袁紹としては袁術相手にマウントを取って袁家の人間に当主と認められたいのだ。取り巻きとしても今更袁紹が袁術との家督争いに敗れてしまえば、何も得るものが無くなってしまう。
いや、それどころか袁術が家督を継いだ場合は『これだけの連合を組織することができたと言う実績を持つ袁家から敵視されてしまう』ことになるので、取り巻き連中はさらに必死である。
しかし連合に参加している人間の全員が全員そのような考えを持っている訳ではない。今の袁紹の発言を聞いた袁家の家督争いに関わらない諸侯の心中を言葉にするなら『少しは袁隗を見習え』と言ったところだろうか。
ちなみに曹操は、袁紹が家督争いに勝ったら袁紹からおこぼれを貰いつつ董卓と繋がる予定だし、袁紹が負けたら一目散に董卓に頭を垂れに行く予定だったりする。
自身が連合を率いて董卓に勝つ?それは不可能だと分かり切っているので考慮に値しない。まず優先するのは董卓。次いで袁紹。それから張邈などの友人である。
……このような弱腰の決断をセコいと言ってはいけない。家長とはどちらに転んでも家を残すのが最大の努めなのだ。
そんな袁家の家督争いに関する諸事情はともかくとして。
「ではこれからどうする?袁術を待たずに洛陽へ向かうか?最悪の場合だと我々が華雄・徐栄・牛輔を率いる董卓と当たることになるだろうが……」
「……むぅ。その可能性もあるか」
ここまで接近しても洛陽の情報が入ってこないことに違和感を抱いている曹操としては、袁術と合流してから洛陽に向かうべきだと考えている。しかし曹操に連合軍の進退を左右する権限は無い。
まず諸侯の意見も聞く必要があるし、何より盟主である袁紹がその立場を強調して『袁術に先駆けて我らが洛陽に入る!』などと言ってしまえば、反対意見を述べるのが難しくなってしまう。
そのためこうして袁紹とサシで話す機会を得た曹操は『最悪の場合』と前置きしつつ、己の推論を述べることにした。
「そうだな。向こうの戦略を考えれば、分散していた軍勢を一箇所に集めて我々を各個撃破すると言う可能性は決して低くはないと思うぞ」
「……我々が負けると?」
これまで散々大軍がどうとか、相手が怖気づいて逃げたのだ!と豪語していた袁紹だが、華雄が率いていた軍勢の強さは理解している。それでも相手が三万前後ならなんとかなる!と思ったかもしれないが、ここで向こうに牛輔の軍勢まで加わるとなると、その自信が揺らいでしまうのも仕方のないことかもしれない。
「勝敗は兵家の常だ。必ず勝てるとも言えないし、必ず勝てないとも言わんさ。だが現状では勝てたとしても我々だけが損害を被る事になるぞ?」
とは言え馬鹿正直にソレを指摘した場合、袁紹特有のわけのわからない理屈で押し通して来る可能性もある。よって袁紹の性格を熟知している曹操は、敢えて勝敗に関しては濁し戦った場合『自分たちだけが損害を被る』と言うことを強調した。
これが意味することは一つ。
「確かにそうだ。そして損耗した我々を袁術が狙うか……」
「そうなるだろうな(実際に戦えば損耗どころの騒ぎではないがな)」
内心では『董卓が率いる軍勢と戦えば鎧袖一触で負ける』と確信している曹操ではあるが、今は袁紹の説得が最優先だ。そのため袁紹が理解しやすいような流れを説明した。
袁紹もその意見には納得出来たようで、袁術を放置して先発した場合の損得勘定を行っている。
ただ曹操としては、現状董卓軍に襲われて居ないと言う事実から、董卓はこちらの集合を待っている可能性が高いと思っている。
なにせ向こうは、次の戦では元々自分たちと戦っていた涼・并州の軍勢に加え、洛陽にいるはずの五万の官軍も使えるのだ。
そうなった場合どうなるか?
普通に考えれば、官軍が袁術か袁紹どちらかを抑えている間に、涼・并州の軍勢がもう一方を殲滅。その後で残った軍勢を包囲殲滅すると言う、戦略が成り立ってしまう。
これを行う為には、官軍がどちらかを押さえ込む必要があるのだが、そもそも官軍と言うのは漢という国における唯一の正規軍であり、その装備や練度は極めて高い軍勢である。(少なくともまともな訓練も装備も施されていないような民兵の群れでしかない連合軍とは、根本から比べ物にならない)
さらにその軍勢を率いる将は、皇甫嵩や朱儁と言った万の兵を率いる事を経験している優秀な将である。
つまり兵の質も将の質も負けている上に、こちらは連合軍と言う寄せ集めの軍勢なのだ。
その上、連合に所属する諸侯の誰もが『自分たちは損耗したくない』と考えて及び腰になっているときた。そんな軍勢を相手に『逆賊死すべし』と意気を上げる官軍が負けるはずもない。
数年前になるが、指揮が一本化された上に、兵士一人一人が死兵となって襲い来る黄巾の連中ですら、倍する兵を持ってしても官軍の前に破れたのだ。その際に大規模戦闘を経験した人間の大半が官軍に居ると考えると、連合軍に勝ち目など無いに等しい。
冷静に状況を振り返れば「なんで俺はここにいるんだろうな……」と遠くを見たくなる曹操だが、勝敗がはっきりしているからこそ、袁術を呼び寄せ万全を期すべきだと言う考えを持つに至ったのだ。
なお、この場合の『万全』とは『董卓が余計な手間暇を掛ける暇が無いようにする』と言う意味合いであり、正しく埋伏の毒としての仕事をしていると言えよう。
「なるほど、お前の意見は分かった。ここは業腹ではあるが、袁術を呼び寄せよう」
見るからに不機嫌そうだが、それでも袁紹は袁術を待たずに董卓に挑んで被害を拡大させることよりも、袁術を巻き込む(あわよくば先に董卓とカチ合わせる)ことを選択する。
「そうか。なに、我々がこうして袁術に先んじて洛陽に接近しているのは事実だ。これから袁術が着陣しても、洛陽へ先着したのは我々、いや、盟主である君だと言うことは誰もが理解しているさ。ここは大度を見せるべきだろうよ」
そんな袁紹に対して、曹操は極々当たり前のような顔をして持ち上げる。
「ま、まぁそうだな。元々あやつやその周囲の連中に現実を見せる予定だったのだ。少しくらいは待ってやる余裕を見せるのも、勝者の在り方と思えば悪くないかもしれん」
普段このようなことを言わない曹操ですら自分を認めるようなことを言って来たことで、袁紹は己の勝利を確信し、一気に上機嫌になった。
袁紹の脳内では、高みに座りながら下座に着く袁術に対し『遅かったな。もうお前のすることはないぞ?』と睥睨する姿でも浮かんでいるのだろう。
その口元は内心を表すかのように歪んでいた。
そして、その袁紹を持ち上げて連合軍の行軍を遅らせる事に成功した『連合軍盟主の親友兼相談役』の曹操はと言うと「急いで洛陽の状況を調べて董卓に連絡を付けねばならん」と、明るい将来を夢想して浮かれる袁紹とは正反対に、なんとかして自分が奈落に落ちぬようにと深刻な表情で考えを巡らせていたと言う。
やだ、敵の罠の可能性を一笑に付す袁紹=サン格好良い!
皆様だんだんと魔都洛陽に近付いて参りました。
洛陽で彼らを待つものとは一体?!ってお話。









