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3話

九月中旬 荊州南郡 襄陽


【皇帝劉弁は退かず。陣中にて冬を越す構え】


「ほほう」


収穫も終わり秋が深まりつつある中、長安から送られてきた書簡を確認した俺は、そこに書かれていた内容を確認すると同時に、感嘆の声を上げていた。


だってそうだろう。

今回の親征はどう考えても無理筋であったのだ。

故に俺は、いや、俺だけではなく、荀攸や董卓らも『今回は一度退き、それから数か月かけて敵内部を切り崩すための策を実行してから再出撃する』と考えていたのである。


それがどうだ。


劉弁は、一度撤退することで得られるモノには目もくれず、ただひたすらに『敵を潰す』という断固たる決意を示しているではないか。


「これは……陛下は意地になっているのでしょうか?」


俺の後に書状を確認した呂布が、心配そうな表情を浮かべながらそう聞いてくる。


確かに見方によってはそう捉えることもできるだろう。


というか、大半の諸侯はそう考えるはずだし、俺だって劉弁が袁術のような盆暗とは違うと知らなかったら『アレは戦略的に得られるモノを理解せず、意地になっているだけだ』と考えて、一度落ち着くよう使者を出したかもしれない。


「いえ、陛下には確たる勝算があるのでしょう」


だが、違う。


劉弁は知恵者を自認する儒者とは比べ物にならないほど賢い。さらに、周囲には皇甫嵩や李厳、なにより司馬懿がいる。


万が一劉弁が撤退の利に気付いていなかったとしても、周囲に控える彼らが気付いていないはずがないし、それを説いていないはずもない。


ならば劉弁は、それら全てを理解した上で、残ることを選んだのだ。


もしかしたら後世の歴史家には『間違った行為だった』と評価されるかもしれない。

現時点でもそう評価している者もいるはずだ。


しかし、今を生きる皇帝の判断として考えれば、間違っているとは言い切れない。

皇帝たるもの、愚かと知っていても意地を貫かねばならぬ時もあるのだから。


また、ここで耐えることで得られるモノもある。


(退かぬ、媚びぬ、顧みぬ、か。なかなかどうして、理に適っている)


兵を興したなら勝つまで退かない。

敵に媚びることなく、一度処すと決めたなら必ず処す。

後方で呼ぶ母や妻子の存在を気にかけることなく、目の前にいる敵から眼を放さない。

ついでに、我慢した際に生じる損害や、消費される物資については一切見ないものとする。


うん。損耗を無視できる皇帝だからこそできる決断だな。


これだけやって負けたとなればただの間抜け呼ばわりは免れないのだが、今回に限って言えばその心配はない。


「まず、長安と益州では動員できる兵の数と、動員した兵を戦場に留めて置ける期間が違います」


「……ふむ。物資の差、ですな」


「そうです」


流石は丁原の下で主簿として働いていた男だ。

物資の重要性を正しく理解しているようでなによりである。


呂布が言うように、長安陣営と益州陣営の間にはとてつもなく大きな差が存在するのだ。


まず支配地域と人口、生産力の差。

現在のところ長安政権が完全に支配下に置いているのは、司隷と涼州、荊州の大半と交州と言ったところだろうか。


抱える人口は、司隷が約二五〇万、涼州が約七〇万、荊州が約二〇〇万、交州に関しては正確な数は不明だが、漢民族に占族と越族を加えれば五〇万以上はいると思われる。

それらを合計すると、長安陣営が抱える人口は約五六〇万前後。

その中で遠征に動員できる兵の数は、一〇万から一五万くらいだろうか。

羌族ら騎馬民族を動員すれば二〇万。本気で絞り出せば三〇万に届くかもしれない。


対して益州陣営はというと、益州の人口約六〇万程度。

動員できる兵は、防衛に限った上で絞り出しても四万に届くかどうか。


次いで備蓄。

労働人口の差は国力の差。国力の差は生産力の差なので、月日が経てば経つほど両者の間にある差は大きくなる。

加えて、今の長安には洛陽時代から溜め込まれていた膨大な量――具体的には、正史に於いて郿城を築いた董卓が三〇年篭城できると豪語したほどの量――の物資があるので、運用コストを気にする必要がないという強みがある。


これに昨今の農業改革で増加した分を加えれば、長安陣営は冗談抜きで五〇年戦闘を継続できるかもしれない。


対して益州陣営。


広さだけで言えば荊州と司隷を足した分くらいはあるし、その土地も農業改革前の涼州とは比べ物にならない程肥沃な土地ではあるものの、それを開発するために必要な人口は涼州と同程度しかいない。


