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23話。政変の裏で② 経済政策

経済の話。

あくまで作者個人の妄想です。

もちろん異議、異論は認めます。

「さて。次に行くか」


荀攸の説得に成功したことによって物理的なリストラを行うことが可能になった。


これにより人件費の削減に一定の成果が見込めるようになったものの、この時代は後漢末期の世紀末。大陸全土が無法の荒野と化し、破落戸共が蔓延るようになる戦国乱世一歩手前の時代である。


史実はどうだったかはしらないが、現在俺が主導する長安陣営が採った方策は、敢えて群雄を割拠させることで各々の群雄に地方の開発を行わせて総合的な国力を高めるという方策だ。


基本的に中央集権国家は地方で力を付けた勢力によって権力を簒奪されることを警戒しているため、地方の発展を望まない傾向にある。これを警戒のし過ぎという声もあるかもしれない。


だが、地方が力を付けることの危険性は歴史が証明している。


具体的には、殷が西域を発端とする周に取って代わられたことであり。

その周が同じく西から興った秦にとって代わられたことであり。

そして秦が巴蜀から勢力を拡張した漢に(実際は漢に取り込まれる前に項羽が率いる楚の軍勢によって半ば滅んでいたが)取り込まれたことである。

また後漢を興した光武帝も、最初は南陽で挙兵しているが後に河北に渡りそこで地力を蓄えてから挙兵して大陸の統一に成功しているのをみれば、地方に力を付けさせることの危険性がどれほどのものなのかがわかるだろう。


しかし今回長安陣営はその危険性を理解しつつ、敢えてそれを選択した。


何故か。それ以外に採れる方策がなかったからだ。


こんな話がある。


ある時。長安に遷都してから間もないころに袁紹らの息が掛かった儒家などが、王允や董卓に対して『地方の群雄に正式な官位を与えることで恩を着せればいい』だの『官位を受け取った以上は漢の被官となるのだから部下として使えばいい』だのと言った尤もらしい献策をしたことがあった。


儒家として中途半端な見識しかもたない王允はそれらの意見に「尤もな話だ」と頷きかけたのだが、()()劉邦と張良の逸話を知っていた董卓が「で、そいつらが裏切ったら誰が責任を取るんだ? お前か?」と責任の所在を確認したところ、彼らは一斉に黙り込んだ。


連中のあまりの無責任さに怒った董卓が、献策した者たちを指し『この豎儒共は袁紹に利する献策をした逆賊である』と断定して首を刎ねたという、史実を知れば全然笑えない逸話があったりする。


このように遷都してから間もない時期の長安陣営は、明らかに不自然かつ無理があるような献策でさえも通りそうになる程度には混乱していたのだ。


尤も、この献策については袁紹らの思惑や王允の無能さ以外の思惑もある。それは司空である楊彪に『地方にいる袁術の力が増してくれるのは良いことだ』という思惑があったことだ。


こういった思惑があったからこそ楊彪は、儒家が王允や董卓に献策をするよう人知れず働きかけていた。(事実、上記の献策した者たちはあくまで自分の意見として献策しており、どれだけ尋問しても楊彪の名前は出てこなかった)


「随分と手の込んだ……いや、これこそが名家の真骨頂ってやつか」


俺としても楊脩はともかく楊彪は仕留めておきたかったのだが、なんともうまくいかないものである。


「一番リストラしたいやつをリストラできなかったのは無念ではあるが、それでも一歩は前進した」


一歩でも前進は前進。そう思わなければやっていられないという思いもないわけではないが、残念ながら今の俺には逃がした魚の大きさを嘆いている余裕はない。


元々俺たちが真っ先にやらなければならないことは、名家の排除だけではない。

優先すべきは経済政策である。


王允一派を物理的にリストラしたのもそうだ。獅子身中の虫の排除と同時に人件費の削減をするという意図があったのは確かだが、あれにはそれ以外にも、連中を極刑とすることで連中が洛陽から持ち込んだ資財と、長安で燻っていた連中の持っていた資財を回収するという意図があったのだ。


罪悪感? ない。 

なにせ連中が貯め込んでいた財は元が不当なやり方で貯め込んでいた財だからな。


で、その回収した資財を使って行う経済政策が、治水工事や開墾などの内政事業となる。


戦略ゲームが好きな人間であれば『そういうのはまず攻めて領地を広げてから』というかもしれないが、何度もいうように現状長安陣営は人材の関係上これ以上領地を広げてもまともに管理できないし、なによりこのまま政をおろそかにした場合、ただでさえ大ダメージを負っている漢という国を根幹から崩壊させる大事件に発展してしまう。


そのことを知っている以上、俺は領地の拡張よりも先に政、特に経済政策に注力しなくてはならないと判断したのだ。


ではその『漢を根幹から崩壊させる大事件』とは何か?

