25話。政変の裏で④ 人事の話
作者の独断と偏見がこれでもかと詰まっております。
嫌いな方はそっ閉じしてください。
王允陣営が処刑されたことで文官不足になると思われがちだが、元々王允にすり寄っていた面々には大した仕事が与えられていたわけではないので、特に問題はない。
この点で問題があるとすれば、楊彪の関係者や弘農から長安に入った者たちの勢力が強くなりすぎるというところだろうか。
弘農から出向いた者たちなら大丈夫と思うかもしれないが、何事にも程度というものがある。
一強体制になったら調子に乗るのだ。人間は。
なので調子に乗らないよう釘を刺すべきなのだが、それをすれば委縮して仕事にならないという面倒くささ。
「もう文官に関しては荀攸と鍾繇に任せてもいいんじゃないかな」
鍾繇とは、現在は黄門侍郎でしかないものの、史実では司隷校尉となり漢中を統治したり、相国や太傅にまでなった人物である。
曹操の跡を継いだ曹丕などは、鍾繇・華歆・王朗の三人を一代の偉人とまで称したくらいだ。他の二人は少しアレかもしれないが、鍾繇は決して無能の輩ではない。そこに荀攸を付けるのだから問題ないだろう。そう思うことにした。
文官の人事に一段落がついたら次は武官である。
特に重要なのは功績を重ねている董卓と孫堅の扱いだ。
「信賞必罰。傍から見れば優遇されている両者も実際は面倒ごとを押し付けられているだけだからな。ここらで普通の報奨を出すべきだろうよ」
特に顕著なのが孫堅だ。彼はここ数年で、長沙の太守から桂陽・零陵・武陵の太守を追加され。さらには南郡都督まで追加されている。
いまでもそこそこ人材はいるだろうが、荊州が本格的に文官の宝庫になるのは華北や中原での戦が本格化した後の話であって、今ではない。
もちろん劉表陣営から文官を引き入れたが、まだまだ人手不足は否めないところなはず。
更に大将軍であると同時に郿侯でもある董卓と違い、孫堅には長安との繋がりもなければ確固たる地盤もない。これでは彼の仕事に報いているとは言えないだろう。
「孫堅に与える爵位は列侯。封邑は長沙の県であれば長安の連中も騒ぎはしないだろうな」
本来一県を与えるとなればかなりの大ごとなのだが、それが荊州の南四郡の一部であれば話は別だ。中央の誰も欲しがらないような場所にある県を与えたところで、孫堅を憐れむ者や蔑む者はいても羨む者はいないだろう。
「いや、もしかしたら列侯の時点で羨むかもしれないが、さすがにそこまでは面倒見切れん」
偉くなれば嫉妬されるものだ。そのくらいには慣れてもらい、自分で対処してもらうしかない。
他と言えば皇甫嵩や朱儁くらいだが、彼らには十分以上報いているし、何より彼らが政治に近寄ろうとはしないのでこのままで問題ない。
「董卓は……なにか欲しいものがあれば向こうから言ってくるはずだな。もし何もなければ一族の董旻に何らかの爵位を与えておけば、後継を認める証にもなるから文句は言わんだろう」
不足と言えば不足だが、妥当と言えば妥当。
ただ董卓の働きは決して無視する心算はないので、ナニカを言ってきたら報いる所存である。
「あとは、呂布か」
今のところ浮いている武官と言えば彼であろう。
現在呂布は王允の策から逃れるために姿を晦ましたことになっているが、当然その居場所は掴んでいる。というか、李粛を通じて河東郡の平陽で休むよう伝えさせたのは俺だ。
史実や演義では裏切りの代名詞とされて散々な扱いを受けている呂布だが、俺としては彼を使うことに異論や抵抗はない。なぜなら見方を変えれば彼は誰も裏切ってはいないからだ。
簡単に説明しよう。
まず最初に彼が裏切ったとされるのは養父の丁原である。
しかしながらこの丁原は、史実に於いて殺されても文句を言えないような大罪を犯している。
それはなにか。
もちろん『皇統への口出し』である。
元々丁原が董卓に暗殺されることになったきっかけは、董卓が劉弁を廃し劉協を帝とすることを宣言したことに対して反発したからであると言われている。
だが考えてもみて欲しい。
そもそもの話だが、劉弁を皇帝として認めていた人間が当時の洛陽にどれだけいただろうか?
