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11話

袁術が陳国に侵攻する少し前のこと。

年が明け、春の兆しが見え始めるころになると、江夏を巡る情勢は誰の目にも明らかなほど討伐軍優位に傾いていた。


まず、劉繇が用意していた援軍が物資ごと袁術に奪われたことを知った黄祖は、数か月に及ぶ消耗戦に耐えかねていたこともあって、即座に前線基地として機能させていた安陸を放棄。

全軍を郡治所がある西陵に撤退させた。


これを受けて李儒率いる討伐軍が本格的に江夏へ侵攻を開始。

それから約一か月経つ頃には、李儒が安陸を無傷で接収した。

それとほぼ同時に、呂布率いる并州騎兵を中心とした陸軍が北部の西陽県と(もう)県を攻略した。

さらに孫堅率いる荊南勢が長江沿いの要衝であった沙羨を攻略し、江夏郡の北部と西部は討伐軍の手に落ちることとなった。


土地はまだしも、水軍の利を失った劉琦に勝ち目はない。

事ここに及べば今の彼らに選べるのは、どれだけ犠牲を少なくして降伏するか、もしくは意地を張って抗戦しどれだけ討伐軍に被害を出せるか、の二つに一つ。

あとは、討伐軍がどう決断するか。

劉琦や黄祖らの命と引き換えに降伏を認めるのか、それとも降伏を認めず一切合切を撫で切るか。

どちらにせよ、劉琦を奉じていた者たちの命運はここに尽きた。


周辺諸侯の意見が一致する中、討伐軍を率いる男、李儒は戦の趨勢など知ったことかとばかりに、今日も今日とて大量の書簡を捌いていた。


本人曰く『こういうときに不正を働く人間が増える。そしてそれを見逃せば組織が腐る』とのこと。


確かにそのとおりである。

戦のどさくさに紛れて不正をする者はいるし、そのせいで無駄な出費が出るのはもちろんのことだが、それ以上に『戦にかこつければ不正がばれない』などという悪しき慣例が生まれるのは好ましいことではない。


しかし、だ。江夏勢を絶体絶命の状況に追い込んだのは事実だが、逆に言えばまだ止めを刺したわけではない。

古くから、追い詰められたネズミによって食い破られた例は数知れず、なんなら漢を興した劉邦がそれを体現した存在と言える。

よって、目の前の敵を放置して書類仕事に専念するなど、通常であれば、許されないことである。

血気盛んな武官はもちろんのこと、書類仕事の重要性を理解している文官たちでさえ「そういうのは敵を倒してからにするべきでは?」と進言するのが普通であろう。


しかし、李儒にそのような進言をする者は一人もいなかった。

血気盛んな武官の代表とされる呂布も、陣営が抱えている文官の代表格である蒯越や蒯良も、思うところはあれど沈黙を守っていた。


何故か?

それは、もちろん彼らの中に『太傅様がその程度のことを理解していないはずがない』という信頼があるから……ではなく、単純に怖いからである。


いや、まぁ、確かに信頼もあるのだが、それ以上に怖いのだ。


それはそうだろう。自陣営に出た損害や使用した物資の補充申請、船の増産にかかった経費などが書かれた書簡に不正の証拠を見つけた際、執務室にいる誰もが『あ、俺死んだわ』と錯覚するほど冷たい空気をまき散らすような存在が怖くないはずがない。


不正をした人間や、その家族たちの行く末――多くは涼州に送られ、そこで重い労役を課されてたり、即座に処刑されて有機肥料となる――を知っている呂布など、書簡に向かって「いい加減にしろ、阿呆どもが!」と叫んだことがあるとかないとか。


そんなこんなで、討伐軍の内部には安陸を攻略してからこれまで、劉琦らを放置して綱紀粛正に努める李儒に物申すことが出来る者はいなかった。


風向きが変わったのは、その李儒本人が襄陽から呼び出した”とある人物”が安陸に到着してからのことであった。


興平四年(西暦一九五年)四月 荊州江夏郡安陸県


「で、いつまでここにいるつもりだ? 我々はさっさと劉琦らの首を刎ねてここでの戦を終わらせ、出来るだけ早く益州で戦う兄上に合力する必要があるのではないか?」


「劉琦らに関してはまぁその通りですが、陛下に合力の必要があるとは思えませんな」


「なんだと!」


まさか『皇帝に援軍を出す必要がない』などと抜かす人間がいると思っていなかったのか、襄陽から呼び出された男こと、劉協は声を荒げて説明を求めた。


「補給・将兵の練度、そして士気。それらを鑑みれば、現時点で陛下が負けることはありません」


「それは知っている。しかし、戦線は膠着しているのだろう? 戦場では何が起こるかわからん。陛下に万が一のことが起こる前に、さっさと敵を倒して終わらせるべきではないか?」