また、南西部には劉焉の支配が及んでいない地域もあるため、支配領域や人口はさらに減る。

その上、隣接する荊州や交州方面にも警戒の目を向けなければならないときた。


この状況で、陽平関に二万の兵を常駐させることがどれだけ大きな負担となるか。


今頃向こうの主簿は顔を真っ青にしているのではなかろうか。


もちろん劉焉とて長安を攻めるために多少の蓄えはしていたはずだ。

だが、この時代の常識として『物資は敵側からの略奪で賄う』という考えがある以上、彼らが自前で数年単位篭城できるだけの物資を備蓄していた可能性は極めて低い。


このような状況下での篭城が長く続けられるはずもない。

俺が見たところ、陽平関は持って一年。

益州全体で考えても二年持ったら偉業と言えるだろう。


ただし、一年という期間とて、陽平関への補給が随時滞りなく行われた場合に限る。


劉弁とて地元の人間を幕下に加えているはず。

ならば地の利を完全に得ることはできなくとも、間道の一つや二つは把握しているだろうし、篭城している連中の目の前で新しく道を造ることだって可能だろう。


邪魔をするために兵が出てきたら儲けもの。

囲んで叩くだけだ。


そうして出来た道を利用して関の周囲に兵を配置すれば、敵を陽平関へ閉じ込めることができる。

援軍? ない。

劉焉がケチっているのではなく、益州の国力では今以上の兵を動員できるだけの余力がないのだ。

尤も、土豪や名主を脅して無理やり徴兵すればあと一万くらいは出せるかもしれないが……それがなんだというのか。

今更無理やり徴兵された半農の兵士が一万増えたところで、官軍と西園軍という漢帝国が誇る精鋭部隊に勝てるはずもなし。


結局、無理やり絞り出したとしても、それは状況を打開するきっかけになるどころか、ただただ農業人口を減らし、ただでさえ少ない国力を低下させる愚策にしかならないのである。


補給が滞り、多数の敵に囲まれている。

援軍はなく、あっても鎧袖一触で蹴散らされる。


堅固な要塞に篭っているとはいえ、この状況下でどれだけ我慢ができる?

一年持たせることができたら、それは稀代の名将だ。


「元々消耗戦となれば、国力に乏しい益州側に勝ち目などありません。かと言って攻勢に出ても跳ね返されるのは明白。故に彼らの狙いは『どれだけ早く陛下を退かせるか』という一点にありました。それはつまり、陛下は黙っているだけで勝てたということです」


「なるほど。陽平関に篭った連中が行っている度重なる奇襲は、陛下のお命を取るためではなく、あくまで陛下の心を攻めるための策、というわけですか」


「その通り。ですが、陛下は敵が迫りくる戦地で冬を越す覚悟を決めた様子」


「その覚悟が揺らがぬのであれば……この戦、勝てましょうな」


「えぇ。そして、陛下が動じぬとわかれば、自然と益州の者どもも自分たちの勝ち筋が消えたことを理解しましょう。なれば、春、早ければ冬のうちに篭城する兵の士気が崩壊してもおかしくありません」


冬になっても退かないのであれば、春や夏でも退かない。

当たり前の話だ。


問題は、その”当たり前”を目の当たりにした将兵がどう思うか、という話だ。

いや、この場合は兵が、か。


「兵? あぁ、確かに。逆賊となっているのは劉焉とそれに従う将であって、徴兵された兵ではない」


「そういうことです」


憂さ晴らしや略奪をする必要がないなら、兵士全員を逆賊にすることに意味などない。

益州の統治や復興を考えれば、できるだけ兵を減らさずに陽平関を落とすのが良策。


よって劉弁は、頃合いを見てこう宣言するはずだ『徴兵されただけの者は罪に問わぬ』と。


皇帝自らの宣言を受けた彼らは、勝ち目のない状況を前にしてどのように動くだろうか。


篭城を指揮する将帥に殉じて死ぬか、それとも玉砕覚悟で包囲を突破しようとするか、はたまた将帥の首を持って降伏するか。


どちらにせよ、兵の士気が崩壊した時点で、陽平関という要塞はその意味を消失することになる。


官軍の進軍を阻む要塞が落ちれば、あとは詰め将棋のようなもの。

百戦錬磨の皇甫嵩らがいて、打ち手を誤ることはあるまい。


で、あれば、だ。


「呂布殿。こちらも動きましょう」


「御意!」


戦場にて皇帝陛下その人が不退転の意思を示したのであれば、臣下である我らもまた成すべきことをしなくてはならない。


差し当たっては、荊州は江夏郡に居座る逆賊劉琦とその一党の討伐。

これを以て荊州を纏め、袁術の首元に刃を添える。


「ある意味でここからが本番、だな」


世の流れは、すでに自分が知る正史から大きく外れている。

故に、これからは今世で培った知識を基に、己が正しいと思った道を進むのみ。


「さぁ、始めようか。歴史に名を残す英傑たちとの戦いを」


と言っても真正面から戦う心算は微塵もないけどな。

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