12話
「あれが太傅か。やはり一廉の御仁であった」
「……そうでしょうか? 某にはわかりません」
「まぁ、お主には合わぬだろうな」
結局、身に纏う気配だけで荊州に名だたる名士たちを混乱の渦に叩き込んだ男、李儒が襄陽に滞在したのは僅か三日だけであった。
その短い期間で彼がしたことと言えば、蒯越や蒯良といった旧劉表配下の者たちと面談して叛意の有無を確認したり、孫堅が襄陽に残していた資料を確認したり、引き連れてきた文官たちに荊州統治に必要な物資や期間を算出させたり、引き連れてきた武官たちに休息を与えつつ補給を済ませたりと、中央の役人とは思えないほど真面目に職務を遂行していた。
あまりにも真剣かつ忠実に職務に励む姿を目の当たりにしたためか、李儒と誼を結ぶために襄陽へと出仕していた名士や土豪たちは思わず顔を見合わせた後、粛々と各々の仕事に向き合うこととなったという。
そんな多忙な中であっても、李儒は龐徳公と会話をする時間を作った。
それはもちろん龐徳公に人物評をしてもらうため……ではなく、単純に龐徳公が持つ荊州に住まう名士の情報を求めていたからだ。
「義兄殿は彼の御仁に荊州の名士に関する情報を全てお話しになりましたな」
「そうだな」
「何故です?」
「何故、とな? おかしなことを聞く。私は腐っても漢の臣であるつもりだ。それなら太傅殿からのご下問に応じるのは当然のことではないか」
「しかし、彼の御仁の狙いはッ!」
「荊州に住まう名士を謳う者たちの断絶だろう? それこそ洛陽や長安でやったようなことをここでもするつもりだな」
「それを知っていて何故!?」
「それが必要なことだと判断したからだ」
李儒の目的を理解した上で龐徳公は快く自身が持つ情報を李儒へと提供した。
それこそ有名、悪名、有能、無能問わず。自分が知ることの全てを伝えた。
その上で、推薦も紹介もしなかった。
ただ情報を渡しただけだ。
彼との繋がりを求めていた荊州の名士からすれば堪ったものではないかもしれないが、龐徳公からすればそれは当然のことだった。
先日司馬徽がその理由を尋ねたとき、龐徳公はこう告げた。
『彼が欲していたのは、名が知られている人物でもなければ能力のある人物でもなかった。ただ法に従う人物だった。しかし私はそのような人物を知らなかった。だから紹介しなかったのだ』と。
能力の有無であれば、それこそ司馬徽や龐徳公は十分にある。
それこそ今から長安に行っても、それなりの待遇で迎え入れられるだろう。
だが、彼らが大人しく法に従う人物なのか? と言われたら、答えは否である。
それは、当時正式な刺史であった劉表や、その後に荊州の統治を任された孫堅の招聘に応じなかったことでも明らかだろう。
招聘を断ったと言えば聞こえはいいかもしれないが、何のことはない。彼らは漢が認めた荊州の統治者に従うことよりも、己の気分を優先し隠遁することを選んだのだ。
漢に対する失望と不信があったのかもしれない。
権力争いに嫌気がさしたのかもしれない。
戦乱に巻き込まれるのを嫌ったのかもしれない。
様々な理由はあるだろう。
彼らを失望させた漢に責任がないとは言わない。
だからこそ孫堅は彼らを強制的に連行して働かせようとはしなかったし、李儒も問答無用で処罰しようとはしなかった。
だが、許したのはそこまで。
李儒からすれば、劉表はまだしも、孫堅の招聘を断るということは漢に尽くす気がないということだ。
漢が健在で在ってこその名士が、自身の感情を優先して漢のために働くことを拒否したということだ。
そんな連中に生きている価値などあるだろうか? いや、ない。
そう。李儒が龐徳公に荊州に住まう名士の情報を求めたのは、彼らを登用するためではない。
名士を自認しておきながら漢のために働かず、それどころか漢を腐らせることしかしない害虫を根絶やしにする為だ。
根絶やしにされる中にはおそらく自分や司馬徽も入っているだろう。
それが分かっていながら龐徳公は快く李儒の求めに応じた。
