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17話 

水辺が近いため比較的涼しいと言われる襄陽とて、七月にもなると普通に暑い。


ただ、道路がコンクリート舗装されていたり、大量の車が排気ガスを垂れ流していたり、エアコンの室外機が外に暖かい空気を放出しているわけではないので、暑くても三〇度を超えることはそうそうないのが救いだろうか。


あの時代の暑さを知らない人間からすればなんの救いにもならないことではあるが。


訓練をしている兵士はもとより、文官たちも夏バテしたり熱中症で倒れたりしないよう、塩分や水分をこまめに摂取させつつ仕事に励む日々。


さすがに二か月もいればそこそこ情勢も落ち着いてくるもので――司馬徽が余計なことをしそうな連中を根こそぎ連れ出してくれたおかげでもある――荊州にきた当初は結構な数が積み重なっていた書簡も、今では数えることができる程度に収まっている。


南四郡でも長沙で孫堅がウキウキで開墾だったり治水工事だったり賊の討伐だったりをしているので、今のところ問題は発生していない。


気になる報告と言えば、せいぜいが袁術がいる豫州や劉繇がいる揚州で俺に対する風当たりが強まっていることくらいだろうか。


袁家が敵に回るかも……と危機感を覚えている文官もいるようだが、今すぐ決起しないのであれば想定の範囲内。時間が経てば経つほどこちらに余裕ができる反面、向こうに余裕がなくなるのだから何の問題もない。


(皇帝)(長安)にいまし、全て(荊州)は事もなし。


実に平和だ。荊州だけでなく、長安政権に味方する陣営からすればまさしく平穏そのもの。


しかし、それはあくまで我々にとっての話である。


我々が平穏無事、つまり予定通りに事が運んでいるということは、我々と敵対している連中は予定通りに追い詰められているということである。


尤も、追い詰められていると言っても、どこかで大規模な戦端が開かれたわけではない。

真綿で首を絞めるかのように、徐々に徐々に追い詰められているのだ。


不思議なことは、劉焉や劉繇といった我々と敵対している陣営に所属している連中の大半がこのことを理解しているのに対し、長安政権側にこのことを理解している者が少ないことだろうか。


「気になることがございまして、少々お時間をお借りしてもよろしいでしょうか?」


ちょうど俺に意見具申をしに来たこの龐徳公のように。


―――


「どうぞ」


「かたじけない」


龐徳公は蒯越や蒯良に比べれば軍事的な視野がやや狭いものの、それ以外では勝るとも劣らぬ程に優秀な文官だった。


名士としても名高く、襄陽出身であるため荊州の人間にも顔が利く。

さらに蒯越や蒯良と違って劉表に従っていたことがないため、荊州の文官たちから長安政権との間に挟むには最良の安全パイだと思われている節もあり、色々と相談されたりしているそうだ。


そんな龐徳公が恐縮しながら何かを確認しにきたのだ。理由など一つしかない。


「何故我々は動かぬのか。いつになったら動くのか。その確認でしょうか?」


「……ご賢察の通りにございます」


まぁ、それしかないからな。


先だっての戦で孫堅側に損耗が無かったことを知る荊州の人間からすれば、後顧の憂いとなりかねなかった連中を孫堅が念入りに潰し、袁術が兗州への遠征を控え、劉繇が揚州の地盤固めに奔走している今こそ逆賊となった劉琦を潰す格好の好機である。


そうであるにも拘わらず、孫堅の後任として荊州に入った男に動く気配がない。


もちろん、荊州内部の政を優先したのはわかる。その重要性も理解している。

しかし、一切動く気配が無いのはおかしい。


もしかしたら何かを企んでいるのだろうか? 

それとも恩赦が与えられるのだろうか?


