28話。洛陽の泥の中で④
中平6年(西暦189年)9月。洛陽大将軍府。
現在洛陽に於いて並ぶものが無いと言われるほどの権勢を誇る何進。彼はまともな後ろ盾も無く、洛陽内に確固たる経済基盤も無かったにも関わらず、天性の嗅覚と政治的なセンス・更に謀略の才能を持って現在の地位に登り詰めたと言う、李儒も認める『政治と謀略の化物』である。
周囲は李儒こそが何進を押し上げた存在だと思っているが、李儒が行ったのは陣営の強化や無駄が蔓延る後漢クオリティの改善による作業の効率化だけだ。(それでも十分破格の仕事ぶりだが)
つまり李儒は、単独でも大将軍に登り詰め権勢を欲しいままにすることが出来たであろう何進と言う勝馬に乗っただけに過ぎない。
そんな『政治と謀略』の化物である何進にも弱点が有る。権力にも酒にも女にも溺れず、金を使いこなす彼の弱点。それは「出自」である。
とは言え、天性の勘を持つ何進個人には問題はない。むしろ洛陽に居た人間は、南陽の屠殺業者でしか無かった事を前面に出して相手の油断を誘った何進の策を見破れず、常日頃から彼を見下した挙句に勝手に自爆してくれたりしたものだ。
つまり何進にとって屠殺業者出身と言うのは弱み足り得ない。問題なのは周囲の人間に関してだ。具体的に言えば身内。
その中で妹の何后はまぁ良い。彼女の場合は名家だのなんだのと言った臭いが無く、むしろ世俗の垢に塗れた彼女を霊帝が珍しがった結果が寵愛に繋がったと思えば、彼女にとっても出自はむしろ武器と言えるだろうし、そんな彼女が宦官を利用しようと考えるのも分かる。
問題は他だ。特に弟の何苗。彼は何進の数少ない身内と言うことで車騎将軍と言う立場を与えているが、彼にはその立場に見合った見識や能力が無い。また政治的な感覚も無ければ謀略が出来る程の深みも無い。当然将兵の指揮が出来るだけの基礎知識も無いので、完全に飾りとしての存在になりつつあった。
いや、その飾りが黙って飾られて居るだけならばまだ良かったのだ。黙って居れば屠殺業者の小倅には送れなかったような贅沢な生活も出来るし、彼程度が行う不正など宦官や名家に比べたら可愛いものだ。
しかし妹である何后に何を吹き込まれたか知らないが、最近は己の価値を示そうとしているのか「張譲を生かして使うべきだ」等と何進に意見具申をしに来る始末。
何后や何苗は張譲に貸しを作って上位に立ったつもりなのだろうが、彼らを擁護する姿は誰がどう見ても宦官に取り込まれているようにしか見えない。
そんな連中の言葉を聞き入れる何進では無いし、そもそも彼らは何進の持つ権力や軍事力が無ければ今頃その辺で屍を晒していると言うことを理解出来ていない。
故に彼らにとっては何進の意志を忖度して動くことが最善だと言うのに、それを理解出来ておらず、一門で意見が割れていると言うことを内外に晒してしまっているのが現状だ。
狭い世界しか知らないくせに権力を得た弊害か、それとも敵が居なくなって慢心したのか。どちらにせよ、何進と敵対する人間はこの二人を使って今まで隙を見せる事が無かった何進の牙城を崩そうとしていた。
――
「……あの馬鹿共がいい加減にしろってんだ」
荀攸が持って来た報を確認し、何進は苦虫を噛み潰した顔をしながら目の前で同じように顔を顰めている彼の目の前で、その書簡をグシャリと握り潰す。
「また張譲の助命嘆願が来ましたな」
「おうよ。最近のあいつらは自分の立場を弁えねぇ……いやまぁ先帝の正室で次期帝の母ってのと、次期帝の伯父だから立場はあるのか」
「立場だけを見れば、まぁそうです」
そう、外戚と言う立場だけで見れば何進と何苗は「劉弁の伯父」と言う立場であり同格とも言える。つまり何苗も立場だけは有るのだ。
さらに彼は何進と血が繋がっているわけでは無いし、生れが生まれなので教養も浅く、一族の当主を盛り立てると言う考えが薄い。その為「何進が出世出来るなら自分も!」と勘違いしている節が有る。
そして肝心なところは、己の能力を自覚出来ていないところだろう。
立場と能力が伴っていないことも自覚できない、まさしく屠殺業者が妹の権威を利用して成り上がっただけの存在である彼は、張譲のような他人の欲を見抜き操るのを専門にしているような妖怪から見れば、さぞかし操りやすい人形に見えるだろう。
