24話
廬江が陥落してから数日後のこと。
寿春に入り、一通りの残党処理を終えたと判断した劉協は、今回の戦に於ける論功行賞を行うことを宣言した。
参加するのは、豫州での戦に従事した朱儁、呂布とその配下たち。廬江での戦を主導した孫堅とその配下たち。そして官軍に降伏した土豪や、元袁家の家臣たち。その他、裏方として官軍を支えた官吏たちなどなどであった。
決して少なくない者たちが寿春に召喚される中、ひと際異彩を放つ者がいた。
徐州琅邪勢を代表して呼び出された男、臧覇である。
そもそも、官軍から手柄を横取りしてしまったことを自覚していた劉備らは、今回の論功行賞に伴い、劉協から呼ばれなくとも寿春へ弁明の使者を送る心算であった。
しかし、向こうの気分によっては言い訳すら聞いてもらえない可能性があったため、人選や口上をどうするかが中々決まらなかった。
迷いに迷った彼らは、事前の口上で皇族である劉容の名を使わせてもらうことにした。
そのことを嘆願された劉容は当初、嘆願交渉の結果如何では自分も逆賊認定される可能性もあったため、使者に自分の名を使わせることに消極的であった。
なんなら、全ての責任を劉備に押し付けて逃げる算段さえしていた。
しかし逃走計画が実行に移される前に、家臣筆頭である臧覇から『ここで逃げた方が危うい』と諭されたため、劉容は渋々自分の名を使わせることを認めた。
ただし『自分の代理を名乗るからには信が置ける人間でなければならない』という条件も付けたが。
今回の件で逃げずに徐州に残ってくれた劉備のことはそれなりに信用しているが、知り合って一年も経っていない属尽を信用するほど劉容も青くはない。
結果として、最初は劉備を送り込もうとしていた臧覇が、劉容の代理人として寿春へと送りこまれることとなったのである。
劉容陣営の思惑はさておくとして。
劉容の使者としてやってきた臧覇を迎えることになった劉協は、当初臧覇の弁明を聞くことに難色を示した。
劉氏を減らそうとしている長安政権の人間として、聞く耳持たずに追い返すことも考えた。
しかしながら長安政権は、劉氏を排除する意向についての諸々を明かしていない。
そのため劉協は、堂々と皇族である劉容の代理人としてやってきた臧覇に対して、一定の敬意を払う必要があった。
そういった理由もあって、無事劉容の代理人として語ることを赦された臧覇は、諸侯から冷めた視線に晒されながらも、必死で訴えた。
自分たちは琅邪国王に従う忠臣として、徐州を荒らした外敵を討ち取っただけ。
結果的に官軍の獲物を横合いから掠め取ったことになるが、そこに他意はない。
陶謙がこちらを悪し様に言うかもしれないが、彼は刺史でありながら袁術に阿り、徐州の民を見捨てた反逆者である。
反逆者が唱える自己保身のための虚言を信用しないでほしい。
臧覇の訴えを大まかに纏めると、こんなところだろうか。
それらの訴えを聞いた劉協は『陶謙の弁明を聞いていないから最後のは保留とする』と前置きをした上で、臧覇らの訴えのほとんどを認めるとともに、袁術討伐の功績を横取りにしたことについても不問に処すと、数多の文官武官がいる場で宣言したのであった。
―――
なんやかんやあった論功行賞の後、諸々の処理を終えた劉協は李儒を呼び出していた。
「良かったのか? 連中の言い分をそのまま鵜呑みにして」
そう尋ねる劉協とて、別に臧覇の言い分を疑っているわけではない。
劉協が言いたいのは『連中の言い分を認めるにしても、そうでないにしても、最低限の調査をしてから決断を下すべきでないか?』というものだ。
真っ当な為政者としては当たり前な考え方である。
ただ”その当たり前”も、時と場合によるもので。
「構いませんよ。我々は汝南袁家を解体できればそれでいいのです。そういう意味では袁術とその親類縁者を討ち取ってくれた臧覇らには感謝こそあれ隔意はございません」
「ふむ。そういうものか?」
「えぇ。そういうものです。重要なのは戦の前に掲げた戦略目的を達成することですから。無論、家臣に手柄を分配することを軽く見てはいけませんが、それに目が眩んで目的を見失うようでは本末転倒というもの」
「……うむ」
「それに悪いことばかりでもございません。なにせ向こうから謝罪をしてきたことで、褒賞を値切れましたから」
「あぁ。確かにそれはあるな」
信賞必罰の教えに則って考えれば、経緯はどうあれ袁術の首を刎ねた琅邪勢の功績は非常に大きなものだ。
よって、本来であれば長安政権は彼らが挙げた功績に対して正当な褒賞を支払う必要がある。
金か、土地か、はたまた爵位か。
