表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
183/203

7話

劉琦討伐の号令が発せられるとほぼ同時に編成された討伐軍が、実際に進軍を開始してから約一か月ほど経過した頃のこと。


ほぼ毎日のように討伐軍が攻め寄せてくる中、江夏郡は安陸県に造られた水軍基地の内部は、この日も将兵たちが上げる怒号で埋め尽くされていた。


「えぇい! 毎回毎回忌々しい奴らめ!」

「距離を詰めれば逃げる癖に、こちらが退けば寄ってくる。まるで羽虫ではないか!」

「味方の船ごとこちらを焼くなぞ、正気の沙汰ではないわ!」

「こんなものは断じて戦ではない!」

「卑怯者どもが、連中には武人の誇りというものがないのか!」


「「「そうだそうだ!!」」」


「……この分ではまだ大丈夫そうだな」


配下たちが唱える『戦えば勝てるのに、敵が逃げるからどうしようもない』という威勢のいい言葉に対し、勢いよく応じる兵たちの声を聞き、黄祖はほっと胸を撫でおろしていた。


今も響き渡る悪態の内容は彼らの本心でもあったが、それと同時に、実質的な総大将である黄祖から『意図して強い言葉を吐くように』と厳命されていたため、あえて強い口調で周囲――特に兵士たち――に聞こえるよう、敢えて大きな声で叫んでいるという事情があった。


味方を鼓舞すると言えば聞こえは良いが、逆に言えば現時点でさえそうしなければ戦線を維持できないと判断せざるを得ないほど、兵の士気が下がっているということでもある。


部下たちが叫んでいるように、討伐軍の戦い方は確かにまともではない。


この時代、水戦に於ける基本的な陣形はいくつかあるが、そのどれであっても、先登や赤馬、走舸などの小型船を一番前に置き、その機動力を以て敵に突撃を行うのが常道とされていた。


無論、時には敵の勢いを削ぐため、あえて前面に露橈(ろとう)蒙衝(もうしょう)と呼ばれる中型船や、本陣となる楼船といった防御力の高い船を置くという場合もある。

この場合小型船には、勢いが削がれた敵を横から殴りつけたり、回り込んで敵の退路を断ったりするという役割が与えられていた。


これらのことからもわかるように、小型船の最大の特徴は、小型ならではの速さと戦場を縦横無尽に動ける自由度の高さなのだ。


小型船の使い方ひとつで戦闘の優劣が決まると言っても過言ではない。


よって水軍を率いる将帥には、小型船を速く、そして自在に動かす能力が求められていた。

現時点に於いて漢帝国の中で最もその能力が高いのが、荊州水軍を率いる黄祖である。


その黄祖から見て、討伐軍の敷いた陣形は無様そのものであった。


なにせ彼らは、機動力に優れた走舸を横一列に並べた上、その並べた走舸同士を縄やら鎖で繋いでいたのだ。


どう見ても小型船が持つ最大の特徴である機動力を殺すだけの愚策としか思えなかった。


なのでその時は「自分から走舸の動きを封じてどうする。所詮は水戦の素人だな」と部下と一緒に鼻で笑ったものだが、敵の狙いを理解した今となっては、そんな気持ちは吹き飛んでしまっている。


「徹底して船を狙うとは……読めなかった。この黄祖の目をもってしても」


そう。討伐軍の狙いは水戦で勝つことではなかった。

鮮やかな指揮? 戦術の妙? そんなものは求めていなかった。

討伐軍は、ただひたすらにこちらの動きを封じようとしていたのである。

走舸を並べたのは、小型で機動力が高い方が体当たりしやすいから。

船同士を縄や鎖でつないだのは、その間を通り抜けられなくするため。


包囲がある程度進んだら、あとは包囲につかった船ごと燃やすだけでいい。


「迂闊であった」


黄祖が敵の狙いに気付いたのは『あの無様な陣形を打ち崩してやれ』と差し向けた数隻の蒙衝が、敵の船ごと焼かれたのを目の当たりにしてからであった。


「こちらが失ったのは先登一〇前後に蒙衝が六といったところか。対して向こうの損害は走舸が五〇から六〇程度」


失った数だけ比べれば(相手の損害を少なく見積もっても)一六対五〇だ。

これだけでも三倍近い差があるし、討伐軍が船以外にも、縄や鎖も失っていることを考えれば、製造に必要とされる費用や労力は圧倒的にこちらの方が少ない。


なので、一見すれば討伐軍が大損しこちらが大勝したように見える。

いや、実際に討伐軍は大損しているし、この戦闘だけに限れば、こちらが大勝していると言えなくもない。


この事実を声高に喧伝することで、兵士たちには『自分たちは負けていない!』と思わせることに成功しているし、配下の中にも本気でそう思っている者がいるようだ。


「あぁ、そうだ。間違っていない。俺たちは負けていないとも」


黄祖は苦々しく呟く。

しかし、彼は分かっていた。

どれだけ強がっていても、分かってしまうのだ。


このままでは自分たちが負けるということを。


「こちらには、失われた船を再建するだけの時間や金がない。だが向こうはどうだ?」


単純に、支配領域の広さが違う。

それが生み出す生産力が違う。

それらが生み出す継戦能力が違う。


このまま損耗していけば、最終的に負けるのは自分たちだ。

それが分かってしまう。


「孫堅め、いや、これは太傅李儒の手際か。恐ろしい戦をしてくれる……」


どれだけ効率的に敵の嫌がることをできるか。

それを突き詰めたのが兵法であり、そういう意味では李儒はその体現者であった。


こちらに倍する兵を集めたというのに、一切の油断や慢心を見せず、ただひたすらに船を削ってくるやり方は、名将黄祖をして明確な対処法が思い浮かばない、悪辣極まる戦い方であった。