「あ~今更アイツらの立場はどうでも良い。問題は奴らが何か考えがあるわけでもねぇのに、ただ「張譲に頭を下げさせた」って言うことに満足してやがることだ」
「はぁ。連中ならば、生き残るために頭を下げるくらいならいくらでもやるでしょうに」
「そうだな。それを理解してねぇから『宦官は漢朝の伝統なので滅ぼすべきではない。故に自分たちに降伏している張譲を利用するべきだ』なんて妄言が出てくるんだ」
これが袁紹のような気位だけが高い者になると「下賤の者に頭を下げるくらいなら死ぬ!」と豪語して死を選ぶ可能性も有るが、宦官にそのようなプライドは無い。
連中は自らを傷付けるような嵐が来たら生き延びる為に平身低頭し、嵐が通り過ぎたら何食わぬ顔で立ち上がって後ろから刺す。そんなことを当たり前に行って来る連中である。受けた恩は簡単に忘れるが、受けた屈辱は絶対に忘れないと言う点では名家と似ているが、報復方法などは名家以上にエグイのが宦官と言うものだ。
故に彼ら宦官、特に十常侍は常日頃から李儒が言うように「瀕死では駄目だ、殺せ」を適用すべき相手であると言うのに、何后や何苗に迎合する連中は何をトチ狂ったのか連中の助命を嘆願すると言う、何進の方針に真っ向から逆らって来ると言う愚行を犯してしまった。
「そもそも張譲らを殺すことと宦官を全滅させることは違うでしょうに」
そう、何進は十常侍は皆殺しにても宦官を皆殺しにする気は無い。むしろ力のある宦官を皆殺しにした後は自分の息のかかった宦官を劉弁や劉協に付けることで、何后の権力の増強を考えているくらいだ。
これは宦官=十常侍と何后に認識させ、宦官を殺されては困ると言う意見を引き出した張譲の作戦勝ちと言えるだろう。
「その通りだ。何か勘違いしている何苗に関しては後で良いとしても、妹と弁殿下には今のうちに張譲らの有害さを理解させて、さっさと宦官抹殺の勅令を貰う必要が有るだろうな」
いくら何進に他を圧する権力が有ろうとも、漢帝国の全ては皇帝のものだ。特に宦官の人事権に関しては時の帝とその皇后や皇太后の専任事項である。故に何進は、何后や劉弁に対して上奏し十常侍抹殺の許可をもらわなければ、法的には手が出せないと言う状況に有った。
「しかし殿下も皇太后も基本は後宮から出てきませんが……」
荀攸としても張譲らを殺すべきだと考えているし、何一門が争う現状が良い状況だとは思ってはいない。とは言え何苗が自分や李儒に対して対抗意識を持っていて、今回の暴走もその対抗意識が無関係では無いことを知っているので、中々意見を出しづらいと言うとこともある。
ただ彼にとって最大の懸念は何苗の暴走ではない。想定される最悪の状況は、このままの状態で李儒が董卓らを率いて洛陽に帰還することだ。
もし彼が帰還してきた際、今のように何苗だの何后がグダグダ言っているのを見たらどうなるか。彼の事だ「何をしているのやら」と言って宮中に乗り込み、曹操が避難させた者以外の宦官共を殺し回る様が想像できてしまう。
そして光禄勲である彼には近衛兵の指揮権が有るのだから、それが決して難しい話では無いのがタチが悪い。
いやまぁ、それも1つの解決方法ではあるのだ。漢に巣食う害虫を殺しきるためには荒療治も必要かもしれない。
だがそうは言っても、それを簡単に認めるわけにも行かない事情もある。
そもそもの話だが、そのような無法が罷り通ってしまえば今後の漢と言う国の統制について致命的な綻びが生じてしまうことになる。現在の漢と言う国は文民統制とまでは言わないが、それに近い状態であり『儒の教え』によって成り立つ政治体系である。
そこに暴力こそ正義!のような真似をされてしまっては国の基幹が揺らいでしまうことになるだろう。
荀攸は比較的開明的な思想の持ち主であるが、幼き時から植え付けられてきた『儒の教え』と言うのはそう簡単に捨てられるものではない。
李儒からすればその教えこそ国家の腐敗の元なのだが、支配者側に都合の良い教えを捨てろと言うのも難しいことは理解しているので、普段から無駄な言葉は使わずに行動で、そしてその行動の結果で「儒の教えに意味など無い」と言うことを示してきた。
