27話
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『太傅李儒、孫堅の子に襲撃される』
世の混乱を象徴するかのようなこの事件は、一部の人間に多大な衝撃を与えたものの、長安政権を揺るがす大事に発展するまでには至らなかった。
何故か。
襲撃された李儒が元々都落ちした太傅として見られていたことや、皇帝の弟である劉協の下、これから間違いなく発展するであろう荊州から外され、袁術に荒らされた揚州二郡に配属させられていたことなどから、政権の内情を知らない者たちからすれば『死んだところで毒にも薬にもならない落ち目の太傅が配下に刺されただけの話』として認識されたからだ。
三公やその近親者が粛清されたり、皇帝やその近親者でさえ暗殺されるようなこの時代。
落ち目の――それも長安から遠く離れた地に飛ばされた――太傅が襲撃された程度のことが騒ぎになるはずもなかったのだ。
なんとも人望に厚い太傅様である。
もちろん、騒ぎにならないからと言って【太傅襲撃】という大罪が無くなるわけではない。
今回の件で最も重い罪に問われることとなったのは、当然、襲撃の実行犯である孫策であった。
皇帝の信任厚い太傅の襲撃ともなれば、その罪は九族とまでは言わずとも、一族全員に及ぶもの。
劉弁も最初は孫堅らの首を刎ね、孫家を取り潰すことを考えた。
しかし、襲撃犯である孫策が護衛の呂布に討たれていたことや、孫策の父親であり孫家の当主である孫堅が列侯に叙せられていたこともあって、今回の件に限り、孫策個人の犯行という方向で話が進み、結果として孫家は取り潰しを免れることとなった。
取り潰しを免れた孫堅は、改めて皇帝への忠義を誓い、嫡子である孫策をたぶらかした元凶を探した。
その結果見つかったのが、荊州出身の名士数人と廬江の名家として知られる周家の人間だった。
孫策が太傅を襲撃するという凶行に及んだ動機は、勘違いからくる焦りであった。
まず長沙で召し抱えられた荊州出身の名士たちの多くは、袁術が討たれる前から孫家を頼って長沙に落ち延びていた者たちであった。
ではなぜ元々荊州出身の彼らが袁術の下に身を寄せていたのか?
それは李儒が唱えた『家の格よりも個人の実力を重んずる』という政策に納得できなかったからだ。
彼らは、父祖から継いできたモノを否定する李儒を敵視し、いずれ彼と戦うことになるであろう袁術を支えるために荊州を去ったのである。
しかして彼らの目論見は、他でもない袁術自身の行いによって水泡と化した。
そうこうして、袁術ともども逆賊として討ち取られてしまうことを危惧した者たちは、文官が足りず困っていた孫家に目を付け、その庇護下に収まることとした。
李儒への敵意を抱いたままに。
落ち延びた先で彼らが出会ったのが、孫堅の嫡男にして李儒を嫌うこと甚だしい孫策であった。
彼らは次期当主に迎合する意味もあって、散々李儒の悪評を吹き込んだ。
曰く、太傅は名家を名家というだけで敵視している。
曰く、太傅は孫堅を恐れるあまり武功を立てさせぬようにしている。
曰く、太傅は寿春や廬江で人を人とも思わぬ行為をしている。
曰く、太傅は幼い陛下や殿下を利用して私腹を肥やしている。
曰く、太傅は功を立てた孫家も危険視している。
曰く、太傅の次の狙いは孫家である。
曰く、落ち目の太傅を襲撃したところで罪に問われることはない。
曰く、罪に問われるどころか、孫家や漢を救った英雄と持て囃されるだろう。
曰く、太傅はろくに戦も知らぬ文官なので、襲撃が失敗することはない。
曰く、今のうちに太傅を討たねば、孫家も漢も彼によって食い物にされてしまう。
曰く、それを防げるのは孫伯符しかいない。
後半は完全に使嗾なのだが、孫策はそれに気づかなかった。
元々孫策が李儒を嫌っていたことに加え、劉琦との戦いで見せた異常なまでの消極さや、寿春や廬江で行われていた農業政策の中身を知れば、名士たちに吹き込まれた悪評を真実だと判断してしまうのも無理はないかもしれない。
その結果が、あの襲撃であった。
調査の末に判明したこれらの事実を知った孫堅は文字通り激高し、言い訳を重ねる彼らの首を問答無用で刎ね、侯の印璽と共に長安に送り、謝罪の証とした。
長安に送られた首の中には周瑜や司馬徽のモノもあったが、劉弁はそれを一瞥することもなく涼州に送り、農業政策の一助とするよう命じたという。
孫家が謝罪し、皇帝が受け入れた。
これによって一連の騒動は片付いた……表面上は。
―――
李儒が襲撃されたという報せは、当然のことながら涼州を睨む董卓の下にも届けられていた。
「で、実際のところどうなんだ、太傅様の容態は?」
「わかりませぬ」
「わからねぇ? どういうことだ? 調べてはいるんだろう?」
「無論です。しかし一向に情報が入ってきません」
「長安もか?」
「えぇ。ご存命であるということは知られているようですが、それ以上の細かい情報を持ち合わせている者はいないようです。……それこそ陛下でさえも」
「現地で隠している、ってことか? それも太傅様の指示で」
「おそらくは」
「目的はなんだと思う?」
「……不穏分子を炙り出そうとしているものと思われます」
