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19話

「よっしゃ! いっちょやったるぜ!」


袁術軍の侵攻に先立ち、劉備が用意できた軍勢はおよそ三万ほどであった。


数こそ一〇万を号する袁術軍の三分の一に満たないが、逆に言えば彼らは、三倍以上の兵力差があることを理解しても尚、戦うことを選んだ(つわもの)たちだ。


陳留に始まり、寿春、廬江、そして陳国。

立て続けに侵攻した袁術に対する不信感と忌避感は極めて強い。

さらに、袁術軍によって行われた略奪の内容が詳細に伝わったことで、諸侯のみならず、一般の民たちも袁術に対して反感を抱いている。


戦わねば奪われる。

それも徹底的に。


その事実を前に、彼らは意を決して立ち上がったのだ。


命を懸けて抵抗することを選んだ徐州勢と、弱者を嬲ることしか頭にない袁術軍。

両者の面構えを見比べれば、誰もが『徐州勢が三倍の兵力差を覆すことも不可能ではない』と思うだろうし、劉備らもそう考えていた。


ただし、覚悟を決めたからと言って、徒に死にたいわけでもないわけで。


劉備らは袁術軍との戦いに赴くにあたって、いくつかの方針を決定していた。


まず、袁術軍を正面から迎え撃たないこと。

勢いで押すことはできるかもしれないが、相手は腐っても一〇万の大軍なのだ。

囲まれてしまえば余計な被害が出てしまう。

そのため、正面切って戦うのは相手が同数以下の場合とした。


「同じ数なら負けねぇよ」


次いで、場所。

最初に侵入してくるであろう下邳で迎え撃つことができれば最良なのだが、寿春に近い下邳での戦闘は袁術軍にとって有利に働く可能性が高い。

そのため、袁術軍が分散した場合を除き下邳での戦闘はあきらめ、次なる獲物に向かった所を狙うことにした。

それが彭城になるか広陵になるか、はたまた東海郡になるかは袁術の気持ち次第だが、どこを狙うにせよ袁術軍は下邳を経由することになるため、後背を突きやすくなるという利点がある。

略奪を受けることになる下邳の民には申し訳ないと思わなくもないが、そもそも劉備らの下に集ったのは主に琅邪国の者たちであり、彼らにとって最も重要なのは袁術の暴虐から琅邪国にいる家族や仲間を護ることなので、この方針を告げられた際にも『なにがなんでも下邳を護るべき!』と唱える者はいなかった。

要するに、下邳は犠牲になったのだ。

特に理由はなく、ただ地理的に袁術軍に近かったというだけで。


「恨むなら俺らじゃなくて、襲ってくる袁術たちにしてくれよ」


そして最後は戦闘後の方針だ。

これには何通りかあって、まず武運拙く袁術軍に敗北した場合は、臧覇からの要請に従って劉容や臧覇を連れて幽州へ逃げることとする。

琅邪国の民を見捨てることになるが、彼らには『袁術が琅邪国に侵攻するためには彭城か東海郡を経由しなくてはならないため、時間的な余裕はある。その時間を利用して公孫瓚からの援軍を連れてくる』と説明しておけばいい。

多少のごたごたはあっても、実際に袁術と戦ったという実績があれば納得もしてもらえるだろう。


次に、袁術軍に勝利した場合。

自軍の犠牲が多ければそのまま琅邪国に帰還して軍を解散させ、長安政権からの指示を待つ。

この際、劉備も琅邪国に留まり、賊や不逞の輩が騒がぬよう目を光らせることとする。

自軍の犠牲が少ない場合は、琅邪国に帰還せず、東海郡にて縮こまっている陶謙を糾弾して州刺史の座から降りてもらう。

陶謙の後釜は長安政権に決めてもらうこととして、長安からの指示がくるまでは劉容が代行として刺史となり、徐州を纏めることとする。

この際、劉備は一時的に劉容の配下となり、袁術軍の再侵攻に備えるものとする。


「面倒だが、今の陶謙さんじゃ徐州を護れねぇからなぁ」


負けたときよりも勝ったときの方がややこしいことになりそうだが、徐州を護る必要がある以上、すでに徐州の士大夫らからも見限られている老害が、いつまでも上に立っているのはよろしくない。

無能な敵は大歓迎だが、無能な味方は必要ないのだからして。


これらの方針を麋家や徐州の士大夫らに伝えたところ、負けたときの方針に対して難色を示されたものの、彼らも袁術軍との兵力差が三倍以上あることは知っていたため、大筋では納得させることができた。


こうして劉備らは僅か半月という短い期間で以て、袁術軍と戦う支度を整えることに成功したのであった。


そして一〇月上旬。


袁術軍が侵攻を開始したという報せを受けた劉備は、軍を東海郡承県(しょうけん)へと移し、袁術軍の動向を伺うこととしたのだが……結果から言えば、彼らの覚悟と準備は無駄に終わることとなる。