それが自分がするべき最期の仕事だと思ったからだ。
「彼の決定には情や徳が入る余地がない。故に『苛烈』や『無情』と罵る者はいるだろう。人によっては『外道』と罵るだろう。それは決して間違いではない」
「しかし、彼に悪意はない。あるのは漢を正しい姿に戻そうとする意志だけだ」
「漢の臣としては彼が正しい。名士と嘯く者たちが皆彼のように自身を律することができていたら、漢はここまで腐らなかった。彼のように腐った枝を是正しようとするのではなく、全て刈り取ることを選んでいたら漢はここまで腐らなかった。自身よりも、家よりも国家を優先する気概と忠義があれば漢はここまで腐らなかった」
これまで多くの士に忠義とはなんたるかを説いた。
これまで多くの徳に優れたと思う者を評した。
これまで多くの知に優れたと思う者を評した。
その全てが誤りだとは思わない。
しかし多くが誤りであったと思う。
それも当然だ。何故なら根底としているものが違っていたのだから。
「国家を運営する士に必要なのは、見聞きする者によって価値が異なる『徳』を持つことではない。まして兵法書を諳んじるだけの『知』を有することでもない。誰であっても、それこそ皇帝陛下その人であっても曲げることのできない『法』を守る意思なのだ」
荀子や韓非子はこう説いている。
『人は弱く易きに転がりやすい存在だ。しかし人の上に立つ者が易きに転がれば、組織は腐る。組織の腐敗は亡国に繋がる。故に権力のある人間ほど法で縛られねばならぬのだ』と。
もちろん。彼らが提唱した『人を縛るべき法』は、時の権力者が自分に都合のいいように編纂したような法ではない。
権力者の行動を抑えるための法である
これを守る士こそが礼を修めた君子であり、国家を運営するべき人物なのだ。
それに鑑みれば、龐徳公も司馬徽も「自身は礼を修めた士である」とは口が裂けても言えない。
特に、彼の前では言える筈もない。
件の彼は十五のときに洛陽にいた何進に仕え、漢の腐敗と向き合った。
大量の宦官を討ったのは袁紹や彼とともに暴走した名家の者たちだったが、彼らが動く前から宦官閥はその勢力を弱めていた。それは彼と何進によって削られていたからだ。
そして法も礼も弁えずに宮中へ侵犯した者たちを董卓と共に打ち破っている。
国を腐らせていた宦官や名家がいなくなったことで、漢は既のところで持ちこたえた。
多分に運の要素はあっただろう。
彼一人が頑張ったわけではないだろう。
たくさんの協力者あってのことだとは理解している。
しかし、その中心にいたのは、間違いなく彼だった。
彼が中央の腐敗と向き合っていた時、自分たちはなにをしていた?
『漢はもう終わった』と見切りをつけて洛陽から立ち去った。
『腐りきった連中と関わりたくない』と洛陽から立ち去った。
洛陽から離れた荊州で『将来のため』と嘯いて名士たちと交流していた。
それはなんのため?
いずれ、誰かが、どうにかして中央の澱みを祓ってくれたとき、漢を復興させる人間を育てるためだ。
だが、実際はどうだ。自分たちが隠者を気取っている間に、自分たちが見放した漢は劉弁という新帝のもと復興の兆しを見せているではないか。
何故もっと早くから何進に協力しなかった?
南陽の肉屋と貶していたからだ。
何故早くから董卓に協力しなかった?
涼州の田舎者と見下していたからだ。
何故もっと早くから劉弁を支えようとしなかった?
愚かな先帝と肉屋の血を継いだ愚鈍な小僧と見放していたからだ。
何進の悪評を流していたのは誰だ?
自分たちが忌み嫌っていた、宦官や腐りきった名家どもだ。
董卓の悪評を流していたのは誰だ?
自分たちが忌み嫌っていた、腐りきった名家どもだ。
劉弁の悪評を流していたのは誰だ?
自分たちが忌み嫌っていた、宦官どもだ。
何故自分たちが忌み嫌っていた連中が流した噂を信じた?
何進に会ったことはあるか?
董卓に会ったことはあるか?
劉弁に会ったことはあるか?