 

平たく言えばハイパーインフレによって経済概念が崩壊することだ。


当然のことながら、この時代は経済という概念が非常に未熟な時代である。

しかしながら、未熟とは存在しないというわけではない。


事実何進はこのあやふやな概念を正しく理解し、物流を握ることで経済を手中に収めていた。

つまり、漠然としたものではあるが、確かに存在するものなのだ。


そして『存在するもの』が崩壊した場合、漢は致命的な打撃を受ける。その後に待っているのは大陸全土を巻き込んだ経済的大混乱だ。


史実に於いてこの経済的大混乱は、曹操が魏国を興してからようやく解決するために着手したものの解決することはできず、曹操の後を継いだ曹丕が皇帝となって新たな貨幣を鋳造をするまで大よそ三〇年近く続いたと言われている。


この経済的大混乱を招いた要因として一般に広く知られているのが【董卓五銖銭】である。


董卓五銖銭はこれまで漢で流通していた五銖銭に比べて、銅の比率が少ない。厚みが薄い。中央の穴が大きい。文字がかすれている。と言った様々な問題があった貨幣である。


これが出来た背景として、当時漢に於ける主要な銅の排出地であったのは益州と荊州の江夏郡なのだが、益州を治めていた劉焉も、荊州を治めていた劉表も反董卓の動きを見せていたため、長安では鋳造に必要な銅を集めることができなかった。そのため董卓は使用する銅の量を減らして銭を鋳造するよう命じたという。


これが、あまりに粗悪な造りだったために、ただでさえ経済に対する概念が薄い民衆たちの持つ銭に対する信用を著しく下げた悪銭と名高い【董卓五銖銭】が世に生み出された経緯とされている。


しかしこの話はいくつか疑問がある。


まず基本にして最大の疑問。時系列の問題だ。

董卓が何進の跡を継いだのが西暦にして一八九年の秋から冬にかけてのこと。

次いで袁紹を盟主とした反董卓連合が結成されたのが一九〇年の一月。

劉協が長安に移ったのが同年の二月で、董卓が長安に移ったのが同年の三月とされている。(軍勢の移動や結集、人員の移動を考えるとこの時点で色々おかしいが、今は割愛する)

三月から冬にかけて、反董卓連合は各所で董卓軍に敗退した。

情勢が変わったのは一九一年に入ってから。具体的には孫堅が陽人にて呂布と胡軫が率いる軍勢を打ち破ったり、華雄などの勇将を討ち取るといった快進撃を見せてからだ。


こうなってから董卓は洛陽を捨てて長安へと移ったとされている。(一九〇の二~三月に移ったんじゃないのか?)

それから少しして、孫堅以外の反董卓連合も洛陽に入り、半年ほどグダグダしてから解散。

この間、長安に撤退した董卓は郿に城塞を築きそこを拠点として軍務を行った。

そして一九二年の四月に王允の命を受けた呂布の手によって討たれている。


おわかりだろうか。


つまるところ董卓が相国として政に口を出すことができるようになったのは、早くても一九一年の中頃から後半で、その後はわずか半年足らずで死んでいるのだ。


当たり前の話だが、この短い期間で銅銭を大量に鋳造させることも、その銭を大陸中に流通させることも不可能である。(造ることだけはできるかもしれないが)


そもそも経済に対する見識がなかった董卓がいきなり貨幣を鋳造させる命令を出すこと自体おかしなことだ。よってこの五銖銭自体、本当に董卓が造らせたのかどうかさえ怪しいものである。


まして誰がみても悪銭とわかっているのだ。わざわざ董卓の死後になってから流通させるのではなく、流通量が少ないうちに回収して鋳潰し、新たな銭を造り直せばそれで済む話ではないか。


それらをしなかったのは何故か?


穿った見方をすれば、当時の政を預かっていた連中が自分の考えで銅を少なくした銭を造り、結果的に大失敗したのを受けてその責任の全てを董卓に押し付けようとしたのではないかとさえ思えてしまう。


「まぁ誰がこれ造って流通させたかはさておくとして、事実としてハイパーインフレは起きた。それも董卓五銖銭が流通してからな」


故に俺は最終的に漢の経済に止めを刺したのが董卓五銖銭であることは否定しないが、それ以前にこの国にはハイパーインフレが発生する要因があったと見ている。


つまり『董卓五銖銭を作らなければインフレは起きない』と考えるのは誤りで、他にも対処をしなければならない事柄があるということだ。


そのいくつかある要因のうち直近で起こるであろう事柄の一つが、それなりに三国志を知る者であれば誰もが聞いたことがある有名な飢饉の一つにして、後漢末期に於けるハイパーインフレが発生した大きな要因でもある飢饉。三輔飢饉だ。