―――


この日、簡雍が持って来た情報は、戦慣れした劉備を驚愕させるには十分すぎるものであった。


悪い意味ではなく、良い意味で、だが。


「袁術軍が引き上げたぁ? 本当かよ?」


「あぁ。東成と淮陵(わいりょう)で略奪をしたかと思ったら、一気にいなくなったらしい。詳細は関の字が確認しているが、聞くところによると抑えの兵も残してねぇってんだから、相当急ぎだったみてぇだぞ」


「はぁ。なんでまた?」


「知らねぇって。それを確認してんだからよ」


「それもそうだな。しかし、そうか。袁術が退いたか……」


「おうよ。おかげで麋竺さんらは大喜びだぜ」


「そうか。そりゃよかった」


劉備たちからすれば、半月かけて準備したモノが無駄になったわけが、それ自体は別に悪いことではない。むしろ犠牲を出さずに済んだと考えれば、諸手を上げて歓迎すべきことでさえある。


また、今回の件で得たものもある。

風評だ。


まず、袁術との衝突を恐れずに兵を出した劉容らの名が大きく上がった。

劉備も”徐州の為に立った義侠の人”という風評を得た。

逆に、兵を出さなかった県令や太守、さらには陶謙の名は大きく落ちた。


劉容の要請に応えて大量の物資と銭を吐き出すこととなった麋家は、準備に費やしたモノが無駄になったことを嘆くことなく、居を構えている東海郡を荒らされなかっただけでなく、取引相手がいる下邳の大部分が略奪を免れたことを殊の外喜んだ。


加えて、劉備が三万もの大軍を擁して駆け付け、東海郡の民を護る姿勢を見せたことで、劉備を取り込んだ麋家は大いに面目を施すこととなった。


後日、客人を集めて行われた酒宴の席で麋竺は『銭と娘を差し出して信用を買ったと思えば安いモノだ』と嘯いたとか。


実に商人らしい考えであった。


問題があるとすれば、これによって劉備が「美食と美人に釣られた」と暴露されたことだろうか。


劉備としては、麋家のおかげで良い思いをしたことは事実だったので、そのことに文句を言う心算はなかった。


一応関羽や張飛が「事実ではあるのだが、あまり言われ過ぎると劉備が軽んじられるのでは? というか、事実を知った公孫瓚に叱られるのでは?」と、危惧して麋家の口を塞ぐかどうかを尋ねたことがあったが、肝心の劉備が『麋家がより栄えるってことは、後ろ盾が強くなるってことだ。良いことじゃねぇか。どんどん広めてもらえ。兄ぃだって結果を出したら文句は言わねぇよ』と笑い飛ばしたため、麋家との間に確執ができることはなかった。


結果として、今回の件で損をした者は、運悪く略奪の対象になってしまった東成と淮陵の民と、名を落とした陶謙だけであった。


それがある意味で一番の問題なのだが。


「で、俺らはどうなる? 琅邪国に戻るのか? それともここに留まって陶謙さんを突き上げるのか?」


「あ~。臧覇さんからは『少し待って欲しい』って言われてる。事実関係の確認もあるし、あまりにも事が早く進み過ぎて困ってるんだとよ」


「まぁ、そうなるよなぁ」


何事も早いに越したことはない、と言っても限度がある。


元々徐州の南全部を使って一〇万の軍勢と三万の軍勢がぶつかる予定だったのだ。

しかも、基本的に正面からの短期決戦ではなく、下邳を見捨てた上での奇襲を念頭に置いていたのである。

勝つにせよ負けるにせよ、結果が出るにはどう短く見積もっても数か月は掛かると予測していたのに、結果はこの通り。数か月どころか数日で終わってしまった。


これでは根回しどころの話ではない。


現時点で商人や民、士大夫や家臣から見放されている陶謙に未来などないが、だからといって劉容が上に立つのをすんなりと認めるかどうかは別問題だ。


さらに言えば、劉容自身が州刺史になりたいわけではないというのもある。


彼にとって大事なのは、現在自身が治めている琅邪国や、将来的に貰えるかもしれない土地であって、徐州ではない。


自分には関係のないところで責任を押し付けられ、復興など面倒な仕事をこなす必要がある割に、得るものが少ない刺史になど就きたくないのだ。


袁術が撤退する前までは、極めて切羽詰まった状況だったからこそ、陶謙を降ろして刺史代行になることを認めた。だが、余裕があるのであれば話は変わる。


劉容には、自分以外の誰かを刺史にするための準備期間が必要になったのだ。


加えて『袁術軍が再度侵攻してくる可能性も捨てきれない。なのでもう少し、具体的には陶謙の後任が決まるまでは劉備に居てほしい』と、劉容の意思を慮った臧覇から頼まれては断ることもできず。


「まぁ、しょうがねぇか」


結局、特にやることもなかった劉備は臧覇からの要請を受け入れ、東海郡に留まることにしたのであった。


そんな劉備らに袁術軍が撤退した理由が知らされたのは、この日から数えて二日後のことであった。

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