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23話

短め

「なん……だと……」


袁術が討ち死にしたという報せを受けて最も衝撃を受けたのは、当然というかなんというか、袁術――正確には袁術と一緒にいる一万の軍勢――の援軍を待ちわびていた袁術軍の将兵であった。


もちろん彼らは、袁術が死んだことや、袁術と一緒にいた軍勢が滅ぼされたことにも衝撃を受けたが、実のところそれだけであればまだなんとかなったのだ。


戦場では誰もが予測ができなかったことが稀によく起こる。

その中には、官軍が袁術の動きを予想して、廬江へ向かう途中を狙うことだってあるだろうし、その結果武運拙く敗れる可能性だって皆無ではない。

故に、もし、そういう形で袁術が討ち取られていたのであれば、残された者たちは報復を誓うなりなんなりをして士気を保つことができたはずだ。


しかし、彼らにとって残念なことに、袁術が討ち取られた地は寿春でも廬江でもなく、方角的には廬江の正反対の位置にある徐州であった。


何故廬江に向かうはずの袁術が、徐州で討ち取られたのか? 


袁術の行動を極めて好意的に解釈しようとするなら『袁術は徐州を経由して兗州に入り、兗州の曹操を説得してから、その軍勢を引き連れて豫州に入ろうとした。だから徐州にいたのだ』という解釈ができるかもしれない。


だが、そんな戯言を信じる者はいなかった。

少なくとも、袁術軍に所属している諸将は、袁術が自分たちを見捨てて逃げ出したことを確信していたのである。


袁術の裏切りを知った紀霊らは激しく動揺した。

袁術の後任は誰になるのか。

袁紹が後継を名乗ったとして、自分たちはどうなるのか。

まだ官軍と戦うのか。

これから袁家を見捨てて降伏できるのか。

そうした様々な意見が噴出した結果、豫州に残った袁術軍は数日も経たないうちに軍組織としての機能を失うこととなった。


纏まりを欠いた武装集団にまで落ちぶれた彼らが、精鋭揃いの官軍に抗することなどできようはずもなく。

紀霊らは、碌な抵抗もできないまま、朱儁らによって撃破されたのであった。


――


「なん……だと……」


橋蕤勢の敗北から袁術の死、そして豫州陥落。

それらの報せを纏めて聞かされた張勲は、ただただ絶句した。


奇しくも紀霊と同じ言葉を発することになった張勲であったが、彼が受けた衝撃は紀霊のそれよりも数倍大きなものだった。


それはそうだろう。

なにせ張勲は、いまこの時まで、橋蕤が率いる軍勢が全滅していたことさえ知らなかったのだから。


孫堅が率いる荊南軍が廬江に到着した際には、誰よりも落ち着き払って『慌てる必要はない。すぐに援軍が来る。それも連中の背後に、な』と不敵に微笑み配下を律していた張勲も、援軍そのものが来ない――それどころか敵に増援が来る――とわかれば、絶句せざるを得ない。


そこにきて『袁術討ち死に』である。

それも、なぜか徐州で討ち取られたという。


「……どうして」


豫州で橋蕤を打ち破った官軍が、その勢いを維持したまま寿春に攻め込み、必死の抵抗を試みるも衆寡敵せず敗れたというのであれば、まだわかる。


だが、袁術が討ち死にした場所は、寿春ではなく徐州だ。


それが意味するところを理解できない張勲ではない。


「そうか、我らは見捨てられたのか……」


ここで『袁術様がそんなことをするはずがない! 何かの間違いだ!』などと思わないところが、彼らの関係性を正しく表していると言えるかもしれない。


袁術に見捨てられたことを知った張勲は、側近のみを引き連れて廬江を脱出。

劉繇が治める揚州は秣陵へと逃れた。


残された袁術軍の将兵は挙って降伏の意思を伝えるも、戦に先だって行われた軍議に於いて李儒から『袁術と共に方々で略奪を行った彼らを赦せば今後の統治に支障をきたす。故に彼らの降伏は認めない』と言われていた孫堅には降伏を拒絶され、僅かな抵抗の後、壊滅させられることとなった。


豫州平定、寿春及び廬江の陥落、それに伴う汝南袁家の滅亡。


これら一連の動きが、袁術が徐州へ侵攻してから僅か二か月以内という、極めて短い期間内に纏められているのは、偏に袁術が『為政者としてはやってはならない』とされることを繰り返し行ったせいである。


もし、陳留に侵攻しなければ。

もし、兗州で敗れたあとに寿春を奪わなければ。

もし、陳国や廬江での略奪をもう少し控えめにしていたら。

もし、劉琦や劉繇ともっと連携を取っていたら。

もし、徐州に向かわずに官軍に備えていたら。

数多の『もし』があったが、袁術はその全てを最悪な方向に振り切っていた。


勝ちに理由なく、負けに理由あり。

反董卓連合発足から約五年の間に袁術が行った諸々の所業は後世に語り継がれ、袁術は反面教師の代名詞として史に名を遺すこととなったのであった。



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