28話。反董卓連合⑦
時は戻って洛陽大将軍府。
阿鼻叫喚の地獄が生み出された悪夢の酒宴の翌日、外道が上奏し帝が承認した策を遂行する際に生じる書類仕事の殆どを担当することになる荀攸は、情報提供者の淳于瓊を呼び出し細かい話の聞き取りを行っていた。
「……と、まぁこのような会話がありまして」
「なるほど。それで太傅殿が陛下に上奏した策と言うのが……」
「えぇ。長安への遷都です」
「……やってくれる」
淳于瓊から話を聞いた荀攸は、腹黒外道の腹黒さと外道っぷりを再確認し、ギリッと音が出るくらいに奥歯を噛み締めた。
何が気に入らないかと言えば、かなり前から入念に準備していたはずの外道の動きを見落としていた自身の無能さに腹が立っていた。
まぁその外道は『早いうちに荀攸にバレたら必ず反対されるし、その際に他の連中にも情報が漏れる可能性がある』と判断していたので、徹底して荀攸にバレないようにしていたと言うのもある。
しかしそんなことは裏を掻かれた言い訳にはならないのだ。
完全にしてやられた荀攸は内心に悔しさを滲ませながらも、彼が帝に上奏したと言う内容を、頭の中で反芻する。
……確かに敵は自分達の倍にもなるだろう。
……確かに洛陽は囲まれているだろう。
……確かに洛陽は守りづらい都市だろう。
……確かに籠城中に洛陽の内部にいる名家や宦官と繋がりが有る人間が裏切って、内部から自分達を崩して来るかも知れない。
そもそも「百万人が生活しているとまで言われる洛陽で、籠城戦を行うと言うのは現実的では無い」と言われれば、荀攸とて「その通りだ」としか言えないのは紛れもない事実だ。
兵糧の問題も有るし『都市内に居るであろう、名家や宦官と繋がりがあった人間を完全に排除するのは不可能』と言う意見も正しい。
さらに董卓は大将軍になって日も浅く、前任者(何進)と比べて、完全に軍を掌握しているとは言い難い。
つまり『今の董卓は内外に敵を抱えている』ということになる。
そんな中、倍の敵を相手に戦をしたならば、董卓が負ける可能性が無いとは言い切れない。さらにさらに、洛陽が落ちたら帝の威信は下がるし、歴代の陵墓も荒らされる可能性も有る。
「(あぁそうだ。全てその通りだ)」
戦に絶対は無い。しかし、倍の兵に包囲されているなら『普通は』負け戦だろう。
たとえ洛陽の内部に居る連中がとるに足らない虫であっても、獅子身中の虫であることは事実なので、内外に敵は居るだろう。
たとえ洛陽の外で展開している『自分達の倍の敵』が、訓練も不十分で、まともな戦闘経験もなく、指揮官が儒の教えに傾倒し、兵法に関しては兵法書を多少読み込んだ程度の指揮官であっても、万が一が無いとは言い切れない。
そう。彼は帝に対して何一つ嘘を吐いていない。
故に常識人である荀攸や淳于瓊には彼の意見を完全に否定することはできないし、今から陛下に対して反対意見を上奏するにしても陛下から
『ならば董卓は確実に勝てるのか?万が一にも負けはないのか?もし何かあった場合の責任は誰が、どのようにして取るのだ?』
などと問われてしまえば、荀攸に反論できる余地などない。
何せ、ことは今を生きる帝の威信や歴代の陵墓に関わるのだ。万に一つの失敗も許されないが故に、文字通り『万難を排する為』と考えれば、洛陽を捨てると言う策は間違っているとは言い切れない。
この策を政治的に考えれば『洛陽は反乱軍に落とされたのではなく、内部に巣くう反乱分子を切り捨てる為に、帝の意思で捨てたのだ』と言えるし、実際にそのような意図も含まれている。
そして戦略的に考えたならば『洛陽を連中に差し出すことで連中に対して一定の実績を与え、その事実をもって連合を解散に追い込むことが出来る』と言った可能性が生まれる。
本来ならばわざわざ洛陽を明け渡さずとも、普通に迎撃をするだけで勝てる。しかし問題は向こうが動かないことにある。
これは今までに数回行われている小競り合いにおいて、董卓が率いる軍勢の強さと自身が率いる集団の脆弱さを自覚してしまったが故に(袁紹はともかく、その幕僚は理解している)、連合全体が完全に畏縮してしまっている為であった。