元々袁紹を始めとした名家の面々は何進と血の繋がっている劉弁を認めていなかった。
宦官も劉協を推す蹇碩とそれを認めない張譲らに分かれていたが、張譲らとて劉弁を推していたわけではない。彼らはあくまで『誰が権力を握るのか』で揉めていただけなのだ。
つまり当時洛陽を支配していた文官たちは、清流派濁流派を問わず劉弁を廃嫡することを望んでいたのである。
袁紹らにとっての誤算は董卓が劉協を抱え込んだことであって、劉弁を廃嫡したことではないのだ。
それを踏まえた上で丁原の行いはどうか。
なんと彼はたかだか并州刺史の分際で「劉協の即位を認めない」などとほざいたのである。
それが皇統への口出しになるかどうかを自覚していたかどうかは知らないが、空気が読めないにもほどがある。
この空気の読めなさが彼を殺したと言っても過言ではない。
呂布だけでなく、并州勢のほぼ全てが丁原を見捨てて董卓に従ったのがその証拠と言える。
つまり呂布が丁原を裏切ったのではない。
丁原が勝手に暴走した挙句に殺されたのだ。
次いで呂布が裏切ったとされるのは董卓だが、これはもっとおかしい。
まず董卓が本当に暴虐無人の徒であったのであれば、彼を殺したことは賞賛されることはあっても非難されることではないということだ。だが、これに関しては別の問題になるので今はいい。
問題は呂布が王允の命令に従って董卓を殺したことにある。
軍事に於いて責任とは命令を下した人間に帰結する。これは当たり前のことだ。
しかも当時の呂布は一将軍にすぎず、対する王允は三公の一。司徒である。
ちなみに反董卓連合が結成された口実として橋瑁が造った偽勅が三公によるものとされていることからもわかるように、当時三公によって造られた勅命は、実際の勅命に等しい重さを持つと認識されていた。
それに鑑みれば、王允から呂布に対して出された『董卓を誅殺せよ』という勅命は正式な勅命となる。つまり事前に呂布と董卓の間にどのようなことがあったかは知らないが、少なくとも呂布が董卓を討ったのは漢王朝からでた正式な命令によるものなのだ。
これで『董卓を裏切った』と呂布を非難するのは無理があるだろう。
もし非難されるとすれば、それは命令を下した王允であるべきだ。
また、董卓を殺した後、長安を追われた呂布は袁術や袁紹を頼るのだが、そこでも呂布は拒絶された。特に袁紹に至っては仕事をさせた後に暗殺までしようとしている。
この場合は袁紹による明確な裏切りと言ってもいいだろう。
次いで曹操が治める兗州での戦となるが、これも呂布が曹操を裏切ったわけではない。
彼は招かれただけだ。それでも誰かが裏切ったと言いたいのであれば、それは曹操だ。
彼が先に兗州の士大夫を裏切ったのである。
これについても語れば長くなるのだが、概要だけ述べよう。
当時兗州の士大夫が宦官閥の領袖になりつつあった曹操に求めたのは、まず長安との距離を詰めてもらい、彼らに課せられた『逆賊』という汚名を雪ぐことである。
にも拘わらず、彼は逆賊の代名詞であった青州黄巾党を迎え入れてしまった。
ただでさえ討伐対象の、それも先代の兗州刺史であった劉岱を殺した黄巾党。
さらに相次ぐ戦乱で物資がない中で一〇〇万人とも言われる難民を迎え入れるとは何事か。
結果だけ言えば、彼らは役に立った。
だがそれはあくまで結果論であり、なにより曹操が劉協を保護したからこそうまくいったのであって、この時点で見れば曹操の行いはギャンブルですらない。ただの暴走だ。
さらにその補填を求めて徐州に攻め込むというのだから、兗州の士大夫が切れるのは当然の話だろう。
そこで呂布を迎え入れた陳宮や張邈の判断は、個人的には高く評価されるべきだと思う。
なにせ呂布は漢の忠臣であり、一度も逆賊とされたことのない人物なのだから。
彼の下で戦い、反董卓連合の副盟主であり黄巾党を迎え入れた大逆の徒、曹操を討ち果たすことができれば、陳宮や張邈を始めとした兗州の士大夫たちは晴れて逆賊の汚名から解放されるのである。
結果は残念ながら敗北に終わったが、それでも漢の秩序を語る上で呂布が責められる謂れはない。
次に呂布が裏切ったとされるのは劉備だが、彼に関しては言うまでもない。
まず劉備は陶謙から州牧を引き継いだとされるが、州牧は世襲制でも無ければ前任者が勝手に決めるものでもない。あくまで帝によって信任された者がなるものだ。