立場上劉弁と会うことは難しかっただろう。
だが望めば何進や董卓には会えたはずだ。
その配下であった彼にも会えたはずだ。
そこで協力していれば、もっと早く漢は立ち直れていたはずだ。
それをしなかったのは何故だ?
『愚かだから』
これに尽きる。
「あぁそうだ。私は愚かだった。老人を嫌い、老人が創った世を儚み、老人が支配する国を憂いながら、若人を愛した。私は次の世を創る人を育てていたつもりであった。だが、実際はそうしているつもりでしかなかった」
「……」
「彼が弘農から連れてきた文官たちを見たか? 宴を断り、付け届けを断り、人物評を断り、ただ職務に忠実な、名もなき能吏たちを見たか?」
「……はい」
「私たちが育てた人物に同じことができると思うか?」
「……いいえ」
「そうだ。私たちが育てたのは名士だ。能吏として名を馳せることを夢見ることはあっても、己が家を栄えさせることを夢見ることはあっても、それはどこまでいっても私欲でしかない」
名士とは、名家とは、家を遺すことを第一とする者たちである。
極端な話、彼らは漢が滅ぼうとも家が残ればそれでいいとすら考えている。
殷が周に。周が秦に。そして秦が漢になったように、国が変わっても家さえ遺ればいいと嘯くような人間なのだ。
そんな人間が、己の腹を満たす宴を断るはずがない。
そんな人間が、己の懐を潤す付け届けを断るはずがない。
そんな人間が、己の将来を左右する人物評を断るはずがない。
そんな人間が、漢の為に真剣に働くはずがない。
そしてそんな人間を、漢が必要とするはずがない。
「……間違えたのだよ。私たちは」
「それは!」
「あぁ、むろんこのまま彼らを放置するつもりはないぞ。それはあまりにも無責任だからな」
龐徳公は今後自分がどう生きるかを既に決めていた。
今まで教えを説いてきた者たちに頭を下げ、たとえ罵倒されようとも考えを改めるよう説く。
自己満足であることは否定しないが、それがせめてもの罪滅ぼしだと思ったからだ。
しかし司馬徽の考えは違った。
「私は、私が、私たちがしていたことが間違っていたとは思っておりません!」
「徳操……」
「漢の復興は未だならず! 華北も中原も江南も、なにも収まっておりませぬ! 幼帝のもとではこの混乱は収まりませぬ!」
それは今まで知り合ってきた名士たちと語り合っていた内容と同じものだ。
「官吏の仕事は机上にて書簡を捌くだけに非ず! 土地を見て、邑を見て、そこに住まう人を見て、それを束ねる者が必要なのです!」
それは今まで私腹を肥やしてきた土豪や役人たちの言い分と同じものだ。
「言いたいことはわかる。だがな」
そもそも、その理想を語る司馬徽こそが机上の徒でしかない。
洛陽の政争を生き抜き、弘農を治め、実際に戦場に脚を運んでいる太傅の言葉とくらべて、彼の言葉のなんと軽く、薄いことか。
そう思っても、龐徳公は口にはしなかった。
自分を兄と慕っていた男が可愛かったし、何より自分自身も明確な答えを有しているわけではなかったからだ。
(私と徳操。両者の意見を聞かせた上で各々が選ぶべきなのやもしれん。しかし、もし後世に自分の名が残るのであれば、無責任の誹りは免れぬな)
諫めても無責任。諫めなくとも無責任。
どちらに転んでも無責任。
(今まで自分が歩んできた道のりが、かくも無意味なものだったとは……)
己が不明に恥じ入る龐徳公は、このとき司馬徽の眼に仄暗い灯が燈っていたことに終ぞ気が付かなかった。
もしこのとき龐徳公が司馬徽の危うさに気付いていたら、この後司馬徽から話を聞いた荊州の名士が他所へ逃亡することも、司馬徽の教えが反劉弁を標榜する勢力の中に浸透していくことも防げたかもしれない。
しかし”もし”は起きなかった。
私心によって曇った水鏡が映した虚像。
それを見聞きし、恐れた者たちが漢になにを齎すのか。
漢に安寧が訪れる日は未だ遠く。
世は着実に乱世へと近づいていた。