様々なモノを用意できる長安政権だが、それにも限度というものがある。
長安にいる荀攸からも『必要な出費であればいくらでも容認するが、不必要な出費は控えて欲しい』という要望が来ていることもあって、節約できるところは節約したかった。
そこにきて今回の琅邪勢による謝罪である。
劉容も劉備も臧覇も、官軍側の感情を勘違いしていた。
彼らは官軍として参戦した将兵の多くが『獲物を横取りされた』と思い、彼らに悪感情を抱いていると考えたが、それは杞憂というもの。
もちろん、官軍の中にはそういった主張をする者もいないわけではない。
一時期は彼らの中から『琅邪勢が徐州刺史である陶謙の命令に逆らったことを口実にして罰則を与えるべきだ』といった具体的な意見まで噴出したし、その意見に同調する者がちらほら出てくるくらいには、琅邪勢に対する風当たりは強かった。
もし総大将が朱儁や孫堅であったのならば、功績を横取りされたことに対して激しい憤りを抱く彼らに配慮する意味もあって、臧覇らに何らかの罰を与えていただろう。
しかしながら、今回全軍を率いていた総大将は、朱儁でも孫堅でもなく、劉協である。
皇帝の弟である劉協の仕事は、自分が功績を立てることではない。
部下に手柄を立てさせることであり、部下が立てた功績を認めることである。
実際に指揮を執った李儒に至っては、功績や名声に興味がない。
そんな彼らにとって重要なのは確実に袁術を殺すことであって、その実行者に拘りはなかった。
誰が殺しても良いなら、臧覇の訴えを認めても問題はない。
問題がないならさっさと終わらせるべし。
徒に仕事を溜め込まないことは、優秀な文官にとっての必須技能であった。
『文官としてはそれで良くとも、武官としてはどうか?』という意見もあった。
中には『現場を知らない文官と皇帝の弟が、実際に戦場で戦った武官を軽んじている』と不満を漏らした者もいた。
だが、それらの意見を唱えた者が、軍部の主流派になることはなかった。
何故か。朱儁や呂布、孫堅と言った幹部級の将帥が、全員李儒の考えに同調したからだ。
このため琅邪勢に対する反感の気運が一定以上大きくなることはなかったのである。
この件に関して、とある将校が朱儁に「なぜ我らの意見に同調してくれないのか?」と尋ねたことがあった。その際朱儁はこう答えたと言われている。
『殿下と太傅様がそれを認めた。ならば我らはそれに従うのみである』と。
自分たちが掲げる総大将は皇弟劉協殿下であり、その代理となれるのは後見人の太傅様のみである。
その意識が徹底している限り官軍が割れることはないし、割れないのであれば精強極まる官軍が負けることはない。故に従うべし。
幹部級の将官が納得していること、朱儁の言葉が日を置かず全軍に浸透したこと、そして臧覇が初手から全力の謝罪をしたことなどが重なった結果、不満の火種は極めて小さなモノに収まっていた。
そんなこんなで、現状は軍の内外で不満を訴える声が抑えられているため、琅邪勢に正当な報酬を支払っても問題はないのだが、報酬を値切れるものなら値切りたいと思うのが権力者というものだし、勘違いとはいえ、向こうから『許してください。何でもしますから!』と謝罪をしてきたのであれば、それを利用するのが正しい権力者の在り方でもある。
琅邪勢に与えられた恩賞が削られたことを知られれば、不満を訴えている配下が抱えるそれらも少しは減らせるだろう。
そうした考えのもと琅邪勢は赦された。
否、赦されただけではない。
劉協は論功行賞の場で約束した少なくない額の――一万の軍勢と袁術その人を打ち破った褒美としては明らかに少ないが――恩賞とは別に、復興支援の一環として『軍を移動させるために掛かった経費の一部負担や、袁術との戦いで傷を負った兵士らに対する見舞金を捻出する』と宣言し、その場にいた臧覇を、涙を流して感謝の言葉を繰り返すbotにするという事件まで引き起こしたのである。
略奪ではなく施し。袁術とは正反対の行動を示した劉協の名は、上がることはあっても下がることはなかったという。
なお、この宣言に先だって、徐州をどう扱うかと悩んでいた劉協に対し『元々復興支援はしなくてはいけません。なので、できるだけ多くの支援を約束しましょう。なに、恩は売れるときに売るものです。最高値でね』と宣った腹黒外道がいたとかいなかったとか。
――ちなみに、もし袁術が徐州勢に見つからず無事兗州に逃れていた場合は、万全の態勢で待ち構えていた曹操の手によって討たれていたことをここに明記しておく。
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