「……孫堅が相手であればまだなんとかなったのだがなぁ」


孫堅は優れた指揮官であり、相手が嫌がることを的確に見抜いてくる能力に秀でた人物であるが、それはあくまで戦場での話。


どれだけ優秀であっても、どれだけ高い爵位を得ても、所詮は地方の一都督。

州の予算の大部分に加え、長安政権が蓄えている資財を大量に使い込むような策は計画できなかっただろうし、万が一計画できたとしても、政権側に拒絶されていたはずだ。

これは孫堅に問題があるわけではない。

朱儁や皇甫嵩が同じ提案をしても断られていただろう。


しかし、発案者が李儒であれば話は変わる。


長安の内実を知らない者の中には、李儒が荊州に入ったことを『権力抗争に敗けて都落ちした』などと揶揄している者もいるが、事実は違うのだ。


良い意味で信用があると言えばいいのだろうか。


李儒が一度要請を出せば、留守を預かる荀攸らはもちろんのこと、戦地にいる劉弁や、郿にて様子を見ている董卓も即座に動く程度には影響力を有しているのだ。


実際、李儒から『船を造るから予算を少し回してくれ』という要請を受けた荀攸や楊彪は、使者に対して詳細を問いただす前――もちろん使者には造った船の使い方や、その意義。副次効果として経済効果や造船技術の向上などが挙げられるという旨を記した書状を持たせている――に荊州へ求められた分の資材を運ぶよう手配を済ませていたし、陣中で事後報告を受けた劉弁もあっさりとそれを認めたし、董卓に至っては輸送部隊の護衛として自分の部下を派遣することを自分から提案していた。


本人が積極的に利用しようと思っていないだけで、やろうと思えばできるだけの影響力を持っているのだ、李儒という男は。


それらのことを理解できておらず、総大将が李儒と聞いただけで机上の策士と侮ったのが、黄祖にとって最大の失敗であった。


「この戦、もはや勝ち目はない」


初手で多くの船を失い、その再建の目途が立たない現状を前にして、黄祖は頭を悩ませる。


「どう終わらせればいい? 劉琦様の首を差し出せば満足するのか? ありえん。それなら最初からそう布告すればいいだけだしな」


現在江夏陣営に所属している多くの将は、反董卓連合の際に、孫堅が襄陽を騙し取ったことに反発して江夏に篭ったせいで逆賊の一味とされているだけであって、元々漢に反逆する心算があったわけではない。

それは黄祖も同じである。


反董卓連合が解散した時点で敗者となった――世間的には一応洛陽を落としたことで反董卓連合側の勝利とされている――彼らは『長安政権には文句はないが、宗室に名を連ねた劉表様を騙した孫堅に対して文句がある』というお題目を掲げ、孫堅に抵抗を続けていた。


その結果、政権が選んだ州牧(代行)に従わない勢力として逆賊扱いされることになったが、劉表の息子である劉琦がいればなんとかなると思っていた。


孫堅の代役として、李儒が来るまでは。

世間でどう言われようと、李儒が長安政権から全権を委任されたことには変わりはなく。

孫堅に逆らった名家や名士、土豪たちは軒並み逆賊として討伐され、江夏陣営もまたその煽りを受けることとなった。


李儒から逆賊認定された後も、彼らは『宗室である劉琦なら。劉琦がいればなんとかなる』と劉氏の血に一縷の望みを賭けていた。


その望みは、劉弁が劉焉を討つために親征することを宣言したことと、その弟である劉協が荊州に入ったことで『宗室だから大丈夫。宗室だから赦される』などと甘えた考えは完全に断たれることになった。


黄祖らからすれば、この人事は『皇族である劉協が旗頭なのだから、宗室である劉琦を討ち取っても罪には問わない』と、荊州の諸将に知らしめるためのものにしか思えなかったのである。


その証拠に、劉協は江夏にいる諸将に対して一言も声をかけてこないではないか。


もし劉協が一言「劉琦の首を持ってくれば赦す』と宣言してくれれば、黄祖らは喜んで劉琦の首を刎ね、劉協に頭を垂れていたはずだ。


だが、襄陽に居る黄祖らに好意的な人間がどれだけ探っても、劉協からそういった類の宣言を出す気配が微塵も感じられないというではないか。


それは即ち、自分たちを赦す心算がないということである。


……ちなみに、半強制的に荊州に送り込まれただけの劉協本人はもちろんのこと、劉協を荊州に送ることを決めた劉弁や司馬懿もそこまで考えていなかった――あえて言えば劉協らは荊州に関することの全てを李儒に委任しており、もし李儒から恩赦の要望があれば認めようとは思っていた――のだが、そういった裏の事情を知らない黄祖らは、劉協の存在こそが自分たちに対する最終通告であると考えてしまったのだ。


「大義名分は討伐軍に有り、支配区域の広さやそれが生み出す物量にも差がある。その上、敵はまともに戦をする気がない」


漢で一番の水戦上手とはいえ、言ってしまえばそれだけ。

戦に大勝すれば向こうから和議を申し入れてくる可能性もあるが、そもそも戦をしてくれない。

結局、戦略的な見識があるわけでもなければ、政治的な力も持たない黄祖にできることなどないのだ。

一軍の将としてできることと言えば、せいぜいが補給が滞ることがないよう手配する程度だろうか。


一人の将帥として、自分の指揮に従う兵を飢えさせる心算はない。

その心算はないのだが、補給体制を整えるということは、抗戦の準備をするということに他ならない。


戦えば戦うほど、逆賊としての名が残る。

勝てるならいいが、その見込みすらない。


「……どうしろというのだ」


依然として意気軒高に叫ぶ配下たちをよそに、今日も黄祖は頭を抱えるのであった。

閲覧ありがとうございました

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