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幕間。そのころの洛陽

タイトルそのままですね。

文章修正の可能性有り。

中平6年(西暦189年)9月。嘉徳殿に参内した大将軍何進が暗殺されたと言う報はすぐさま洛陽を駆け巡った。


大将軍府の留守を預かっていた荀攸は、袁紹が嘉徳殿へ乱入したと言う報を受け、すぐさま現場へと兵を差し向けようとした。しかし禁軍に命令権を持つ李儒も李厳もおらず、自前の兵を持たない(常備兵は居るが千程度)彼らは即座に対応することが出来ず、袁紹らを現場で取り押さえることは出来なかった。


そして事件の翌日、袁紹は「自分が張譲と何進を殺した!」とは公表せず(意気揚々と袁隗に報告したら、殴り飛ばされた)、何進は張譲に毒を盛られて殺されたので、自身が兵を率いて報復したという形で情報を公表する。


一応の証拠品として毒が塗られていた食器や張譲の部屋にあった毒類等も提示されたが、この日の袁紹の行動には不審な点が多かった為、周囲の人間を納得させることは出来なかった。


その為


「そもそも何故袁紹が兵を率いていたのだ?」

「それ以前に禁軍は何をしていた?」

「袁紹の兵が暴れたせいで後宮が荒らされたというのは本当か?」


等と言った疑問の声が上がったし、また名家の人間からも


「自分の息子は『何進大将軍にやられた』と言っているがどう言うことか?」

「袁紹殿が普段から『何進大将軍と張譲を殺す』と息巻いていたのは無関係とは思えない」

「何進大将軍が毒で殺されたと言うなら、争いは起こらないはず。後宮に勤めていた我が家の娘は誰に殺されたのだ?」


と言った苦情が袁家に寄せられていたと言う。


前者の疑問を上げたのは主に軍部で、後者の苦情は名家からなのだが、共通してあるのは袁紹に対する疑惑である。


更に言えば、今回の件に関しては袁紹に誘われて今回の乱に参加した者たちの家族は、当然袁紹が張譲と何進を殺したことを知っているし、彼らが率いた兵が後宮に上がっていた名家の子女を拐かしたと言うことも知っている。その為、ある意味袁紹の共犯である彼らが真実を話すことは無かったのだが、そのせいで一つの問題が発生してしまった。


……まぁ一つどころか全部が問題なのだが、とりあえずここで問題となるのは、自分の娘を拐かされた者たちに対する言い訳が浮かばないと言うことだ。


言うまでも無い話なのだが、後宮に於いて禁軍や袁紹らの兵に拐かされた女官はただの女官ではない。将来の皇后への根回しだとか、皇帝の手付きとなってくれれば最高だと言う目論見を持って、名家の人間に送り込まれていた名家の子女だ。


それらが大量に殺されたり行方不明になっているのだから、当然その死亡原因や所在確認は行われなければならない。


これが死んでいるならまだ良かった。その場合は袁隗が周囲に頭を下げて賠償するなりなんなりすれば、向こうの家も「気分は良くないが元は取れた」とするだろう。


袁家にとって問題となるのは生きている女官であった。


今回の件においては、宮中で何進(大将軍)が殺されたと言うことで、大将軍府を預かる荀攸は禁軍すら容疑者として調査に乗り出している。


流石の袁隗もこの件で彼を止めることは出来ないので、調査を受ける対象である禁軍の連中や名家の者に対して口止めを行ったり、口裏合わせをする必要があるのだが、何進同様に被害者である彼女らには容疑者を庇う理由がなかった。


彼女らは家族や親族に対して袁紹や禁軍の暴虐を訴えたし、大将軍府の人間が調査に訪れたときは当主が止めるのも聞かずに、大将軍府の人間に対して彼らの暴虐をしっかりと伝えていた。


元々後宮に生息していた張譲らには女官を拐かしたり殺す理由がないし、正規の手続きで参内した何進にもそのようなことをする理由が無いと言うことは、誰の目にも明らかであったので、袁家の言い分は支離滅裂であり信憑性の欠片もなかった。


そんなところに生き残った彼女たちから多数の証言が寄せられるのだ。


ことここに至っては宮中を荒らしたのは禁軍と袁紹が連れていた兵であるとされるのは当然であろう。さらに容疑者となった禁軍の人間や袁紹の周りの人間の様子を調べれば、明らかに血の臭いをさせていたり、女官が付けるような化粧や後宮に仕える人間独特の匂いも残っているではないか。


さらにさらに兵士の家を家宅捜索すれば、一介の兵士が持つには分不相応な置物や大量の銭だけでなく、生き残っていた女官が発見される始末。


これはもう「禁軍と袁紹の手勢による宮中侵犯だ」と言う結論が出るのにそれほど時間は要らなかった。


そして大将軍府の人間が家宅捜索を行った家に住む禁軍の兵士を捕らえて尋問を行ったところ、袁紹が己の立場を利用して宮中へと乗り込んだことや、何進の死が袁紹らによって齎されたものだと言う証言を得ることが出来たのも大きい。


「ここまで情報を得た以上は、一気呵成に袁家を滅ぼすべきだ!」と言う声が大将軍府や軍部から上がるものの、荀攸はその行動を起こすことが出来なかった。


その理由は幾つかあるのだが……最大の理由は、劉弁と劉協の姿が見えないことと、心ある禁軍の人間に保護されていた何后が沈黙を貫いていることであった。


これに関しては、尋問を受けた禁軍の兵士たちが、死ぬまで「両殿下の居場所はわからない。袁紹が保護した可能性がある」としか言わなかったので、荀攸は『袁紹による宮中での狼藉を制止させないための人質として袁家が二人を確保した』と判断したのだ。


もしもそうなら、何后が袁家を非難すれば劉弁の身が危うくなる。よって彼女が沈黙を貫くのも説明が出来てしまう。袁家にとっては何進の甥などに価値を見出していないかもしれないが、荀攸は違う。


彼の価値観では、劉弁は何進の甥であること以上に先帝の長子であり皇太子である。そのような貴人を袁紹のような阿呆に殺させるわけには行かないと言うのも有り、出来るだけ袁家を刺激をしないようにと周囲へ命じていた。


これに対する袁家だが、彼らは彼らで混乱していた。それと言うのも、袁紹から「何進と張譲は居たが両殿下は居なかった」と言う寝言を聞かされた袁隗が胃痛で倒れると言う騒動があったり、今回の事実を確認した袁術が「今すぐ袁紹を殺すべきだ!」と騒ぎ立てていたりして内紛状態にあったからだ。


そんな中で彼らは「両殿下は大将軍府で確保されており、自分たちが何か言い訳をしたところで潰しに来るのでは無いか」と戦々恐々していたと言う。


この奇妙な膠着状態は洛外から淳于瓊が帰還するまでの数日の間続き、洛陽の人間たちは袁家と荀家(大将軍府)の間で行われていた水面下の戦いの趨勢を静かに見守っていた。


……どちらが勝ち馬なのかを真剣に考えて右往左往していたとも言う。


――――



孫堅が少数の兵を率いて洛陽へ到着したのはそんな時であったと言う。


「……なんぞこれ?」





女官が拐かされたと簡単に言いますが名家としては大打撃です。袁紹の味方をして傷を負った子供に対してはまだしも、無傷の袁紹に対しては尚更キツくなりますね。


何后も荀攸も両殿下が無事に逃げきって李儒確保されたと言う情報が無いので、下手に動けないもよう。袁家に至ってはもう……ってお話


孫堅?ハハッ。

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