よって『本格的な戦をしたら負ける』と言うことを理解している彼らが積極的に動くことは無い。
だが、それでは困るのだ。
何せ現在洛陽周辺では、敵味方合わせて30万に及ぶ軍勢がにらみ合いをしている状態である。
戦が起こらないことで、死者や負傷者が出ないのは良いことだ。しかしそれは、維持費が嵩むと言うことを意味する。
この浪費による損失が莫大なモノとなるのは、今更語るまでも無いことだろう。
しかし、だからと言って連中には『何も成果を挙げずに解散する』ことなど出来はしない。
つまり今の彼らは、
戦っても負けるから戦えない。
戦えないから成果が上がらない。
成果が無いから解散できない。
解散できない軍勢を維持するために物資を浪費する。
物資の浪費が重なればいずれは財が尽きる。
財が尽きれば軍勢の維持ができなくなる。
軍勢の維持ができなくなれれば戦いにならない。
つまり負ける。
と、このような悪循環の真っ只中に有るということだ。
向こうにすればこの状況は悪夢そのものだが、洛陽側としてはこの状況になることを予測……というか『意図的に膠着状態を保つことで連中の財を浪費させる。そうして地力を弱めた所で残らず叩き潰す』といった流れを基本骨子としていたため、最初からこの状況になるように各自が動くよう指示を出していたのだ。
しかしここでいきなりの方針転換である。いや、荀攸とてこの期に及べば、あの外道が最初からこの為に膠着状態を作り出したのだろうということは理解できている。
この外道の策を採用した場合、洛陽を連中に譲ることで、向こうに『洛陽攻略』という成果を、つまり連合解散の口実を与えることになる。
そうなれば賊軍を含めた周囲の状況はどうなるだろうか?
まず第一に連合だ。一度解散した連合を再結成することは不可能に近いので、今後は連合参加者を各個撃破することが可能になるだろう。
これは『敵に纏まりが必要だ』と言う基本から外れることを意味するが、元々一度の戦で全てが終わるわけではないし、当初の目的である『敵の炙り出し』は完了している為、損得で考えれば得るモノが多いと言えよう。
そして第二に、こちらの利益と賊徒への妨害工作にもなる。それは、洛陽や陵墓に納められた財を全て回収することで、こちらの懐を暖めると同時に、連合参加者に対して略奪をさせないことで経済的な打撃を与えることが出来るからだ。
連合参加者にしてみたら、兵を集め、維持しているだけで金が掛かっている。その負担は時を重ねる毎に加速度的に増え続け、今や彼らの頭を悩ませる最大の要因となっていた。
ちなみに、滞陣によって浪費しているのはこちらも同様なのだが、司隷には国中から集められた租税があり、大量の兵糧も備蓄されているので、その負担は諸侯とは比べ物にならない程に低い。
よって連合に所属している彼らとは違い、焦りはない。
反対に諸侯は早急に洛陽に入って財を回収し、それを損失の補填に充てないと地元に帰還した際にまともな統治を行うことすら不可能な状況に陥りつつある。
更に言えばもしもこれから『洛陽を落とした』という成果を挙げた場合、彼らは配下に褒美の支払いをする必要だってあるのだ。
当然そのアテは洛陽や陵墓に蓄えられていた財となるだろう。しかし、だ。とうの洛陽にそれら褒美となる財がなければどうなるだろうか?
褒美を貰えない兵士や、彼らに突き上げを食らうことになる諸侯の不満をどうやって解消すれば良い?
言い出しっぺの橋瑁に払えるか?
それとも盟主である袁紹が払うか?
もしくは副盟主として袁術が払うのか?
その場合の配分はどうなる?
……間違いなく連合内で諸侯の仲間割れが発生することになる。
いや、それどころか、不満を持った兵卒らが諸侯を殺す事態にまでなりかねない。
そこで困窮した諸侯に対し、長安に移動した丞相の名で資金援助などを持ちかければ、どれだけの者がその申し出を拒否出来るだろうか?
