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15話

翌日 荊州南郡 江陵県 宮城


「これを以て孫文台を列侯へと任じます。同時に現在仮の荊州牧として励んでもらっておりましたが、その任は某が引き継ぎます。貴殿は都督となりますが、これは単純な降格ではなく貴殿に食邑となる地を治めてもらうために必要な処置でもあります。陛下のご厚情を理解し以後も忠義を尽くすように」


「はっ! 謹んで御受け致します! 皇帝陛下、万歳!」


「「「「皇帝陛下、万歳!」」」」


昨日に引き続き万歳の声を挙げる孫堅。

彼は心から感謝していた。


目の前に立つ男に「ずっと内心で腹黒外道と呼んでいて申し訳ございませんでした!」と、心から謝りたいと感じていた。


もちろんこの場でそんなことを口に出すことはない。

周囲の認識がどうであれ、仮に皇帝陛下本人が目の前に立つ男のことをそう思っていたとしても、今の彼は個人ではなく皇帝陛下の代理人なのだ。


その絶対君主の代理人を指して『腹黒外道』などと口を滑らそうものなら……即日に行方不明、数日後には長江に生息している魚の餌となっていることだろう。


それは孫堅だけではない、子供や妻を含めた関係者全員がそうなっているはずだ。


もちろん孫堅とてただでやられるつもりはない。


しかしながら、孫堅の中には『一度敵と認定されたら終わる』という諦めに似た確信があった。


そもそも中途半端に責任感の強い孫堅を斃すに武力など不要。

大量に文官を引き抜いたうえで荒れている州の牧にでもして大量の書類仕事をさせるだけでいい。


目の前に立つ男はそれができるだけの権力と能力を有しているのだ。


もちろん、自分が誘拐されたとなれば家臣一同必死で探してくれるだろう。そこは疑っていない。

だが誘拐した相手が彼であり、誘拐された先で自分が書類仕事をさせられているだけと知れば、誰もが手のひらを返すだろう。


誰でもそうする。孫堅だってそうする。


そうこうして、延々と続く書類仕事のせいで孫堅が心を壊しても、誰も彼に復讐をしようとは思わないはずだ。


だって、彼はそれ以上の仕事をしているのだから。


もう逆恨みにもなりはしない。ただの恥である。


誰がそんな恥を晒したいと思うものか。


かと言って、与えられた職務をこなせなければ無能の烙印を押されてしまう。

自分が無能と罵られるだけではない。州牧が扱う書類には州に住まう万の命が載っているのだ。

処理しきれなければ、万の民が苦しむことになるのである。


己の名誉と、己に従う民の命。

その両方が掛かっている以上、書類仕事から逃げることはできない。


だが、書類仕事に呑まれれば、残るのは書簡と文字に埋もれた抜け殻だけ。


どう転んでも孫堅が勝利することはない。


勝利が見えた戦いほどつまらないものはない。

それが、自分が勝てないと判明している戦いならつまらないどころの話ではない。


奇しくも董卓が恐れていることと同じ内容に行きついた孫堅は、早々に彼に逆らうことを諦めていた。


そうした事情もあって孫堅は、今回の戦いを口実としてどのような罰を与えられるのかと、昨日まで戦々恐々としていた。


これまで褒美と言えば長沙の郡太守だの、南四郡の太守と都督の兼任だの、荊州牧だのと、周囲からすれば大抜擢なのだろうが孫堅からすれば罰としか思えないような地位ばかり与えられてきた。


だから今回、太傅が直々に荊州へ下向すると聞かされたときから孫堅は諦めていたのだ。


『また似たようなものを押し付けられるのだろう』と。

『どうせなら降格してくれ』と、些か以上に投げ槍になっていたのである。


しかし、奇跡は起こった。

なんと孫堅への褒美は【列侯への叙任】という、誰もが羨むと同時に、軍閥を率いる将としてあちこちに派遣されていた孫堅にとってなによりも欲していた地盤という、格別なものだった。