しかし『儒の教え』に染まった周囲の常識人から見れば、彼のそんな行動こそキチ〇イの所業である。
何進ですら「李儒が董卓を引き連れてくれば全てが解決する」と分かっているにも関わらず、わざわざ劉弁や何后に対して宦官の排除を上奏すると言う回り道をしようとするのは、なんだかんだで彼も漢と言う国の体制を破壊する気は無いからだ。
そんな彼らにとって後宮とは何后の城で有る以上に宦官の城である。そこで宦官に囲まれた劉弁や何后に対して「彼らを殺す許可を出せ」と言ったところで、まともに話が通るはずが無い。自分に都合の悪いことは一切伝えず、それでいて有ること無いことを脚色した内容が伝えられ当たり前のように却下されるだろう。
それを防ぐための方策は一つしかない。
「俺が参内して連中を説き伏せるしかねぇよなぁ」
外戚として参内し、家族の話し合いと言う方向で何后を説得する。言葉で言えば簡単だが、決して簡単なことでは無い。とは言え後宮しか知らない小娘の蒙を啓くのは海千山千の地獄を潜り抜けてきた何進にとっては簡単なことだ。
「……危険ですぞ」
そう、小娘を説き伏せることは容易い。だがソレをされて困る宦官共が黙って見ているなど有り得ない事である。何進が参内することを知ったなら、何進に適当な罪を着せて捕えたり、そのまま処刑する可能性も無いわけでは無い。
まぁ現状で何進を殺せば「宦官死すべし!」と声高に唱える袁紹のような連中に付け入る隙を見せる事になるので、殺さずに何かしらの譲歩を迫ることになるだろう。
そして連中は、何后や劉弁を自覚無き人質として使うことでその権勢を復活させることになる。
何せ彼女らにしてみれば、兄の何進よりも後宮で宦官と接している時間の方が長いのだ。どちらの言うことを信じるか?と問われたら、宦官を信じるに決まっているではないか。
もしもそうなればどうなるか?先帝の世のように、また宦官共の専横により世が乱れるだろう。
つまり今の段階で何進を危険に晒し連中に余力を与えることは、霊帝の死によって健全化しつつある漢と言う国を再度混乱の坩堝に叩き込む行為に他ならない。
漢を支える名家としての自負がある荀攸は、そんな危険を犯すくらいなら李儒による既存の勢力の価値観の完全破壊の方がまだマシだと考えていた。
……あくまで最悪か劣悪かの違いでしかないが、漢に生きる大半の人間は何進と宦官ならば何進の生を、宦官の死を望むだろう。
「わかってるさ。あの野郎に散々暗殺には気を付けろって言われてんだ。宦官連中の城に乗り込むってのに無防備ってのはありえねぇ」
この場合油断慢心と言うなら、宦官連中が言う「宮中に入るなら武装を外せ」と言う言葉に大人しく従うことなどがその最たるものと言っても良いだろう。
たとえそれが宮中の法であろうとも、現状でそんな阿呆な真似をするほど何進は腑抜けていない。
「ですな。鎧兜の装備は当然として、兵もそれなりに連れて行くべきでしょう」
「おう。兵は李厳に用意させろ。数は2000だ。野郎が副官の李厳を洛陽に残してったってことはそう言うことだろうしな」
「はっ」
―――
史実では何后に呼び出しを受けて単身参内した何進。彼が準備万端整えて参内することで張譲らはどう動くのか。そして李儒から呼び出しを受けた董卓は?長沙で書類と戦う孫堅は?
洛陽の泥が造り出す澱みの中。その先を見通すことが出来る者など居ない。
「何進参内する」
はい、一行で纏まりましたってお話。
史実では十常侍が動きましたが、連中はなんで何進を殺しても自分たちが無事だと思ったんでしょうね?宮中に居るから大丈夫!とでも思ったのでしょうか?
ちなみにどこぞの李儒君は現時点で何進に匹敵する(場合によっては凌駕する)権限を持っていますが、使う気は無い模様。夢が夢なので、無欲なのか強欲なのかは意見が分かれるところである。
―――
独断と偏見に塗れた用語解説
何苗 :何進とは血の繋がらない弟。何進の父親と再婚した女性の連れ子だったらしい。そして、その母親から何后が生まれているので、彼女とは血が繋がっている。









