18話。長安の政変①
『呂布の失脚。李粛によって并州勢が掌握された』
并州勢に紛れ込ませていた配下から伝えられたこの一報は、自前の武力を持たない王允にとって死活問題に直結する一大事であると同時に、自分たちが企てた策が失敗――それも李粛という小物によって――することなど想像もしていなかった彼らの陣営にとって、完全に青天の霹靂ともいえる出来事であった。
そして、策が破れた老人を脅かす雷鳴は一度では終わらない。
長安・司徒府・執務室。
「羌の連中が金城から動かぬ、だと? 何故だ!?」
突如として韓遂から送られてきた早馬から齎されたのは彼らが立てた『一定の距離を保ちつつ動き回り董卓を引きずり回す』という策を根底から覆す内容であった。
「詳しくはこちらに」
「さっさと見せろ!」
「……はっ!」
「うむ…………はぁ?」
使者の手前少しでも余裕をもって見せようとしていた王允だったが、その余裕は長くは続かなかった。
「今更かっ!」
王允はそう叫び声を上げながら、読んだ書状を床へと叩きつける。
どう見ても今の王允に漢帝国の重鎮たる司徒としての余裕があるようには見えないが、今回に限って言えば使者として送られてきた者も、王允の側近として傍に仕えている者たちも、彼の態度を諫めようとは思わなかった。
なにせ韓遂が送ってきた書状に書かれていた内容とは、要約すれば『仇敵を前にして一定の距離を置くなどという戦略的行動がとれるほど羌や胡の者たちは理知的ではなかった』というものであったからだ。
「……えぇい! これだから蛮族どもはっ! それに韓遂も韓遂よ! 連中の気質など最初から分かっていたことだろうが! 何故今までこのようなことに気付かなかったのだ!」
自分も気付かなかったことは完全に棚に上げ、ただひたすらに韓遂に対して怒りを向ける王允。
とはいえ、今回の件に関しては完全に実働部隊である羌族らとの意思疎通を怠ってきた韓遂の落ち度であるため、王允が抱いた怒りを不当な怒りと言い切れないのがせめてもの救いだろうか。
尤も、企画・立案の段階であれ、ただでさえ浅い見識と謀才しか持たぬ王允や、漢の階級制度に染まり切った劉焉が、涼州人であり現場を監督する立場でしかない韓遂から『それは無理だ』と自分たちの策を否定するようなことを言われた際、素直にその意見を受け入れて策の練り直しをするかどうかはまったく別の話であるが、それはそれである。
ましてー周囲からの評価はさておくとしてもー己のことを『自分は宦官どもや名家の者たちとは違い、人の話を聞くことができる人間である』と認識している王允からすれば、蛮族との繋がりしか取り柄がないにもかかわらず計画の最終段階になってからこのような報告をしてくる韓遂に対し、怒り以外の感情を持ちようがなかった。
(くそっ。くそっ。どいつもこいつも!)
何故司徒たる自分に従わないのか。
何故正当なる漢の支配者に逆らうのか。
もともと相手は漢帝国に弓を弾き続けてきた連中なのだが、今の王允にはそのような事実は関係ない。あるのは自分に従わない愚か者どもをどう罰するか? という思いだけだ。
(あと一歩というところで何故邪魔をする!)
