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登場人物紹介

基本的に作者の独断と偏見にまみれた解説です。


大将軍府・李儒関連



――


李厳:南陽郡生まれの万能主。後の蜀漢に於いて劉備から信任を受けることで有名。さらに演義では黄忠と一騎討ちをしたりと、文武に優れた将帥として扱われている。

晩年は不遇だったと言うが、アレは北伐に失敗した諸葛亮にミスを押し付けられたか、権力争いに破れたんじゃないか?とか言われているが、息子は普通に昇進しているので実際のところは作者も良くわからない状況である。

コー○ー的な能力値は平均80超えであり、弱点が無いことから、作者の周りではリトル曹操扱いされている。(断じて劣化版曹操ではない)

何時でも何処でも使えるし、能力90縛りをした場合は全部将の中でもトップに君臨する逸材。人呼んで三國志の米五郎佐(丹羽長秀)


――


荀攸:157年生まれの30歳。かの有名な筍の軍師……ではない。筍にとって荀攸は年上の甥。後の曹操軍に於ける軍事の筆頭軍師として有名。現在は何進によって招聘され、大将軍府で働いている。実質的な大将軍府の文官の纏め役である。

李儒が抜けたせいで出来た仕事の大半を回されていてストレスが凄いらしい。


――


張遼:遼来々の人。西暦165年生まれの22歳。李儒と同い年。史実でも并州刺史の丁原から推挙を受けて何進に仕えているが、何進の勢力拡張が史実よりも早いので彼も早めに大将軍府に所属している。今はまだ下っ端だが、李儒が何かと気にかけているので何進も彼のことは知っているらしい。大将軍府で数少ない李儒を物理的に殴り倒せる人物の一人なので、荀攸もいざという時は彼を使うつもりである。


――


徐晃:長驅直入徐公明の人。18歳。生没年が???~227年なので作者によって年齢を弄られている。三國志のビギナーにはコウメイ繋がりで「徐の方」と呼ばれてからかわれることがあるが、作者的には「諸葛の方」よりも使えると思っているとかいないとか。現在は弘農にて都尉として働いている。


――


鄭泰:本来は189年に荀攸と同じく何進によって呼び出されるのだが、党錮の禁の解禁を受けて李儒が何進より先に目を付けて配下にした。李儒がいない間は弘農での政治を担当している。


――


司馬懿:弟子。西暦179年生まれの8歳児。男。言わずと知れた司馬仲達。

諸葛亮と並ぶ軍師とされることが多いが、彼は主君を支える軍師では無く、与えられた命令を粛々とこなす将帥である。そのためなのかどうかは知らないが、晩年も政治的な実権のある役職には就いていない(太傅は名誉職)


基本的に序列や規律を重んずる忠臣と言っても良い人物であるにも関わらず、孫の司馬炎が晋を興したせいか創作物ではラスボス扱いや奸臣扱いされることが多い。つまりは孫の風評被害に遭った被害者と言えるだろう。


曹爽一派の誅殺?あれは連中が余りにもアレだったので仕方ないと思う。


仙術も無ければ破凰の相も無い。しかし首を肩よりも後ろに向けられる「狼顧の相」を持つことで有名(ただし「狼顧」と言う言葉には「狼が背後を顧みるが如く用心深いさま」という意味もあるので、彼の用心深さを評しただけかもしれない)


曹操に「大志と野望を持つ男」と評されたと言うが、そもそも出仕を嫌がり隠棲しようとしていた司馬懿を無理やり表舞台に引っ張り出したのは曹操である。


このことを考えると、この評価と曹丕からの「一臣に終わる男ではない」と言う評価については、結果論からくる後付けの逸話なんじゃないか?と作者は思っている。つまり(司馬炎)が悪い。




―――


皇帝家関連


――


霊帝:劉宏。後漢の混乱は彼が無能と言うよりは、彼の親(義父)である桓帝以前からの問題が蓄積したモノなので、彼一人を責めるのは酷なのかもしれない。いや、彼は彼でアレなのは事実だが。