「そもそもこの時代の貨幣の価値は、二十一世紀とは違い、金や銀と交換できるか否かではなく、食料と交換できるか否かによって決まる」


銭で嗜好品を賄う士大夫層にとっては違うかもしれないが、実際に銭を使う民にとって、どのような銭であっても食料と交換できればそれでいい。逆に、食料と交換できなければ銭の意味がないのだ。


それを踏まえた上で、これから中原を襲う飢饉は大きく分けて2つ。


「一つは司隷と兗州を中心に発生した蝗害による飢饉。もう一つが三輔飢饉だ」


この二つの飢饉により、中原では『銭があっても食料が買えない状態』となってしまい、民の中にあった銭に対する信用が完全に消失したのである。その結果『一石の穀物が数十万銭』というハイパーインフレが発生してしまう。


「よってこれから引き起こされるであろうハイパーインフレを防ぐ方法は大きく分けて二つ」


一つは食料の生産量を向上させること。


「これについてはもうやっているから問題ない」


色々と、そう、色々とやっているのだ。


で、もう一つは飢饉を起こさないことである。


「これがな。とくに重要なのは首都である長安を含む三輔飢饉への対処だ」


三輔飢饉はその名の通り、京兆尹・右扶風・左馮翊の三輔地域を中心として発生した飢饉である。長安を首都とし、長安に居を構えた以上、ここで飢饉を起こしては劉弁の威信に傷がつく。


「故に長安陣営を主導する立場である俺としてはこの飢饉への対処を最優先する必要がある。あるんだが……できることはもうやっているんだよなぁ」


『飢饉とは通常旱魃や洪水といった天災が原因で発生するものだから対処をするなんて不可能』などと思われがちだが、端的に言えばそれは誤りである。


なぜか。それはこの時代、飢饉によって生じる被害の七割が人災によるものだからだ。


なぜ飢饉が人災になるのか? と言えば、これにもいくつか理由があるのだが、最大の理由として挙げられるのがこれまで散々言ってきた中抜きのせいである。


例えば涼州で一〇〇の物資が必要な飢饉があったとしよう。

この場合、まず洛陽で一〇〇の物資が集められる。

次に、洛陽を出るときに五〇になる。

道中で三〇になる。

涼州と洛陽を繋ぐ都市である長安に入って二〇になる。

長安から出るころには一〇になる。

最終的に涼州について五になっている。


運が良ければ一〇届くこともあるが、これがこの時代の漢では当たり前のことであった。


このように、洛陽の名家や宦官たちにとって地方で発生した飢饉など、自分の懐を潤しつつ皇帝に『徳が足りない』と言って自分たちの縁者を潤す公共事業を強要するためのイベントでしかないのである。


政治の中枢でこんな考えが横行していたために、この時代に於ける飢饉とは、その始まりこそ旱魃などの天災を起因とするものの、被害の七割が人災によって齎される災害と言えるのだ。


ではこれを抑えるためにどうすればよいか。


「簡単だ。中抜きする人間を減らせばいい」


関わる人間が減ればそれだけ中抜きされる量も減る。実に簡単な対処法である。


これによって一〇〇必要な場所に一〇〇……とまでは言わないが八〇程度でも届くようになれば、それだけで被害を減らすことができる。


これだけでもかなりの改善に見えるだろうが、三輔飢饉において人間が取れる手段は他にもある。


なぜならこの三輔飢饉は天災による飢饉ではなく、最初の原因からして人によって引き起こされたものだからだ。


三輔飢饉が発生することになった要因。

それは、遷都によって洛陽から三輔地域に流入した六〇万とも言われる移民の存在だ。


「元々なんの備えもしていなかったところに突如として六〇万もの移民が流入すれば、そりゃ飢饉にもなるわな」


極々当たり前の話である。


とはいえ、これも本来であれば避けられたはずの事であった。


なにせ史実に於いて遷都を主導し、反董卓連合との戦の中で完遂してみせたのは、当時涼州の一軍人に過ぎなかった董卓を相国にまで押し上げた辣腕の軍師、李儒である。


政治的にも軍事的にも秀でた視野を持つ彼が『遷都しました。でも洛陽からきた人間のことなんて知りません』などと、後になれば確実に己の首を絞めるであろう事柄を放置するだろうか? 