翻って劉備はどうか。彼は勝手に徐州の主を騙っているだけだ。陶謙はどうだったかは知らないが、彼の息子が二人とも劉備に仕官しなかったことから、まともな継承ではなかったと思われる。
そもそも徐州の士大夫が劉備を迎え入れたのは、隣国の曹操や袁術に対抗するため耄碌した陶謙を廃し当時勢力を拡大していた公孫瓚との誼を結ぼうとしたが故である。
しかしながら、徐州に入った後の劉備は酷かった。公孫瓚が界橋で負けたため武威が衰えたこともあったが。それ以上に彼の最大の欠点である金銭感覚のなさと政治に対する無理解が徐州を圧迫したのだ。
気前がいい? 民に惜しみなく財をばらまく? あぁ、恩恵を受けるほうは良いだろう。
だが統治をする人間としては最悪だ。
そもそも備蓄とは役人たちが不当に蓄えているわけではない――そういう点も否定はしないが――何かあったときのために備えているのである。
劉備は陳羣などが何度も諫言してもそれに耳をかさず、袁術との戦や軍備に予算をつぎ込んでしまう。
これにより徐州の政は曹操による虐殺や袁術の侵攻も重なって崩壊寸前まで追い詰められた。
さらに悪いことに、劉備の悪癖である身贔屓が発動していた。そのため張飛らが調子に乗っており、士大夫たちからの評価を落としてしまっていた。
そうした積み重ねの結果、下邳の主将であった曹豹が劉備を見限り呂布に寝返ることになる。
劉備や張飛はこれを逆恨みしたらしいが、そもそも陶謙が死ぬ間際に奏上して豫州刺史となったが実権はなにもない名前だけの刺史でしかなかった劉備と違い、このときの呂布は劉協から直接『曹操との戦に励むように』と言われ徐州牧と平東将軍に任じられている。
(尤も呂布が徐州牧とされたのは一九五年から一九六年にかけてのことであり、劉備が徐州を継いだのは一九四年のことなので呂布が下邳を取ったのがこの前なのか後なのかは不明だが、少なくとも劉協は呂布が徐州を治めることを認めている)
このため、実は徐州を治める正統性は劉備よりも呂布の方が強いのである。
余談になるが徐州の士大夫たちも呂布が徐州の主を名乗った際に特に大きな抵抗をせず――劉備が本拠地としていた下邳を奪われても他で抵抗することはできる。実際に曹操のときは抵抗した者たちがいた――あっさりと呂布に従っていることから、劉備が麋竺や孫乾といった特定の士大夫以外の面々から見限られていたことがわかる。
この後、曹操を裏切って独立した劉備があっさりと徐州を見捨てて袁紹の下に逃げたことを考えれば、劉備もまた徐州の士大夫を信用していなかったことがわかるというものだろう。
つまるところ劉備を裏切ったのは曹豹以下徐州の士大夫であり、その彼らを裏切っていた劉備が呂布に対して裏切った云々を言える筋合いではないという見方もできるのだ。
加えて――これは意外に思われるかもしれないが――そもそも呂布が丁原と董卓を殺したことを公然と非難したのは、当時の人間では劉備だけだったりすることも忘れてはいけない。
事実、当時名家のまとめ役であった袁紹とて一度呂布を受け入れている。文官や武官に不足しているわけでもないのにも拘わらず、だ。もし呂布の素行に問題があったのであれば、袁紹を支える士大夫たちが反対したはずだが、それもない。
その後で呂布を除こうとしたのは呂布との諍いが発生したことと呂布の武威を恐れたが故であって、そこに丁原や董卓は関係ない。
袁紹の下から逃れた呂布は、河内の張楊に迎え入れられた後に陳宮らに奉じられる形で兗州に入るのだが、もし呂布が丁原や董卓を殺したことが儒教的に問題視されていたのであれば、当時名士として名を馳せていた張邈らが呂布に従うはずがない。
それは徐州の士大夫も同じだし、一度は呂布を受け入れなかった袁術でさえ、後に条件付きでの同盟を認めている。それも子供同士の婚姻という、同盟が成立していたら一門衆として扱うことを決めていたのだ。
曹操も呂布を捕らえた時に彼を殺すか生かすかで悩んだという。
これは当時の曹操に呂布を殺す理由がなかったからだ。
先述したように、呂布の立場は劉協に認められた正式な平東将軍であり、徐州牧だ。よって呂布が劉備を追い出して徐州を治めることに問題はない。このため劉備の復権を口実として徐州を攻めた曹操と徐州で迎え撃った呂布の諍いは、あくまで漢帝国内の権力争いでしかないのである。
