13話
六月。世間の目が袁術の暴走じみた侵略に注がれる中、周辺諸侯からすでに”終わったモノ”と見做されている江夏陣営に止めを刺すため、討伐軍の侵攻が再開された。
黄祖らは残された数少ない船をなんとかやりくりして行軍を遅らせようとしたが、機動力を有する先登や走舸が一〇隻程度、攻撃の要となる蒙衝は数隻、本陣を兼ねる楼船に至っては最後の一隻しか残っていない状況でできることなどそう多くはない。
加えて、孫堅率いる荊南勢が、黄祖らを素通りさせるはずもなし。
「これまでよく粘った。だがここで終わりだ」
「孫堅だと! 討伐軍はここまで来ていたか!」
討伐軍が出撃したという報せを受け、なんとかして彼らの後背を脅かさんとして出陣した江夏水軍は、しかし、出陣したその日のうちに、孫堅率いる荊南軍に捕捉され、その動きを封じられることとなった。
孫堅の目的はただ一つ。
水戦最強の将、黄祖の殺害である。
「最期まで主君に殉じた貴様のことは嫌いではなかったぞ。だが死ね」
「くっ!」
一五隻にも満たぬ黄祖らを確実に潰すため、孫堅が用意した船団は楼船一〇隻に小型・中型の船を合わせて約二〇〇隻。
これまでのように火船として突っ込ませるための船ではなく、正真正銘水戦をするために用意された船であり、それを操るのは、半年以上常に実戦に身を晒してきた経験を有した者たちだ。
長年黄祖が育ててきた精鋭たちには及ばないものの、疲労困憊の極みにある黄祖勢が鎧袖一触で蹴散らせる程度の雑魚でもない。
これに船の性能――というか損耗――の差が加わればどうなるか。
「くっ! 貴様らが俺を恐れて卑怯な手を使わなければこんなことには! そうだ! まともに戦えさえすれば貴様らなんぞに負けはしなかったのだ!」
「はっ。貴様のほざく”まともな戦”とはなんだ? よもや同数の兵で向き合い、一手一手交互に打ち合う茶番のことか? 笑わせてくれる。敵より多くの兵を集め、それを問題なく運用することこそ兵法の極みではないか。それが出来ない時点で貴様らの負けは決まっていたのだ! それこそ最初から、な!」
「ぐぬっ!」
最後の抵抗としてこれまで一貫して正面から戦闘をしてこなかった孫堅を臆病者と笑い、将兵の士気を落とそうとするも、正面から『戦術よりも戦略を練るのが将の務め』と喝破されてしまえば、その理屈を理解できてしまう黄祖に反論する術はなく。
結局荊州水軍が最後まで残していた楼船は、一〇隻近い蒙衝から突撃を受け動きを封じられ、黄祖ら主だった将らは、そこに乗り込んできた多くの兵と戦い奮戦するも、衆寡敵せず。
「黄祖の首、韓当が獲った!」
韓当の声が戦場に響き渡ると、それが契機となったのか、次々と将を討ち取ったという声が上がっていき、半刻が経過するころには楼船に乗っていた者たち全員の死亡が確認された。
こうして江南どころか、漢で最強を謳われていた黄祖率いる荊州水軍は壊滅したのであった。
―――
「あの黄祖がこうも簡単に死ぬとはな。戦わずに勝つ、いや、勝つべくして勝つ戦とは、なんとも恐ろしいものよ」
「御意」
黄祖を討ち取った後、その勢いをかって江夏最大の水軍基地である邾県を攻略した孫堅は、黄蓋と共に戦果が纏められた報告書を確認しつつ、一連の戦の中身を振り返っていた。
「やったことは簡単だ。なにせ敵より多くの兵と船を用意し、それを適切にぶつけただけなのだからな。しかし、それこそが一番難しいことでもある」
「ですなぁ」
頭の中では理解できる。どれだけ優秀な水軍でも、船が無ければ戦えないのだ。
故に、船を優先的に狙うのは正しい。
しかし、それは言い換えれば『敵の船を一切拿捕しない』ということである。
今更言うまでもないことだが、この時代は、略奪によって将兵の懐を潤すことも、戦の目的の一つに含まれている。
袁術はあからさまにやりすぎのように思えるが、行動自体は間違ってはいないのだ。
それが常識とされる世の中にあって、船――特に楼船のような大型艦――は戦略物資という扱いであり、個人ではなく陣営にとって必要不可欠な貴重品である。
楼船一隻造るのに必要な予算や物資を考えれば、それを手に入れる意味もわかろうというもの。
そういった理由もあって、黄祖も楼船だけは失わぬよう、必死で守っていたが結果は見ての通り。
