23話
興平三年(西暦一九四年)五月。 荊州南郡 襄陽
鮑信ら兗州の諸侯が諸手を挙げて万歳三唱し、謂れのない非難を受けた袁術が激怒し、希望を目の当たりにした名士たちの結束に亀裂が入り、梯子を外された形となった司馬徽が頭を抱え、立て続けにお偉いさんと顔を合わせた龐徳公が胃を痛めることになった勅が発令されてから二か月ほど経ったある日のこと。
今日も今日とて書類仕事に励む李儒の下に、一人の少年が送り込まれていた。
というか、拉致されてきていた。
「太傅! これはどういうつもりだ! ……いや、本当にどういう状況だ!?」
「ようこそ襄陽へ。お待ちしておりました殿下」
「普通に挨拶をするな! まずは説明しろ! 説明を!」
後ろ手に縛られながらも、悪逆の徒として名高い董卓でさえ恐れる腹黒外道を正面から罵倒する少年。
護衛として彼らの様子を窺っている呂布でさえ『全身肝か』と慄く偉業を成しているのは、皇帝劉弁の弟である陳留王劉協であった。
皇族として最も皇帝に近い立場に在るとさえ言える彼が、何故罪人が如く後ろ手に縛られて李儒の前に転がされているのか。
もちろん李儒が皇帝劉弁に対して叛意を抱いたわけではない。
むしろ皇帝劉弁からも頼まれていることだ。
事の発端は数か月前にさかのぼる。
―――
長安某所。
「ねぇ司馬懿? いい加減、協の喪は明けてもいいはずだよね?」
「頃合いかと」
「よし、決定。李儒の所に送って」
「はっ」
―――
「まぁこんな感じですね。要するに『そろそろ仕事をしろ』という陛下からの命でございます。後ろ手に縛っているのは気分……「気分!?」……ではなく、殿下が馬に乗って逃げないよう某が李傕殿と郭汜殿に依頼したからですな」
「お前は私をなんだと……」
「聞けば最近、兵法や政の授業に身が入っていないと伺っております。それに対する戒めと思ってくだされ」
「くっ……」
勢いに任せて反論しようとした劉協であったが、皇帝の弟である劉協に対して容赦なく厳しい鍛錬を課すことができる李儒が弘農を離れてからというもの、明確に鍛錬の強度が落ちていたことは自覚していたし、残された教師陣に対してそのことを指摘せず、これ幸いと楽をしていたのは事実である。
そのことを正面から指摘されれば、さしもの劉協とて口を噤まざるを得なかった。
一応劉協にも”元服前だからしょうがない”とか”喪中だからしょうがない”といった情状酌量の余地がないわけではない。
だが世は世紀末にして戦国乱世の一歩手前である。
今の長安政権には劉弁以外に動ける皇族がいないことや、先日劉弁と唐后の間に子ができたことは確認されたものの、未だ情勢に不安がある中で劉弁になにかあったときは劉協が立たねばならないという事情も相まって、数年前に丞相として働いていた経験を持つ劉協を遊ばせておく余裕はないのだ。
書類仕事でもいい、簡単な視察でもいい。どんな仕事でもやって欲しい。
それが劉弁の偽らざる気持であった。
ただし、劉弁とて今の劉協に難しい仕事をさせるつもりはなかった。
劉弁はあくまで小康状態に在る荊州で政のあれこれを学んだり、弘農でさぼりがち――公的には喪に服している最中だったのである意味では当然なのだが――だった兵法やらなにやらを学び直しつつ、荊州の慰撫や書類仕事をこなしてくれればいいと考えていた。
そんな劉弁の気持ちをしっかりと理解しつつ、幼い劉協に荊州における重要な仕事をさせようとしている太傅がいるのだが、それは本人以外に預かり知らぬところであるので問題はない。
もちろん、劉協に仕事を押し付けようとしている李儒にもそれなりの言い分がある。
「以前長安にて殿下は王允や楊彪殿に言われた通りに決裁をしておりました。無論、幼き殿下が三公の提案に従うことが悪いとは申しません」
「うむ。そうだろう!」
三公とはそもそもが皇帝に代わって実務を行う者たちだ。
その意見を跳ねのけるにはそれなりの知識や根拠が必要となるが、当時一〇歳だった劉協にそんな知見などあるはずがない。
よって、当時の劉協が唯々諾々と彼らに従ったとて、それは劉協を利用した王允や楊彪らの罪であっても、彼が恥じ入ることではない。