現在広まっている『霊帝』と言う呼び名は、通常死んでから付けられるものなので、生きている間は帝は帝としか呼ばれない。


もしかしたら後宮では劉宏と呼ぶ人も居たかもしれないが、誤差ですね。とりあえずまともに馬にも乗れないくせに、無上将軍とかは止めた方が良いと思う。


最近の研究では実は優秀なんじゃないか?と言われているらしいが、作者的にはどれだけ優秀でも十常侍を信じて重用している時点でダメだと思っている。


ーー


何后 :またの名を霊思何皇后。アラサー。年齢は作者のご都合主義。何進の妹にして霊帝の正室(皇后)にして劉弁の母親。どこぞのお茶みたいな名前ですが、死んだ後の称号のようなものですので、何進の妹と覚えておけばソレで良いかと思われる。日本でも○○の娘って感じですからね。


色々波乱万丈な人生を歩んだ人。史実の李儒君が誇る毒殺トロフィーの一つでもある。


――


王美人 :帝の子を産んだことや寵愛を受けたと言う嫉妬で殺されたと言われる帝の側室。美人は後宮に於いて側室に付けられる敬称である。よって「めっちゃ美人!」と言う意味では無い。


――


劉弁 :何后の子供。拙作では176年誕生説を採用したので現在13歳。賢さが低いと言う扱いを受けているようだ。


――


劉協 :王美人の子供。181年生まれの8歳児。賢いと言う噂のようだ。兄弟仲は良いらしい。


――


何苗 :何進とは血の繋がらない弟。何進の父親と再婚した女性の連れ子だったらしい。そして、その母親から何后が生まれているので、彼女とは血が繋がっている。名前やシチュエーションだけ見れば、何進を主役にした物語のヒロインの一人になれる存在である(苗とかなんか女っぽいし、血の繋がらない義理の妹ポジションを狙えそう)


―――


孫家関連



孫堅:三國志に於いて呉を建国した孫権の父。蒼〇航路における孫家三代の初代。拙作では基本的に武官であるので、政治系にはそれほど強くない設定。派閥としては軍部に所属。強いて言えば朱儁閥。


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黄蓋・程普・韓当:孫堅を支えた部下。


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孫策:孫家三代の二代目にして小覇王こと孫策伯符。西暦175年生まれの14歳。留守番のため李儒君とは接触の予定なし。美周郎との絡み?ハハッ。


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韓嵩:司馬徽門下生。何進とか李厳と同じ南陽出身者。黄巾の乱の際に南に逃げた。史実では曹操を褒めたために劉表に嫌われ投獄されている。李儒君が自分で登用できなかったので、孫堅に情報を与えたもよう。普通に文官として働いている。


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鄧義:劉表に曹操と同盟を結ぶように進言したところ拒否られたので、ふてくされて隠居した人。劉表が荊州に来る前に孫堅が長沙に来たので、配下になったもよう。普通に文官として働いている。


―――


その他


――


張温:三公・司空にして車騎将軍。元々曹騰(曹操の祖父)によって推挙された為、宦官閥に所属する人間であるが、帝派の王允と仲が良いらしい。死に様が有名。


――


陶謙:後の徐州牧。張温に呼ばれて参加させられている。孫堅と同じ朱儁閥。


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朱儁:黄巾の乱で活躍し右車騎将軍・光禄大夫となったが「母が死んだので」と言って喪に服し、中央から距離を取ることで、皇甫嵩のような目に遭うのを逃れている。代わりに朱儁閥の人間は宙ぶらりん状態になってしまい、色々弄られているようだ。


――


辺章:巻き込まれ系ヒロイン。涼州の民が叛乱した際に抵抗し負けて捕まった際に羌族の人たちに「くっ殺」したら、何故か開放された挙句に旗頭にされ、漢帝国に叛乱の首謀者として賞金まで懸けられた人。


――


韓遂:叛!


――


公孫瓚:漢の藩屏にして北の守護者。上杉謙信と朝倉宗滴を足して1・5で割ると(ただし政治は3で割る)こんな感じになると思われる。つまりっょぃ。ひたすらにっょぃ。三國志に出てくる登場人物で、純粋な武将としてみれば間違いなく最強格の存在。


呂布?あれは武人です。


3000で10万とか、2万で100万とか当たり前に潰す存在で、これは兵が強いのか彼が凄いのかもぉわからねぇな!って感じの存在である。作者的には彼の敗因は劉虞だと思う。異論は認めます。


――


張純 :作者の中では逆恨みで反乱を起こした構ってちゃん。まぁこの時代は面子が大事なので「馬鹿にされたのでついカッとなってやった。今は後悔している」と言った感じなのかも知れない。