初めから拿捕することなど考えずに突っ込んでくる孫堅らの攻撃を防ぐことができず、火船の吶喊による炎上、即席の投石機による攻撃で沈没し、一〇隻に及ぶ蒙衝によって穴だらけにされた船は牽引されることなくその場で廃棄された。
「敵の船を奪うことをあきらめるだけならまだわかる。船に拘泥して味方が死んでは本末転倒もいいところだからな」
「そうですなぁ」
何せ敵は水戦に限れば自他共に認める漢最強の将、黄祖。
当人には油断や隙はないし、こちらが油断や隙を晒していたら一気に食い破られていた。
なんなら貴重な楼船を囮として使い、それに討伐軍が群がったら味方の船ごと燃やすくらいのことはできる男であった。
だから、一切敵の船を拿捕することを考えず、黙々と船を落としに行ったのは、正しいことだった。
それは理解できるし、今後は孫堅も同じことをするよう指示を出すことが出来るだろう。
しかし、一点だけ、どうしても真似できない点がある。
「楼船まで容赦なく使い捨てるとは思ってもおらなんだ」
「まったくですなぁ」
高価で貴重な戦略物資を奪わないのはいい。
勿体ないが理解はできる。
しかし、自らそれを――それも一隻や二隻ではなく一〇隻近く――捨てるのはどういう了見か。
百歩譲って、敵の楼船との相打ちを狙ったというのであれば納得もしよう。
しかし李儒はそんな常識を持ち合わせていなかった。
なんと彼は、自軍の楼船を一隻の蒙衝や数隻の走舸と引き換えにすることすら辞さなかったのだ。
それを見て「こいつ正気か?」と思ったのは孫堅だけではない。
「しかし、そのおかげで黄祖らの勢いが削がれましたぞ」
「うむ……」
採算度外視の戦術を目の当たりにした黄祖こそ、誰よりも衝撃を受けたのかもしれない。
「太傅様に言わせれば『敵に”アレと付き合えば全滅する”という恐れを抱かせた時点で勝ち』とのことでしたな」
「うむ……」
巻き添えを恐れるが故に勢いが削がれる。
勢いが削がれた敵を囲むのは難しいことではない。
動きが鈍った連中を縄や鎖で繋いだ小舟が囲み、燃やした。
味方の船ごと燃やす自分たちに対し、積極的に打ちかかってくる者はおらず、結果として万事優勢に進めることができた。
それもこれも、最初から自軍の犠牲を厭わぬ姿勢を見せつけたが故。
「最初から最後まで盤面を読み切り、敵味方を予定通りに動かす太傅様を恐れぬ将帥はいない。それこそ敵味方問わず、な」
「ですなぁ……」
なんとも軽い感じで応じる黄蓋だが、彼には彼の思惑がある。
「そもそも、太傅様は味方です。我らが敵対しない限りその智謀が我らに向くことはございません」
「それはそうだな」
「加えて、太傅様は我らに恐怖を植え付けることはあっても、それをネタにして何かを押し通そうとするような方でもございませぬ」
「それもそうだ」
勘違いされがちだが、別段李儒は恐怖政治を行っているわけではない。
成すべき仕事をしない者や、罪を犯した者には苛烈だが、そうでない者には普通に接するのだ。
なんなら家名を重視する一般的な文官よりも、物腰は柔らかいまである。
悪いことさえしなければ何もしない。
そういう意味で言えば、李儒という男は極めて仕えやすい上司なのである。
それとは別に、人を纏めるに当たって多かれ少なかれ恐怖が必要となる。
恐怖だけでは人は付いてこないが、恐怖が無ければ人は纏まらないのだからして。
恐怖が必要とされる分かりやすい例としては、国家の暴力機構として存在する、官憲や軍が挙げられる。
官憲が怖いから人は犯罪を控える。
犯罪が減れば治安が良くなる。
治安が良くなれば国は栄える。
軍が怖いから敵は侵攻を控える。
侵攻されなければ国は栄える。
同じ理屈で、上司が怖いから部下は逆らわないし、部下が逆らわないなら組織は纏まる。
「この際、上司が欲に溺れ多額の付け届けを求めたり、配下に犯罪行為を強制させるような外道であれば組織は歪むことになりましょう。されど幸いにして太傅様はそのような欲とは無縁のお方。さような心配はいりませぬ。しかして殿はどうも、太傅様に含むところがあるご様子。いったい何がご不満なので?」
重ねて言うが、普通に仕える分にはいい上司なのだ。
孫堅に野心があれば彼の存在を危惧するのもわかる。
しかしながら黄蓋が見たところ孫堅に野心はない。
いや、まったくないというわけではないが、それはあくまで現政権での栄達であって、間違っても天下簒奪と言った大それた野心ではない。
このまま李儒の配下として生きることに不満があるのか?