だがしかし。権力者の無知がそのまま罪であることもまた事実。
「しかしながら、彼らが提唱したものの中には、殿下でも『おかしい』と気付くことができたものが多々あったのも事実でございます」
「……うむ。そうだな」
裁決の前に弘農に確認の許可を送った銭の改鋳などがその最たるものだったが、他にも蔡邕の投獄やその後の扱いに関するあれこれなど、王允以外の者からされた上奏にも耳を傾ける必要があったのも確かである。
提出者が誰であれ、彼が確認し承諾した書面によって苦しむ者がいるのだ。
それを知ることは為政者にとって最低限の義務である。
そこに年齢など関係ない。
「御父君、先帝陛下はそれができない御方でした。宦官たちを信用しているといえば聞こえはよろしいやもしれません。ですがそもそも後宮の管理人でしかない宦官を重用すること自体が誤りなのです」
信用することと重用することは違う。彼らの父である劉宏は存命時にそれらを理解できていなかったからこそ、死して尚公然と霊帝扱いされているのだ。
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
身近に失敗を犯した存在がいるのであれば、それを反面教師にするのは当然のことである。
「……父上はなぁ」
劉協も長安や弘農にて色々と学んでいる身である。
そのため父である劉宏に為政者としての資質がなかったことは重々承知している。
圧倒的な事実を前にされては、父を侮蔑された形となった劉協としても李儒のことを『不遜だぞ!』とは叱ることはできなかった。
「思えば先帝陛下もある意味では不幸な御方でしたが……」
落として上げる、ではないが、李儒も劉宏の行いに一定の理解はあった。
そも先帝劉宏は先々代の実子ではなく養子として迎え入れられた身である。
それも実子がいなかった桓帝劉志が直接養子として迎え入れたのではなく、劉志が死んだ後、残った劉志の妻や宦官たちによって擁立されたという経緯を持つ。
彼ら彼女らが当時貴族とは名ばかりの極貧生活を送っていた劉宏を劉志の後継に指名したのは、なんのことはない。後ろ盾のない彼を傀儡にするためであった。
最初の切っ掛けがそれであり、その後も周囲を宦官や劉志の関係者で固められた劉宏に打てる手などない。よって大人しく傀儡になるしかなかったと言えばその通り。
傀儡から脱却しようとした矢先に急死したことを考えれば、決して劉宏の行動が間違っていたとは言えないかもしれない。
だが、劉宏にも幾度かはあったのだ。
周囲から宦官を一掃する機会が。
それは竇武や陳蕃らが宦官を排除せんと挙兵したときであり、黄巾の乱の際に王允が張譲を告発したときであり、黄巾の乱の後に何進が宦官たちと肩を並べる程の実力者となったときである。
それ以外にも何度か機会はあったもののその度に機を逃し続け、結局はずるずると宦官の言いなりになり続けた時点で、劉宏は皇帝が務まる器ではなかったと言われても仕方がないことなのかもしれない。
だが、そんなことは国に苦しめられた民には関係がないことだ。
劉宏がもう少しまともであったなら。劉宏がもう少し宦官以外の声を真剣に聞いていたならば、漢はもう少しまともな国になっていたはずだ。
国中からそういう声が挙がるのは至極当然のことであった。
「そうならないよう、陛下や殿下はたくさんのことを知らねばなりません。たくさんの家臣の声を聞かねばなりません。たくさんの書類と向き合わなければなりません」
「……そうだな」
皇帝の教育係に真面目な表情でそう告げられれば、劉協とて真剣に応じないわけにはいかない。
なにせ言っていることは何一つ間違っていないのだ。
しかも李儒は『自分の意見を聞け』ではなく『たくさんの家臣や書類と向き合ってその意見を聞け』と説いているのである。これに反発を覚えるほど劉協の性根は曲がっていなかった。
なお、横で話を聞いていた呂布は内心で『たくさんの書類と向き合うのは少し違うのでは?』と考えていたが、敢えて異を唱えることなく黙っていた。これで空気を読める男なのだ、彼は。