もともと王允が立てた計画は、董卓を郿から誘い出し、空になった郿を呂布に占拠させ、董卓への補給を断って軍全体を弱らせつつ、韓遂らと挟撃して董卓を滅ぼす。その後は、大将軍という武力の後ろ盾を失った弘農へと兵を進め、策士気取りの若造を討ち、帝を奪還する予定であった。
だがその完璧な策は、李粛の裏切りと蛮族を御せなかった韓遂の無能によって水泡に帰した。
しかし、まだ全てが終わったわけではない。
「……で? 当然勝てるのだろうな?」
蛮族の矜持など心底どうでも良いと考えている王允にとって、現時点で最も重要な事柄は『自分の命令に逆らった愚か者どもが、董卓と戦って勝てるか否か』ということだけだ。
なにせ王允が現状で最大の脅威と見做しているのは、無能な皇帝でもなければ皇帝に隠れて政を壟断しようとしている策士気取りの若造ではない。大将軍として官軍を指揮する権限を持つ董卓の存在なのだから。
そう、王允はこの期に及んでも尚『董卓さえ殺せばすべての帳尻を合わせることができる』と考えていたのである。
(蛮族が勝てればそれはそれで良し。そのまま裏切り者の李粛を滅ぼして郿に蓄えられている資財を奪いつつ、長安で益州から北上してくる劉焉様の軍勢と合流し、弘農に篭る策士気取りを討伐する。その後、策士気取りの傀儡と化している陛下に己の立場と現状を理解させ、劉焉様に帝位を禅譲させれば、今も地方で騒いでいる連中も鎮まろう。もし劉焉様が帝位を継いだ後でも騒ぐようなら、その際は逆賊として討伐すればよい。これで漢は再興する。その最大の功労者は、この儂だっ!)
―――
蛮族は皇帝に逆らわないし、諸侯も皇帝には逆らわない。
今も関東で反董卓連合に参画した諸侯が騒いでいるのは、下賤の血を引く劉弁が帝であることに対する反発と、後見人である董卓や策士気取りに対する反発なのだから、董卓とは関係がないうえに成人している劉焉が皇帝となれば彼らの口実は消滅する。
新たな皇帝に逆賊と罵られたくなければおとなしく膝を折るしかない。
同格である三公の楊彪は何もしていない。
自分こそが漢を再興した功臣として史に名を残すのだ!
―――
と、まぁ董卓らが聞けば「は?」と阿呆面を晒すような妄想だが、王允の中ではここまでが既定路線であり、こうなることこそが正しい未来であった。
あるべき姿が実現するまであと一歩のことろまで来ているのだ。王允とてその『一歩』を決定付ける絶対条件が『韓遂らが董卓に勝つこと』だということも理解をしている。
だからこそ、というべきだろうか。
(董卓に勝てるのであれば金城だろうと郿だろうと好きな場所で戦うがいい。漢が再興した暁には蛮族連中にもしっかりと己の立場を理解させてやるが、な)
妄想に一区切りをつけある種の開き直りを見せる王允であったが、質問を受けた使者の返答は彼が望むものではなかった。
「……おそらくは勝てないかと」
「なにぃっ!?」
精いっぱい取り繕っていた(と王允本人は思っている)仮面が剥がれる。
「命令に違反することが許されるのは、命令に違反した結果その行動が多大な武功を挙げる可能性があり、その武功と相殺することが前提になるからだ! 韓遂はそんなことすら理解しておらんのかっ!」
勝てるかどうかわからない。ならまだわかる。なにせ董卓が率いるのが漢帝国の精鋭である官軍なのに対し、韓遂が率いるのは蛮族だ。王允とて韓遂の立場ならば弱音の一つもつくかもしれない。
勝つために必要なことと判断したというのであれば、現場の判断として自分が出した命令に逆らうことも認めなくはない。
だが、命令に逆らっておきながら『勝てない』とはどういうことか。それならば黙って命令通り一定の距離をとって引き付け、時間を稼げば良いではないか。
そうすれば勝つことはできなくとも負けぬことはできる。
董卓とて四万の蛮族を野放しにはできないのだ。で、あれば董卓が不在の間に益州勢を長安に入れ、孤立した郿を叩き後方を遮断する。その後は元の計画通りに動けば良いだけなのに、何故わざわざ命令に逆らってまで全てを台無しにするような真似をするのか。