そう問いかける黄蓋に対し、孫堅は一つ溜息を吐いてからその心中を明かすことにした。
「太傅様の欲がわからぬ。あの方はなにを求めている? 何のために戦っているのだ?」
「ふむ……」
表立った功績がないため列候に叙せられてこそいないが、今回の件で間違いなく列候に名を連ねることとなるだろう。
元々太傅という官職を得ていることもあり、文字通り位人臣を極めた存在となるわけだ。
当然金にも困っていないだろう。むしろ金の使いどころを探している節さえある。
では女か? と思えば、そういう話は聞かない。
洛陽時代にはそんな話は一切なく、最近でも董卓の孫娘やらその付き人やら蔡邕の娘やらが周囲にいたようだが、それらに手を出しているわけでもない。
一時期何太后との関係が噂されたようだが、今となってはその噂自体が何太后を『肉屋の娘』と貶めるために流された醜聞であり、李儒はそれに巻き込まれただけだということが判明している。
そもそも本人から『早朝から晩まで働いている自分には、そのようなことにかまけている時間などない』と言われてしまえば、それを否定できる人間はいなかった。
金でもない、名声でもない、女でも、酒を嗜んでいるわけでもない。
一体何が楽しくて激務に身を浸しているのか分からない。
総じて、不気味なのである。
誰だって分からないものは怖い。
それは統治に必要な恐怖、つまり畏れではなく、排斥しようとする恐れに変わりやすい。
幸い孫堅には排斥に至るような強い感情は芽生えていないが、それでも怖いと感じていたのである。
ちなみに黄蓋はそこまで恐怖を感じていない。
それは黄蓋が豪胆なのではなく、彼の中で『もともと太傅様は雲の上の人間なのだから、自分如きに理解できなくともしょうがない』と割り切っているからだ。
孫堅も黄蓋のように割り切れれば良かったのだが、立場上何度も顔を合わせなければならない孫堅に、そのような贅沢は許されない。
だから孫堅はせめて李儒の内面を理解しようと思っていたのだが、考えれば考えるほど分からなくなり、必要以上の恐怖を抱いてしまったのだ。
「ふむ……殿のお気持ちも分からなくはないのですが」
思考の迷路に嵌ってしまった孫堅に対し、最初から迷路に挑むことを諦めた黄蓋。
当然効果的な助言など浮かぶこともなく。
「太傅様のお気持ちなぞ我らがいくら考えても分かるものではございますまい。いっそのことご本人様に伺ってみては?」
「聞けるか!」
黄蓋が口にすることができたのは少しでも孫堅の負担を軽くするための、冗談に近い進言のみであった。
悲しいかな、黄蓋の意見こそが孫堅が抱えていた不安を解消する最良の一手であったことなど、この時の孫堅や黄蓋に知る由もなく。結局この話は、お互いがなんとも微妙な感じになったことで立ち消えたのであった。
――後日、孫堅の不安が一部的中することになるのだが、それはまた別の話である。
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