もちろん、劉協も要塞に篭る敵を殲滅することが難しいことも知っている。だが、同時にそういう時は要塞以外から攻め上がれば良いということも知っている。

というか、目の前の男から教わった。

ならばその教えに則って、要塞以外の場所、つまり荊州側から攻め上がればいいではないか。


もし荊州側から益州に侵攻すれば、ただでさえ数に劣る劉焉が兵力を分散せざるを得なくなる。

つまり劉弁側からも攻めやすくなるということだ。


劉弁に功績を与えるというのであれば、敵を引き付けた時点で止まればいい。

あとは陽平関を攻略した劉弁たちがやってくれるだろう。


皇帝の親征を汚すことなく、戦を早く終わらせることができる。

これこそ家臣としての分も弁えた、素晴らしい一手ではなかろうか。以上が劉協の言い分であった。


「ふむ」


確かに劉協の意見は間違っていない。

誰が聞いても、それこそ知恵者と謳われる蒯越らが聞いても賛同を得られることだろう。


李儒とて、頭ごなしに「間違っている」とは言えない程度にはしっかりした意見であった。


ただ、足りない。


「陛下の目的が劉焉の討伐であれば、それで問題はないのですがね」


「……なに?」


「少し話を整理しましょうか。まず、陛下が陣中で冬を越したことで、益州の者たちは陛下のお覚悟を理解しました。連中は今頃慌てて今後のことを協議していると思われます」


「まぁ、そうだろうな」


皇帝自身が戦地に留まってまで行う親征。それはつまり、劉焉一派を根絶やしにするという覚悟の表明だ。

最終的に講和を狙っている劉焉らからすれば、最悪の中の最悪である。

対応を協議するのは当然のことだろう。


「しかしながら、陛下に彼らを赦す気がありません。故に連中がどのような協議をしようと時間の無駄に終わります」


「それはそうだろうよ。だからこそ……」


劉協とて劉弁の気持ちは理解しているし、間違っているとも思っていない。

しかし劉協から見て現状益州での戦いは『負けはしないが勝てもしない』という状況であった。

無論、いずれ益州側の補給が尽きて勝てるということは理解している。

しかしそれだって早い方が良いのではないか? という気持ちが強い。


ここが劉弁と劉協の視点の違いである。


「問題は他の劉氏なのです」


「ん?」


「現状、明確に長安政権が敵視している劉氏は、劉焉、劉繇、劉琦らと、それに迎合する者たちでしょう?」


「うむ」


名指しで逆賊認定し、前者劉焉と劉琦に至っては討伐軍まで出しているのだから、異論などない。


「しかし、私や陛下は違うのです」


「ん?」


「我々にとっての敵は、反董卓連合に参加した諸侯と彼らに味方した劉氏。その全てが滅ぼすべき敵なのです」


「それは……」


反董卓連合と言えば、董卓と袁紹の権力争いに聞こえるだろう。

確かにそういう面はあった。それは否定しない。

しかし、董卓を大将軍に任じたのは時の洛陽政権である。

まだ幼い劉弁の意見が反映されることはなかったが、それでも袁隗や王允、趙忠、荀攸、そして李儒など、時の政権運営に携わった者たちに認められて――正確には押し付けられて――董卓は何進の後釜に座ったのだ。


それに異論を唱えるだけならまだしも、勅を偽造したうえで武装蜂起し、洛陽に矛を向けた時点で、彼らは逆賊なのだ。


その中でも、反対すれば見せしめにされていた可能性があった通常の諸侯とは違い、劉氏には劉虞のように袁紹らを諫めるなり、連合に参加しないという選択肢があった。

それだけではない。劉弁に味方して、洛陽に入るという選択肢もあったのだ。

それらの選択肢があったにも拘わらず、彼らの多くは反董卓連合に参加したのである。

それが至尊の座を狙わんとする野心の表れと言わずなんというのか。

それを劉弁に対する反逆と言わずなんというのか。

多くの者たちは忘れていようとも、劉弁は忘れていない。


「生き延びることに長けた連中のことです。今このときも、あの手この手を使って生き延びようと画策していることでしょう。それこそ長安に使者を立て、多額の付け届けや泣き落としを仕掛けているはずです」