彼らはそう考えたのだろう。


気持ちは理解できる。もし俺が彼らと同じ立場ならそう思ったかもしれない。


だが違う。恩赦などありえない。

我々は動かないことで彼らを追い詰めているのだ。


蒯越や蒯良が確認をしにこないのは、彼らはそれを理解しているから。

龐徳公が確認をしにくるのは、彼はそれを理解できていないから。


これは能力の差というよりは経験の差。

実際に戦場を経験した人間と、そうでない人間の差だろう。


ただ、大半の文官は戦場を経験したことがない側の人間なので、今回は彼らにもわかりやすいように長安陣営の戦略を解説していこうと思う。


「まず、現在長安ではご親征の準備が進められております」


「はっ」


これは大々的に発表したからな。

標的である劉焉だけでなく、無関係の公孫瓚でさえ知っていることだ。


問題はこの次である。


「ではこの準備、いつ終わると思いますか?」


「……さて」


「そう。わからないのです。討伐の対象である劉焉はもとより、軍事に携わっていない楊司空にもわかっておりません」


「そうなのですか?」


「えぇ。楊司空本人もそうですが、彼の周囲には袁家の影響を受けている者が多数おりますからな。陛下はあえて彼らに情報を流さぬよう統制しているのです」


「それは……」


皇帝が三公の一である司空を、それも四世太尉の家の当主である楊彪を信用していないと知らされた龐徳公がなんとも言えない表情を浮かべる。


名士である彼の立場では肯定も否定もできないよな。

どうでもいいが。


「重要なのはここです。情報を得られない劉焉は今、いつご親征の準備が終わるか分からないし、いつ陛下が攻め込んでくるか分からない状況に置かれています」


「そうですな」


「そのため、彼らは長安方面への警戒を解くことができません。この時点で劉焉は消耗を強いられております。ここまではよろしいですか?」


最低四万を号する官軍に対抗するために劉焉は張魯が治める漢中に二万の兵を派遣している。

そうすることで益州は労働力を消費すると共に、派遣した兵を維持するために日々大量の兵糧を消費している。


この出費は、たかだか益州一州しか持っていない劉焉にとって尋常ではない重圧となっている。


「はっ」


まぁここまでは理解できるわな。

無理だったらここで話を終えていたところだが、続けよう。


「では、劉焉にとって危険なのは長安だけでしょうか?」


「え? ……あ!」


「気付きましたな? 彼にとっては益州と隣接しているここ荊州もまた警戒に値する土地なのです」


「確かにそうです!」


「江陵から夷陵。夷陵から巫県、巫県から上庸に入れば益州に横入りをすることができます。また、武陵から酉陽を経由すれば巴郡へと兵を進めることができます。そんな状況下において南郡に某が、武陵の隣である長沙には孫堅殿がおります」


「……なるほど。劉焉はこれらの動きを『ご親征にともなう下準備』と見做しているのですな?」


「そうなります。その結果彼は益州全体に警戒網を敷かなくてはならなくなりました。当然警戒を緩めることはできませんので、益州の国庫に蓄えられていた財は怒涛の勢いで減少していることでしょう」


「それはそうでしょうな。如何に益州が豊かな土地とて、常に数万の大軍を維持するのは簡単ではない……」


「左様。しかしここで我々が対劉琦のために軍を動かすと……」


「荊州方面の警戒をする必要がなくなる、そこまでしなくとも、消費を最小限に抑えることができるようになりますな。それでは太傅様が劉琦討伐の兵を挙げないのは、劉焉の動きを抑えるためなのでしょうか?」


「無論。今のところご親征に参加せよとの命はきておりませんが、陛下の敵を弱体化させるのは臣下として当然の行いではありませんか?」


「然り」


「加えて、劉焉と同じことが劉琦や劉繇にも言えます」


「同じこと? あぁ! 確かに荊州の動きがわからなければ、彼らも警戒を緩めることができませんな!」


「そういうことです。動かぬまま敵の損耗を誘えるならば、それに越したことはございません」


「なるほど、なるほど」


ここまでが表向きの理由である。おそらく蒯越や蒯良が読んでいるのもここまでだろう。

決して嘘ではないが、全てを話したわけではない。


彼らを信用していないのもそうだが、秘密は誰にも話さないのが基本だからな。


「肝要なのは『こちらが最初から動くつもりがない』と悟らせぬことです。故に龐徳公殿もここで聞いたことをそのまま諸兄にお伝えするのは……」


「存じております。今も心配している者たちにはそれっぽく説明しておきましょう!」


「私からの説明ではまだ納得してもらえないかもしれませんからね。龐徳公殿にはご苦労をおかけすることになりますが、よしなに願います」


「お任せあれ!」


そう言って龐徳公は立ち去っていった。


彼の去り際の表情から、俺の説明に疑いを持っている様子はない。

それはいいことなのだが。


「任せろ、か。この程度の説明で納得してくれる程度の人間になにを任せろというのか」


親征が行われない理由。

俺が荊州から動かない理由。

劉琦を生かしておく理由。

そして劉焉を確実に殺すための策。


どれも決定的なモノは何一つ教えていない。

故に、もし龐徳公から聞いた話を漏洩する輩がいたとしても、何の問題もない。


むしろ足りない答えを信じて、せいぜい踊ってくれればいい。


尤も、親征が行われない理由が『長安政権が抱える【後顧の憂い】を絶つため』とは思いもしないだろうが。まぁ、それを知ったところで何ができるわけでもなし。


「はぁ。敵もこの程度で済むなら楽なんだがなぁ」


敵に手ごわさなんざ必要ない。

無能で弱い敵こそ最良なのだから。


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