乱の最中に『弥天安定王』を名乗った厨二病患者。もしかしたら『神上使』の張曼成と仲良くなれたかもしれない。


――


劉表:西暦142年生まれの47歳。清流派における八俊の一人(八交とか八友とか色々ある)


演義などでは劉備に荊州を譲ろうとしたとか、文官を保護して荊州を戦火に巻き込むことなく平和に統治した仁君とか色々と美化されているが、最初に荊州に入植した際には山内一豊の滅殺相撲のようなことをしたり、長沙流域の土民たちを殲滅したりしてるので、決して単純な「良い人」ではない。


荊州に入ったのは霊帝の死後であり、細かい日時は解釈が別れるところらしい。

董卓に任じられたからとか、宦官が清流派の劉氏を遠ざけたかったとか、何進が弁の即位に邪魔になりそうなのを遠ざけたとか、色々な解釈が有るらしいですね。拙作では何進と宦官の両方が遠ざけた論を採用しております。


――


曹操 :西暦155年生まれの34歳。小さいオッサン。彼についてはググったほうが早い。身長は155センチらしい。


――


曹嵩 :曹操の父親。一億もの金を使って太尉と言う役職を買ったが、翌年に帝が死んで無駄になったと言う経歴の持ち主。人呼んで先物取引で全財産失った人。結果論だから仕方ないけどね。


――


蹇朔 :曹操に殴り殺された蹇碩の叔父。名前は蒼天○路から拝借しております


――


筍 :たけのこの軍師こと荀彧のこと。誤字ではありません。最初はビギナーな歴女の方に付けられた渾名のようですが詳細は不明。李儒君は微妙に彼のことが嫌いなので内心でたけのこ扱いをしております。


――


袁紹 :20代前半?まで曹操と同じ洛陽の学問所にて学んでいたらしい。そのあとに「母親が死んだから」と言って3年喪に服し、それが終わったと思ったら「父親が死んだから」とか言い出して6年喪に服したと言うニート野郎。


ちなみに父親は彼が生まれてまもなく死んでいるので、この6年の喪は完全に後付けである。その間に名のある名家の人間との交友を交わしたが、有名でない人間とは会わなかったらしい。朝廷への出仕も断っており、黄巾の乱の時も洛陽でニートしていた。


仕事もせずにたむろしていたので周囲から「袁隗が裏で何かをさせているのではないか?」と思われていた。そのことを知った十常侍にも同じような疑いを持たれ危険視されつつあった。


そこで袁紹が何もしていないことを知っていた叔父であり保護者である袁隗は「お前は袁家を滅ぼす気か?グダグダ言わずに働け」と言って彼を何進の元に差し出した。


この時点で彼は汝南袁家の中でも爪弾きにされつつあったと思われる。そんな自分の置かれた状況を理解して焦った袁紹は何進に接近し、名家や宦官の後ろ盾のない何進も袁紹を利用するために取り立てた。


もともと名家として気位が高く、宦官が嫌いである袁紹は彼らを滅殺するために様々な謀を巡らせた。(勝手に)

ちなみに史実においても洛陽に董卓を呼び出したのも彼である。さらに何進の名を使って様々な命令を乱発した挙句、何進が殺されたと思ったら即座に宮中へ乱入し、宦官や女官たちを殺し回ると言う優柔不断な彼にしては異様に素早い行動を起こす。


その上、何進の弟であり車騎将軍であった何苗も袁紹と親しい呉巨によってどさくさに紛れて殺されていることを見ると、これは「お前、狙ってただろ?」と言われても仕方ないと思う。


拙作ではただの調子に乗ったニートのように書かれているが、このときの袁紹は正しくそんな感じであったと思われる。まぁこの時と言うか、基本的に死ぬまでこんな感じと言っても良いかも知れない。


優秀な社員を抱える会社の重役や社長タイプの人間であり、黙って金を出したり部下に任せる分には良いが、そこに自分の意見を反映させようとすると失敗するタイプ。


戦国大名で言うなら北条氏政だろうか?


生没年の、生まれが???なので、曹操と同年代扱いとして西暦189年現在で35歳の設定。




今まで後書きに書いてたやつプラスαです。もしかしたら追記するかも。


何進の分はどうしたものか……

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