「……」


実際に多くの者たちがそれをやっていることを劉協も知っている。

というか、丞相時代よくやられていたから、知らないはずがない。


「逆賊とはいえ劉氏。いかに陛下とて彼らからの陳情を断れば非情の誹りを免れません。しかし陳情を認めるということは逆賊の認定を解くということ。それはできません」


「……そうだな」


「ではどうします?」


「どう、とは? あぁ、いや。そういうことか! 兄上が陳情を受けることができなければいいのか!」


「御意。陛下の狙いはまさしく時間を無駄に使うことにあるのです」


「そうか、無駄に時間をかけることで、方々からくる陳情を無視し、その間に敵対している劉氏を潰すのだな?」


「御意」


なにせことは恩赦にかかわること。

どれだけ楊彪らに訴えかけようと、劉弁が認めなければ意味がない。


少し前であれば王允と楊彪が協議して勝手に決めることもできたが、今の長安でそのようなことをすれば、死よりも辛い罰が下る。


それを知っている者らが勝手に陳情を受け入れることはない。


では直接劉弁に陳情を、と言いたいところだが、劉弁は親征の最中。


陣中に使者を送るにしても、戦場に赴くほど腹が据わっている者は少ないし、無事に到着したとしてもまともに話を聞く必要がない。


極端な話になるが、恩赦の陳情とは、文武百官が証人となる朝議の場で頭を垂れてこそ意味があるものなのだ。


よって劉弁は使者を殺した後で「そんな使者はきていないぞ。賊徒に殺されたのではないか?」と惚けるだけでいい。


死者は何も語らず。


何も聞いていない以上、劉弁が決定を翻す必要はないのだから。


「最初は某が動く予定でしたが、今は某よりももっと積極的に動いてくれる阿呆がおりますな?」


「袁術か」


「御意。なかなか積極的に動いてくれております。時間を掛ければ掛けるほど、多くの敵を討ち取ってくれることでしょう」


勝手に劉繇に味方する劉氏や、中立を気取る劉氏を積極的に排除してくれる袁術は、劉弁や李儒にとって非常にありがたい存在なのだ。


「なので、荊州から援軍を出すことは陛下の邪魔をすることとなります。で、陛下に合力しない。時間を掛ければ掛けるだけ劉氏を討ってくれる者がいる。この二点が備わればこそ、内部の引き締めに時間を使っているのです。ご理解いただけましたでしょうか?」


「うむ」


納得できる理由があるなら劉協とて文句はない。

時間を掛けることで敵を削れるというのであれば、使うだけ使えばいい。


「……ん?」


そう納得しかけたところで、劉協の脳裏に一つの疑問が浮かんだ。

即ち『それならばなぜ自分が呼び出されたのか』という疑問である。


最初は劉琦を討つための旗頭にする心算だと思っていた。

なにせ相手は劉氏の中でもそこそこに名の知れた儒者であった劉表の息子なのだ。

将兵の中に、彼らを討つことを躊躇する者がいないとも限らない。


なればこそ、劉表以上の権威を以て向き合う必要がある。

それが先帝劉宏の息子にして、皇帝劉弁の弟である劉協であれば不満などあろうはずもない。


よって劉協は自分の役割を『締めの戦で旗頭になること』だと考えていたのだが、今の説明を聞く限りでは戦を急いではいない様子。しかし、今更李儒が無駄なことをするはずもなし。


(私は何のために呼び出されたのだ?)


頭を悩ませる劉協。しかし答えはすでに目の前にあった。


「では殿下にはこちらの書簡を確認していただきます」


「は?」


李儒が示す先にあったのは、山となった書簡の束。


「簡単に言えば、これまで使った費用とこれから必要とされる費用を纏めたものです。と言っても、処理は終わっていますので、殿下がやるのはあくまで確認だけです。あ、あと江夏郡単独のものと荊州全体のものがありますので、州牧代行としてきちんと把握してください」


「はぁ!?」


どう軽く見積もっても三〇を超える束を前に絶叫を上げる劉協。


「もちろん確認のみとはいえ、一日や二日で終わるとは思っておりません。しかし時間が掛かれば掛かるほど書簡も増えていきますので、手を抜くことはお勧めしませんぞ」


「はぁぁぁぁぁ!?」


「これも為政者の務めです。不平や不満は受け付けません。本来であれば全て処理してもらう必要があるところを確認だけにしたのですから、十分有情でしょう?」


「ぐむっ!」


正論過ぎて「ぐぬぬ」と悔しがることすら封じられた劉協。

もはや彼にできることは一つしかなかった。


「よかろう。やってやる! ただし呂布! お主も手伝え」


「はっ……はぁ!?」


「ほう、援軍ですか」


「よもや、駄目とは言わんだろうな?」


「まさか。使えるモノはなんでも使ってくださって結構。しかし、それぞれの内容はきちんと把握してくださいね?」


「当たり前だ! 将軍、頼りにしているぞ!」


「…………はっ」


突如として孤独な戦いに身を投じることとなった劉協と呂布。

二人がこの戦いから解放されたのは、袁術が陳国に攻め入ったという報告が入ってからの事であった。


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