「否、ありえん」


故に李儒は何かしらの腹案を用意していたはずなのだ。


事実、董卓が殺された後に呂布を破って長安から追い出し、王允を討ち取って長安を支配することになった李傕と郭汜は、自分が統治をおこなうのではなく、李儒を推挙して政治を任せようとしていた。


「だが彼らの計画を無にした阿呆がいる」


当時十一歳の絶対権力者、劉協だ。


劉協は李儒に対し『兄を殺された恨み』を抱いていたために、李儒を重用するどころか粛清しようとさえしたのである。


粛清自体は李傕と郭汜をはじめとする面々による取り成しがあったため撤回されたが、この件によって李儒は隠棲し、表舞台から姿を消すこととなった。


もちろん劉協が、仲の良かった異母兄である劉弁を殺した李儒に恨みを抱く感情は理解できる。


だがそれを『董卓の命令で仕方なくやったことだ』と理解し、許したのであれば、劉協は李儒を登用すべきであった。


それが出来なかったが故に、ただでさえ李傕らの手によって王允に近しかった士大夫が殺され、文官がその数を減らしていた中、李儒に従っていた文官たちも劉協から距離を置くことになってしまったのである。


これでは通常の業務ですら滞ってしまうのは当然で。洛陽から流入してきた六〇万の民をどうこうするどころの話ではない。


結果として政治に疎い涼州軍閥の面々はもとより、劉協の傍にいた董承らでさえも何も対処することができず、六〇万の消費者は消費者のまま放置されてしまった。


これにより遷都によって洛陽から持ち出され、董卓が回収して蓄えていた潤沢な物資が一方的に放出されるだけの状態になってしまう。


それからおおよそ二年後。蓄えていた物資が尽きたが故に、彼らが流入した三輔地域で飢饉が発生してしまった。


三国志好きが一度は思う『董卓が郿に蓄えていた三〇年籠城できる物資は何処に行ったんだ?』という疑問。その答えがこの『無意味に流出し、浪費された』である。


「何もしなくても数年持ったというだけで洛陽に蓄えられていた財がどれほど膨大だったのかを物語っているがな」


数年持ったが故に三輔飢饉の理由に洛陽からの移民を紐付けられなくなったともいえるが、それはそれ。因果関係さえ理解していれば話は簡単だ。


「洛陽の人口六〇万のうち二〇万は弘農で受け入れた。残りの四〇万のうち、二〇万は軍人の関係者で各地に散らした。残る二〇万のうち一〇万は長安周辺の開発に回し、残る一〇万は涼州で開墾作業に当たらせる。そのために前々から羌や胡を利用して世紀末式有機農法を実践してきたしな。あぁそうだ。今回の四万も良い肥料になってくれるだろうから、しっかり散らすように大将軍閣下に指示を出さないといかんか」


飢饉が来るとわかっているなら備える。

飢饉の原因がわかっているなら排除する。


この程度のリスクマネジメントは、現代社会を生きてきた社畜にとっては極々当たり前の話だ。


「……なにもしなくても肥料が向こうから来てくれるとは、な。なんとも良い時代になったものよ」

経済の話は真面目に語るとそれだけで数万字になってしまうので、かなり要約しております。

物足りないとか、解釈が足りないと思われましたら、ぜひ作者に代わって執筆お願いします



――


世紀末式有機農法。

北〇の拳参照。放置してはいけません。きちんと一手間を加えることで良質な肥料となります。

董卓たちが主人公を恐れる理由の一つ。

そういえば曹操も徐州でやりましたね。


――


作者が考える後漢末期のハイパーインフレの要因。


一。戦乱が長引いていること。


移動。生産。加工。の諸経費がアップ。当然物価も高くなります。


二。董卓が殺されたことによって政権の屋台骨を支えていた国家暴力の脅威が消失したうえ、それを行った王允らも殺されたことによる政治的な信用の失墜。


貨幣を製造している中央がゴタゴタしてたら信用なんかないですよね。


三。三輔飢饉。

遷都にともない洛陽から移動してきた六〇万の民に対する手当てができていなかったことに端を発する人災。感情に任せて遷都を主導した李儒を罷免した劉協のミス?


劉協はよくこういうミスをしますね。


四。中原を中心として蝗害が発生したこと。

これにより銭で食料が買えなくなりました。一石五十万銭の値がついたというのは有名な話。


五。董卓五銖銭

商人からも嫌われた悪貨。私鋳銭の方がマシとさえ言われたとか。


他にもいろいろありますが、大まかにこれらの理由――特に『銭があっても食料と交換できない』という事実を民に印象付けてしまったこと――により銭の信用が失墜したんじゃないかなぁと考えております。


閲覧ありがとうございました。



「頭空っぽにして読める」と評判の異世界アール奮闘記もよろしくお願いします。

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