「そ、それは書状に書かれていたように……」
「蛮族どもの矜持による暴走が抑えられぬ? 貴様らの怠慢ではないかっ! だいたい、確たる勝算もなく命令に従わぬ者を何故生かしておくのだ!? 己一人が死ぬだけならまだしも、他者を巻き込んで死ぬような愚か者など見せしめに殺してしまえばよかろう!」
命令違反をした阿呆が一人で死ぬというのであれば、韓遂ら阿呆だけならば王允とてここまで文句は言わない。しかしながら、今回引き起こされた暴走に巻き込まれるのは韓遂らだけではないのだ。自分や劉焉の大望。即ち、漢帝国の命運までもが蛮族の暴走によって閉ざされてしまうのである。
そのような愚行、漢の忠臣にして最大の功臣に許容できるはずもなし。
さらに言えば、確たる勝算もなく、ただの意地で軍令に逆らう者など生かしておく価値がない。故に上位者である王允が『そんな阿呆は殺してしまえ』というのは当たり前と言えば当たり前の話である。
「……殺せませぬ」
「あぁ?」
だが、王允は勘違いをしている。
「彼らは漢に従っているのではなく、あくまで今回の義挙に賛同した協力者でしかありません」
「……」
「ただでさえ同格と考えているのです。その中で自分の氏族の人間を見せしめに殺されたら? そのようなことをした場合、報復に走ることはあっても従うことなどありませぬ」
「ちっ。蛮族風情がつけあがりおってっ!」
(その蛮族の働きがなければ何もできなかったくせに)
王允が吠えるも、使者は小動もせずに冷たい目を向けるだけであった。
すでに使者にさえも見切りをつけられていた王允。
そんな彼の身に、更なる雷が降り注ぐ。
『通らせてもらう!』
『お、お待ちください!』
決して狭くはない司徒府。その最奥にある執務室にまで喧噪が響く。
(聞くに無理やり中に入ろうとする無頼者を司徒府の人間が抑えているのだろうが、一体何事だ!)
「静まれぃ! ここを何処と心得ておるっ!」
使者との会話に苛々していた王允は、その鬱憤を晴らす意味も込めて外で騒ぐ連中に聞こえるよう大きな声を挙げた。
――これが王允にとって命とりとなった。もしもこのとき声を挙げずに逃げていれば、彼はもう少し長生きできたかもしれない。だが時すでに遅し。
「おぉ。ここにいらっしゃいましたか」
王允の声に反応したのだろう。煌びやかな鎧を着こんだ数人の武官がドカドカと音を立てて執務室へと入ってきた。官軍に詳しいものならその鎧だけで所属を理解しただろう。しかし、純粋な武官ではない王允には鎧だけでその所属を理解することはできなかった。ただ、所属がわからなくとも官軍は官軍である。
(多少の身分があろうとも所詮は武官。一介の武官ごときが司徒たる自分に何ができるわけでもなし)
そう判断した王允は、無遠慮な乱入者を前にしても尚慌てることなく問いかけをしてしまう。
「……貴様ら、何者だ? 儂を司徒、王允と知ってのことか?」
「無論、存じ上げておりますとも」
「……で?」
何者か? の問いに答えない武官にイラつきを覚えたものの、彼らが纏う剣呑な雰囲気を察した王允は無言で先を促す。……王允がその仮初の威厳を保っていられたのはここまでであった。
「逆賊王允。勅命により捕縛する。逃走も自害も許さぬ。無論、ほう助した者も逆賊として処分する」
「なん……だとっ!? 貴様ら、一体なんのつも……「黙れ逆賊」……ぐっ!」
宣告と同時に王允は数人の武官によってその体を押さえつけられた。
権力はあれども所詮は50を超えた老人でしかない王允に、武官に抵抗できるだけの個の武力があるはずもない。結局王允は無抵抗で(本人的には必死で抵抗していたが)捕縛されることとなった。
――王允を捕縛した屈強な武官たち。彼らが装備していた煌びやかな鎧が示す所属先は『羽林』という。彼らはかつて宮中に侵犯し、洛中に混乱を引き起こした袁紹らが就いていた『虎賁』と同じく、皇帝直轄の軍勢にして、光禄勲によって直卒される精鋭部隊である。
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