「はっ!己の負傷すらも策に利用するか、相変わらずおっかねぇことで」
「ですな」
賈詡の推論を聞き、不敵に嗤う董卓。
正直な話をすれば、董卓は漢に忠誠を誓っているわけではない。
皇帝となった劉弁にそこそこの将器があることは理解しているし、それを支える人員にもまぁ文句はない。普通に漢を治めるだけならできるだろうとは思っている。
少なくとも、十常侍や袁隗や何進のような董卓をして魑魅魍魎としか言えないような化け物どもが互いを貪りあい、駆け引きに興じていた時代と比べれば、ずっと楽に運営できるはずだ。
そこに疑いはない。
しかしそれが忠誠に結びつくことはない。
董卓が重要視しているのは、今も昔も李儒一人であった。
「普通なら、羌や胡の連中を打ち破ったら予算を減らすもんだ。だが、今のところその様子はねぇ。それもこれも太傅様の指示があればこそ、だ」
「はっ」
李儒は辺境の事情をよく理解していた。
一時的に弱体化したところで、彼らは再度現れる。
次は匈奴や鮮卑を引き連れてくるかもしれない。
その時に、藩屏たる涼州勢が弱体化していては国が亡ぶ。
そういう李儒の薫陶があったからこそ、司馬懿や荀攸、鍾繇ら純粋な名家の連中も、涼州や幽州を軽んずることなく、潤沢に予算を振り分けてくれているのだ。
それだけではない、李儒は不毛の地とされていた涼州でも農作物が育つよう手を打ってくれている。
「だから、太傅様が生きている限りは、董家は漢の藩屏として生きる。それでいい」
自分たちを裏切らず、与えてくれるならば、従ってもいい。
それは涼州の人間として当たり前の価値観であった。
だがそれも、あくまで李儒が健在であればの話。
「太傅様亡き後、連中が手のひらを返す可能性は高い。つーか間違いなく俺らを縛ろうとするだろうな」
「それは、そうでしょう」
強力な矛は時に使い手をも傷つける。
それが洛陽や長安で大量の名家を粛清した実績を持つ矛となれば、使い手は気が気でないだろう。
少しでも切れ味を削ぎ、手綱を握るため彼らは予算や補給物資を減らそうとするはずだ。
事実、ほんの数年前まで彼らはそうして涼州を支配してきたのだ、疑う余地はない。
今までさんざんそういった経験を積んできた董卓は、今更中央にいる連中に自身の生殺与奪権を握らせる心算はなかった。
それどころか、場合によっては自分が長安を占拠し、劉弁を奉戴することも視野に入れて動く心算であった。
「これから動こうとする連中を見逃すな、それに追従しようとする連中もな」
「御意」
「それと、太傅様が死んでいる可能性も探れ。もしくは死にかけている可能性もな」
「いや、それは……」
「もちろん、太傅様が生きているにこしたことはねぇ。だが長安の連中が隠していた場合、後れをとる可能性がある。それは避けてぇ。わかるだろ?」
「……はっ」
「なんだ? 何か言いてぇなら言ってみろ」
「……では遠慮なく」
中央の連中は狡猾だ。
死んでいたことを隠し、李儒の威光が働いているうちに制度を整え、自分たちを縛る可能性がある。
それを防ぐためにも、正しい情報は必要不可欠。
故に探るのは良い。
しかし賈詡には一つ思うところがあった。
「……某に命じるよりも、荊州に居るお嬢様に頼んだ方が早いのでは?」
お嬢様、つまり董白である。
劉協の傍にいる彼女であれば涼州にいる自分よりも早く、それも正確な情報を得られるのでは?
賈詡は訝しんだ。
「馬鹿野郎ッッ!」
そんな当たり前ともいえる疑問に対する応えは、いっそ清々しさを感じるほど直接的な罵倒であった。
「太傅様の身辺を探らせるなんて危険なこと、白にやらせるわけねぇだろうが!」
「……そうですか」
事実、李儒が隠していることを探るとはそういうことなので、賈詡も抗弁はしなかった。
自分ならいいのか? と言いたくなったが、答えが分かり切っていることを聞くほど賈詡も愚かではない。
「まぁ、仕方がありませんな」
このまま戦乱が収束するならそれも良し、もし荒れるならそれもまた良し。
智謀を振るう機会を得られれば嬉しいが、準備や戦後処理などで書類に忙殺されるのはごめん被る。
そんな背反する思いを胸に秘め、賈詡はより詳しい情報を得るために動き出す。
――
こうした動きを見せたのは、なにも董卓だけではない。
純粋に心配する劉弁や司馬懿、李儒の容態如何によっては家の取り潰しもあり得る孫堅、隣接する地が荒れることで面倒ごとに巻き込まれかねない劉備、冀州で袁紹と向き合う劉虞と公孫瓚、次なる討伐対象と目されていた劉繇など、少しでも関わりのある者たちは、李儒の容態を探るため蠢動を始めていた。
そしてもちろん……。
「太傅様の容態を探れ! なんとしても情報を手に入れろ! 無論、我らが探っていると露見しないようにな!」
「……無理です」
一部の者以外から袁紹一味と目されている男、曹操もまた、誰よりも李儒の容態を気に掛ける一人であった。
――一時は収まりかけた戦乱がこのまま収束するのか、それとも拡大するのか。
その答えは、一人の男の容態に掛かっていた。
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