そんな呂布の気遣いはともかくとして。
劉協を奈落の底に叩き込まんとする腹黒の講釈は続く。
「ここ荊州にいれば、殿下は様々なことを目の当たりにするでしょう。弘農にはいない賊。弘農にはいない阿呆。弘農にはいない名士崩れ。そして荊州と隣接する地域にいる賊徒どもの行いも目にすることになります。それらから眼を逸らしてはなりません」
子供だと侮って利用しようとする者もいるだろう。
劉協に讒言を囁いて李儒やその他の家臣たちと仲違いさせようとする連中も出てくるだろう。
もしかしたら皇帝に擁立しようとする者も出てくるかもしれない。
それらから距離を置くことは簡単だ。
長安に逃げればいい。劉弁の影に隠れればいい。
だが忘れてはならない。
劉協は皇帝ではなく。皇族なのだ。
兄である皇帝を支えるべき存在なのだ。
なればこそ、劉協は悪意から逃げてはならない。
向き合い、学び、捌き、己のために利用するくらい強かにならなければならないのだ。
「差し当たっては軍学。これからいきましょうか。ちょうどいい例もありますしね」
為政者として政を学ぶことは大事だ。そのことに異論はない。
しかし乱世に於いて最も求められるのは軍学である。
といってもこれは、劉協が万の軍勢を率いて戦うために学ぶのではない。
万の兵を率いる将を邪魔しないために学ぶのだ。
楽毅然り李牧然り廉頗然り白起然り。名将と謳われた将軍たちの大半が君主やその周囲にいる者たちの嫉妬や讒言により戦いの邪魔をされている。
彼らの邪魔をしたせいで負けた勢力のなんと多いことか。
特に楽毅などその好例であろう。昭王の後を継いだ恵王がもう少しまともな判断ができたのなら、燕は斉を打ち破り、秦と覇を競う強国となっていたかもしれない。
極論すれば、家臣を疑うのは敵を全滅させてからでいいのだ。
功を立てすぎた武官を殺すのはその後でいいのだ。
高祖劉邦とて、韓信を討ったのは漢と戦える勢力がいなくなってからではないか。
蜚鳥尽きて良弓蔵れ。
狡兎死して、走狗烹らる。
通常これは『敵が滅びれば、武功を上げた功臣は殺される』と解釈されるが、君主の側として解釈すれば
『鳥が尽きるまで弓はしまってはならない。兎を殺すまで狗は丁重に扱うべし』となる。
実際に功を立てた家臣を殺すかどうかはある程度戦乱が収まってからのことになるだろうが、少なくとも前線で戦う将兵の邪魔をするようなことはしてはならない。
近年。それをやらかした例がすぐ近くに存在した。
言わずと知れた袁術である。
「袁術の行いから、絶対にしてはならないこと、やるべきではないこと、やらない方がいいことを学んでいきましょう」
「……兄上に上奏するため軽く話は聞いていたが、駄目なことばかりしているんだな」
「彼は本物の阿呆ですから」
「……袁家の当主がそれでいいのか?」
「いいわけがないでしょう。ちなみに殿下が同じことをしたら陛下が止める前に某が討ちますので悪しからず」
「お、おう」
控えめに見ても太傅が皇弟に『殺すぞ』と宣告したに等しい行為であった。
もし前後の会話を聞いていなかった者がこの現場に居合わせたなら、その日のうちに『太傅に謀反の兆しあり!』と噂が広まっていたかもしれない。
だがここにはそのようなことを考える阿呆はいなかった。
すでに袁術の行いを知っている呂布はもちろんのこと、直接言葉を浴びせられた形となった劉協でさえ漠然と話を聞いただけでも「まぁそうだろうな」と納得したくらい、袁術の行いは常軌を逸しているのだから。
父、宦官、王允、そして袁術。
数多の反面教師に恵まれた劉協は彼らの行いから如何なる教訓を学び取るのだろう。
(その教えはどうかと……いや、私は壁だ。なにも聞いていないしなにも見ていない)
護衛としてこの場にいることを赦された唯一の人物は、腹黒外道の薫陶を受けた少年が数年後どのような人物に成長するのかを考え一瞬止めようと思ったが、嫌な予感がしたのですぐに考えることを止めた。
彼の決断が漢にとって吉と出るか凶と出るか。
その評価を下すことができる人間は、今の世にはまだいない。
閲覧ありがとうございました