ここまで行けば、連合は間違いなく瓦解する。
それどころか、連合内部に不満が溜まり『袁紹を敵にしても周囲に袋叩きにされない』と袁術が判断したならば、彼はこちらが何かをせずとも袁紹の罪を鳴らし、討伐の兵を挙げるだろう。
(我々はその共食いを高みにて見物すれば良い。というわけか)
つまるところ、洛陽に固執する理由が無いのなら、一度捨てた方が政治的にも戦略的にも正しいのだ。そして、洛陽が都ではなくなり、歴代の陵墓も移設すると言うならば、自分たちも洛陽に拘る理由も無くなる。
残るは個人の感情だが……荀攸の場合、確かに彼の家は漢を代表する名家ではあるが、その家が有るのは潁川なので、必ずしも『都は洛陽で無くてはならない!』などと言うつもりはない。
そして董卓をはじめとした武官たちに至っては、無駄に澱んだ洛陽よりも、長安の方が色々とやりやすいくらいだ。
故にこの策に強固に反対する者は、袁紹らが洛陽に入ることで得をするような者と言っても良いだろう。
具体的には洛陽の既得権益に染まった者や、古き因習に囚われた者となる。
(常日頃から『あんな奴等はいらん』と嘯いていたどこぞの外道は、この機にそう言った連中を纏めて処分するつもりなのだろう)
それは大将軍府に所属する人間なら誰もが理解できる想いだし、かくいう荀攸にも似たような想いは有る。
だからと言うわけではないだろうが、武官の中には早くも『絶対殺す名簿』が出回っていると言う噂も有るとか無いとか。
そんな彼らの殺伐とした連帯感は置いておくとしても、このように大将軍府の内部(特に武官)では遷都に対して反対意見よりも賛成意見が多いのが実情である。
そもそも大将軍府の人間の意見がどうこうは関係ない。
なにせこの策は、療養中とは言え正式な帝である劉弁が発令した正式な勅命なのだ。
病床にある幼き帝が必死で考え、先祖に対して涙を流して謝罪しながら決意して発令されたであろうこの勅に対して、臣に過ぎない自分達がどの面下げて逆らうことなど出来ようか?
しかも反対する理由が、政治的な意見でもなければ戦略的な意見でもなく、極論すれば『仕事が増えるから嫌だ』と言うモノでしかないのだ。
そのような無礼・不敬を通り越した戯れ言など、絶対君主に逆らってまで口に出すべきことでないと言うのは、今更語るまでもあるまい。
故に反対意見を出すのは時間の無駄。
そして実行すると決めたのならば、この策は最優先で実行しなくてはならない。
それも連合の連中と睨み合いをしつつ、向こうにばれないように(露見すれば向こうもがむしゃらに攻めてくる)する必要がある。
……これだけでこの策の難易度の高さは窺い知れるだろう。
この件において部下に強いる苦労たるや、一体どれ程のモノか……
そして自分に襲い来る書類は一体どれ程の規模になるのか……
それを理解したからこそ、董卓は泣いたのだ。
部下に酒を注ぎながら「すまぬ、すまぬ」と何度も詫びを入れ、自分も「飲まなきゃやってられん!」と、盛大に羽目を外し、そして泣いたのだ。
将軍とは時に配下を敵の大軍が待つ戦場に送り込んで『死んでこい』と命じることが仕事である。
そして董卓と言う漢は、将軍として見れば超が付くほどの一流の将軍だ。
しかし、その超一流の将軍であっても、書類と言う悪魔が待つ戦場に配下を送り込み『死ぬまで働け』と命じることは出来なかったと言う。
大将軍・董仲頴。名家や宦官からの評価は極めて低いが、部下からの評価は極めて高い漢である。
焦土作戦。それは敵味方を地獄に叩き落とす策。
史実ではどうか不明ですが、演義において李儒君が連合を潰すために使った策でございますな。
孫堅がいくら頑張っても、所詮は戦術上の勝利!戦略で勝てなければ意味が無いのだ!
……演義では頑張ったのはG=サンですけどね。
そんなわけで遷都です。これから数ヵ月の間、彼らの夢枕にはあのゆるキャラが……ってお話。