故に、格付けが終わり、呂布が曹操に従うことを公言した時点で漢に仕える身である曹操には、同じく漢に仕える呂布を殺せなくなる。
曹操も、元々能力があれば誰であろうと受け入れると公言していた――正式に命令を出したのは後のことだが、当時から出自を問わず重用することを明言・実行していた――のも不味かった。
呂布は間違いなく武人として優秀なのだから、降伏した以上は使わないと己の言を覆すことになってしまうのだ。
まして名目上とはいえ彼らの上司、つまり帝である劉協は曹操よりも呂布を評価している。
故に劉協は呂布が言うような『軍を呂布が。政治を曹操が』という体制にすることに反対しないだろう。いや、むしろ諸手を上げて賛同したかもしれない。
なぜならこうした場合、劉協が『曹操を討て』と呂布に命じてしまえば、曹操の命運は尽きてしまうからだ。
そのことを知る曹操はどうやって呂布を殺すかで悩んだはずだ。
そこで曹操が利用したのが劉備だった。
呂布に恨みを持つ劉備は、間違いなく呂布を殺すよう提言するだろう。
非公認とはいえ、前の徐州の主にして豫州刺史でもあり属尽でもある劉備の言葉であれば受け入れても恥にはならないし、劉協に対する言い訳にもなる。
そうして曹操の横に立った劉備は曹操が求めた言葉を口にしてくれた。
それが『丁原と董卓を殺した不義の人』という、まともな人間であればこそ思い浮かばなかった一言だ。
普通に考えて『儒の教えに反したことを理由に処刑する』など、どう考えてもありえないことだが、呂布が降将であることや、戦の後で興奮していたであろう場の空気を利用した曹操の手腕が優れていたが故に、呂布はそのまま処刑されてしまった。
その後、劉備が劉協に気に入られ皇族として認められたことで、呂布の評価は『儒教的に不義の人』というものに固定されてしまう。
何のことはない。呂布を貶めたのは呂布に恨みを持つ劉備だったのだ。
その後三国志を編纂した陳寿は蜀の人間で元々劉備贔屓が強い人物であったし、なぜか反董卓連合に劉備が参戦していることになっているほどに劉備贔屓の三国志演義に至っては言わずもがな。呂布は董卓と一緒に劉備と民を苦しめる悪役にされてしまった。
このため後世に至るまで呂布の名誉が回復されることはなかった。
だが、元々劉備に何も求めていない俺からすればそれ自体が何の価値もない情報であり、評価である。
「それに、少なくとも現時点での彼が誰かを裏切っているわけでもないしな」
現在の呂布は、董卓と王允の間に挟まって苦悩した結果、李粛の言に従って逃げただけだ。
それが敵前逃亡と言えばその通りだし、両方を裏切ったと言えばそれも否定できないところだが、それもこれも『きちんと指示に従った』と考えれば悪いことではない。
少なくとも命令違反や独断専行、敵前逃亡に権力乱用を繰り返す劉備よりはよっぽど信用できる。
「呼び寄せるか。使い道は……長安の関係者が行くであろう益州には関わらせないほうがいいだろうな。ならば戦場は関東。それも対袁術の切り札と考えるべきか」
間違っても袁術や袁紹の下にはいかせない。兗州なんて以ての外だ。
せっかく曹操を現状維持のまま留めているのに、余計な波風を立てては意味がないからな。
「こんなものか。少し休んでから見直してみよう。それで問題がなければ司馬懿や荀攸の意見を聞いて、そこでも問題がなければそれから施行だ。……面倒なことこの上ないが、ここからは一手もしくじれん。まぁ、こっちにも天才がいるのが唯一の救いではあるがな」
歴史に名を残すような本物の天才と読み合えると自惚れることができるほど自分に自信がない俺は、あとでこちらが抱える本物の天才である荀攸や司馬懿をこき使うことを前提としたうえで、自分なりに纏めた内政・軍事・謀略・人事の書類を眺めつつ、ひとまず休憩をはさむことにするのであった。
シリーズはここでひとまず終了……かも
俺たちの戦いはこれからだ!
閲覧ありがとうございました
あ、心が折れそうな感想はいらないので、そっ閉じお願いします。
――
拙作の4巻が明日10月14日に発売となります。
よろしくお願いします。
あと前話のあとがきを修正しています。
書下ろしの『劉弁と李儒』の文字数は4000文字です。
なんだよ400文字って。逆に書けないよ。
お目汚しをいたしまして誠に申し訳ございませんでした。









