13話
結局我々は、襄陽で三日間の休息を取りつつ補給と文官の配置を終わらせてから、軍監としての仕事を果たすべく孫堅が待つ江陵へ出発した。
移動中の一か月もそうだったが、この三日間も非常にゆっくりと過ごさせていただいた。
いやはや、司隷だけでなく涼州や交州や幽州や并州といった親皇帝勢力全域の内政やら軍事やら対異民族戦略やらなにやらを気にせず、荊州のことだけを考えていられたことのなんと幸せなことか。
今も長安で苦労している連中に申し訳ないと思いつつ、目の前の仕事に集中させていただいた次第である。
うん。将来的にはどこかの郡太守か県令あたりにしてもらおうと思っていたが、荊州あたりがいいのかもしれないな。
冬もそこそこ暖かいし、夏もそんなに暑くならないみたいだし。
洪水に関しては多少手を加える必要があるだろうが、土台は出来ているのでそんなに苦労はしないだろう。
あれ? 本気で良い感じでは?
……劉琦を討伐したら、袁術や劉繇への警戒と戦後復興の名目で江夏郡の太守にしてもらうよう上奏してみようかねぇ。
などと楽隠居への道を着々と固めつつ、南進する我ら弘農勢。
ちなみに江陵へは宜城・編・当陽とやや大きな県を視察しつつ、劉備や諸葛亮に扇動されて故郷を捨てた樊城や新野の民が、最終的に『逃亡するのに邪魔だから』と家族ごと肉壁にされたことで知られる地、長坂を越えていくことになる。
ちなみに劉備や諸葛亮が曹操の悪評を流して樊城の民を扇動したのは、曹操軍を迎撃する策として樊城にて空城計――城を空にして、その入った敵を城ごと倒す計略――を仕掛けるためである。
計略のため樊城から避難させられた民は劉備が治めていた新野へと入った。だが、新野には樊城の民と新野の民を抱えるほどの余裕もなければ、即座に送られてきた曹操の軍勢と戦えるだけの備えもなかった。
そのため劉備は曹操がくる前に新野を捨てることを決意したのだが、このとき誤算が生じた。
曹操の恐ろしさを聞かされて樊城から逃げてきた民や、彼らから話を聞いた新野の民が、劉備が逃げようとしていることを知って『自分たちもついていく』と宣言したのだ。
そりゃそうなる。
むしろそうならない方がおかしい。
さっさと逃げるはずが大量の足手纏いを抱えることになった劉備はさぞ困ったことだろう。
事実、襄陽を通過する際に襄陽を実質支配していた蔡瑁に対し「自分は入れなくてもいいから民だけは入れて欲しい」とほざく程には困っていたようだ。
当然、これは別に民を想ってのことではない。
劉備や諸葛亮は、民の前でそう頼み込むことで『自分は民のことを考えている』とアピールしつつ、足手纏いにしかならない難民たちを厄介払いしようとしていたのである。
別口で『難民の受け入れに乗じて襄陽を奪おうとしていた』とも言われているが、曹操が間近に迫っている状況で襄陽を奪ったところで、内外に敵を抱えることとなるだけだ。
そのようなことをしても劉備に先はないことは明白なので、厄介払いの可能性が高いと思われる。
実際ここで足手纏いを処理できていたら、劉備は無事江陵へとたどり着けていただろう。
もしそうなっていたら、江陵に蓄えられていた潤沢な物資を回収した劉備はそのまま夏口の劉琦と合流するか、長沙・零陵・桂陽・武陵の南四郡を早々に占拠することができていたかもしれない。
しかしそうはならなかった。劉備の目論見は失敗。
蔡瑁は難民の受け入れを拒否してしまう。
劉備の狙いはさておいて。劉備の頼みを断ったことで蔡瑁は『荊州の民を見捨てた』悪名を遺してしまったが、為政者として見た場合蔡瑁の行動はなんら間違ったものではない。
もし劉備に下心がなかったとしても、だ。
どこの世界にいきなり現れた一〇万もの難民を受け入れる為政者がいるというのか。
しかもその難民たちは”劉備や諸葛亮の言葉を信じて曹操を恐れた結果地元を捨てた民”だ。
これから曹操に降伏する街にそんな民を入れたらどんな混乱が起こるかわかったものではない。
それだけではない。彼らを受け入れた場合、単純に物資が枯渇する可能性が高いのである。
喰わせることもできず、仕事を与えることもできない。さらには為政者になる予定の人間に反抗的。
そんな民を抱えてしまえばどうなるか。
難民たちだけでなく、襄陽の民も生活に困ることになるのは自明の理。
そのため蔡瑁らが「大人しく新野に帰れ」と受け入れを断るのは、当時の人間としては当たり前のことであった。
その当たり前を殊更悪く言いふらし、徹頭徹尾自分たちが被害者だとアピールしていった劉備一行のろくでなし振りときたら、まさしく筋金入りである。
呂布が死の間際に『こいつらが一番の悪だ』と罵ったのは決して間違いではないだろう。
入蜀に関するあれこれや孫権との約束を守らなかったこともさることながら、赤壁の戦の後すぐに劉琦が死んだのも怪しもうと思えばいくらでも怪しめることだし。
三国志の著者とされる陳寿が蜀の人間でなかったら、劉備や諸葛亮はただただ戦乱を長引かせた不義の罪人として名を遺したのではなかろうか。
ともあれ。
「お久しぶりですね、孫州牧」
「太傅様におかれましてはご健勝のようでなによりでございます」
襄陽から移動すること八日目の昼過ぎ、我々は今回の目的である孫堅が待つ江陵へと無事到着したのであった。