それだけではない、なんと荊州牧を一時罷免し都督に戻すというおまけつきだ。


この人事によって孫堅、長沙郡の太守としての仕事はあるものの、これまで嫌々やっていた政の軛から解き放たれたのである。


長沙に食邑を貰える身としては、長沙郡の太守であることはなんらマイナスにはならない。

むしろ長沙が栄えれば栄えるほど自分の食邑も栄えるうえに、列候の地位は子にその地位を引き継げる(必ず引き継げるわけではないし、場合によっては爵位が落ちることもあるが、ほとんどの場合は食邑を継げる)のだから、孫堅にとってだけでなく孫家にとってもまさしく良いことずくめ。


孫堅が断る理由などどこにもなかった。


ちなみに、ついでとばかりに孫家に従う黄蓋らにも褒美が与えられている。


さすがに孫堅ほどの飛躍ではないが、それでも堂々と士大夫を名乗れる程度の地位は与えられたため、孫堅に続いて万歳を挙げる声にも結構な力が籠っていたとかいなかったとか。


「くっ!」


心からの笑みを浮かべる孫堅らであったが、誰もがこの人事を喜んだわけではなかった。


その筆頭が孫策である。


孫策からすれば荊州は、尊敬する父孫堅が単独で刈り取った地である。

南四郡を荒らす越と戦ったときもそうだし、劉表がいた襄陽を落としたときもそうだ。

今回の戦に至っては、皇帝と同族の劉氏に従う連中が余計なことをしたせいで、中央を巻き込んだ面倒ごとに発展したとさえ考えていたくらいだ。


それどころか長安では孫堅が敗けたことになっていて、その責任を取らせようとしていたというではないか。


孫策は、孫堅が州牧から外されたことがそれだと考えていた。


その考えは当たらずとも遠からず。といったところだろうか。


確かに対外的な処分として降格したのは間違いではない。


しかし孫堅からすればそれこそが一番の褒美なのだ。

そこを取り違えてしまうと、恩が仇となってしまう。


もちろん孫堅は勘違いなどしていない。

降格を含めて自分のための人事だと確信している。


しかし孫策はそうではなかった。


「……何故、なにもしていない連中に荊州を明け渡さなければならないのか」

「何故、父上はあんな輩に笑顔で頭を下げるのか」

「何故、我々が皇帝の腰巾着に頭を下げなければならないのか」

「恩賞を与えられたから? 働きに対して恩賞を与えるのは当然のことではないか」

「父上はそれだけの働きしてきた。だから恩賞を貰うのは当然のことではないか。むしろ今まで恩賞を渋ってきたことを詫びるべきではないか」


纏めてしまえば『尊敬する父親が会社の上司から褒められた際に、感謝の気持ちを込めて笑顔で頭を下げているのを見たときに子供が抱く感情』だろうか。


未だ親や家に守られている子供には、父親の気持ちは理解できない。

子供自身が社会人になったときにはじめて父親の気持ちを理解できるものだ。


故に、孫堅も息子がやや鬱屈した感情を抱いていることを理解していたものの、それほど大事になるとは捉えていなかった。


孫策が若手を集めて訓練に励んでいるのを見ても、微笑ましいと思いはするものの止めようとは思わなかった。


すでに孫家は一軍閥を率いる末端の将などではない。

漢の重鎮にして誇りある貴族だというのに、当の孫堅がそのことを自覚できていなかった。


このとき孫堅がもう少し孫策と向き合っていれば。

もしくは孫策がもう少し高い視点からものを見ることができていれば、ここで禍根は防げたかもしれない。


しかし、孫堅は孫策を止めず、孫策は孫堅を本当の意味で理解しようとはしなかった。


戦乱の中、その実績を以て望外の出世を果たした江東の虎が率いる孫家。

獅子が身中の虫に勝てぬように、虎もまた身中の虫は倒せず。


長男の不覚という特大の不安要素が齎す澱みは、本人たちの自覚のないまま薄くだが着実に広がりを見せるのであった。

閲覧ありがとうございました


=以下宣伝=


7月18日に拙作の八巻が発売予定です。


細やかな修正に加え、約二万字くらい書き下ろし分があるので、WEB版をご覧の皆様にもお楽しみいただける内容になっているかと思いますので、気になる方は一度お手に取っていただければ幸いです。


……打ち切り怖いので、何卒よろしくお願いします。(本心)





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