16話。西涼動乱④
「逃げる?」
「そうだ」
「何故?」
「それが一番確実だからだよ」
「確実?」
前に進むことも後ろに退くこともできないけどどうしよう? という呂布の問いに対して、李粛は全てを投げ出して横道に飛び込めばいいじゃない。と、常識に囚われない発想を披露する。
その聡明な頭脳で、親友である呂布の相談に応じつつ、主である董卓の意に反しないような解決策を導き出した李粛は、呂布を興奮させないよう、努めて当たり前のような態度で言葉を重ねる。
「考えてもみろ。今のお前さんじゃ大将に敵対したってどう転んでも勝てねぇだろ?」
「……あぁ」
呂布とて自分がそれなりの武将であることは自覚している。だが、さすがの呂布でも、精強極まりない董卓軍と戦って勝てるとは思ってはいない。
そもそも呂布が率いている并州勢は董卓からの預かり物なのだ。もし何の大義も名分もなく『董卓と袂を分かつ』などと言って董卓と敵対してしまえば、後ろから矢を射たれることになることは明白。
前も敵、後ろも敵。そんな状況で勝てるほど戦というものは甘くはないのだ。
「で、負けたら王允ごとお前さんやお前さんの妻子も大将に殺されることになるだろ?」
「……そうだな」
戦に負けた後はどうなるか? 想像するまでもない。
殺されるか、殺されるより恐ろしい目に遭わされるだけ。
それも自分だけでなく、妻子まで、だ。
(万が一俺が董卓に勝つ可能性があるとすれば、騙し討ちからの暗殺くらいか?)
元々董卓という人間は簡単に暗殺できるような人間ではない。その上、最近は方々から暗殺の可能性を示唆されていることもあって、その警戒心は極めて高く、ただでさえ高い難易度がさらに上がってしまっている。
(機会を挙げるとすれば、なにかしらの勅命を帯びて宮城に参内したときくらいだろう。だが……)
武器を持てず兵も同伴できない宮中ならばなんとかなる可能性はあると思う。しかし、当然のことながら今の呂布にはその手は使えない。というか、呂布としてはそこまでして董卓を殺したいわけではない。
彼はあくまで自分と妻子の命を助けたいだけなのだ。
そうである以上、負けるとわかっていながら董卓と敵対することはできない。
「かと言って王允と表立って敵対すれば人質となっている妻子が殺されるってんだろ?」
「……あぁ」
董卓と敵対しないと言うのならば王允を討つしかないのだが、王允の手元には妻子という人質がいる。
(あの妄執に囚われた王允のことだ。俺が奴に逆らったと判断したら、容赦なく人質を殺すはず。いや、生かして苦痛を与え続けるだろうな)
怒り狂った呂布がどう動くかを考えれば、王允も人質である彼の妻子を殺すような真似は控えるかもしれない。だが、殺さずとも苦痛や屈辱を与えることは可能である。そしてそれは弘農にいる外道の専売特許ではない。というか、むしろ権力に囚われた老害の常套手段とも言える手なのだ。
(くそっ王允め! 必ず後悔させてやるぞっ!)
――自分も妻子も生き延びる。
当たり前の欲求であるが、その当たり前のことすら不可能な状況に追い込まれたことを再認識した呂布は、血が滲むほどの強さで奥歯を噛み締めながら、長安にいる老害へと殺意を飛ばす。
「まぁ落ち着け。……って言っても無理かもしれんけど、とりあえず俺の話は聞いておけ」
だが、李粛の考えは違う。彼のその明晰な頭脳は、呂布が不可能と考え、諦めていたことが実現可能だと判断していた。
「いいか? 大将がお前さんやお前さんの妻や娘を殺す場合ってのは、お前さんが大将に矛を向けた場合だ」
「……あぁ」
明確に謀反を起した者ならば養子だろうがなんだろうが殺されて当然のことだ。しかし逆に言えば、それをしない限りは殺されないということでもある。
本来の董卓はそこまで甘い人間ではないのだが、今回に関しては元から事情を理解していることもあるのだから、酌量の余地はあると李粛は考えていたし、董卓としても明確に反抗しない限りは呂布を討つつもりはなかった。
まぁ、騒動の大元である紅昌は殺されることが確定しているが、それくらいだろう。
「で、王允がお前さんの妻や娘を殺す、もしくは危害を加える場合ってのは、お前さんが死ぬか表立って王允の命令に背いた場合になる」
「そうだろうな」
見せしめという意味もあるだろうが、それ以上に名誉欲に溺れた老害による感情の発露という形になるだろう。
(老人の妄執に巻き込まれてしまった妻や娘がどうなるか)
考えるだけで呂布の全身から周囲を圧迫するかのような殺意がこみ上げてくる。
「だから落ち着け。そうならねぇように逃げるんだからよ」
「……そうだったな。すまん」
これまでの李粛の言葉はあくまで現状の確認でしかないことを思い出した呂布は、李粛が述べた言葉の真意を聞くべく、自身を落ち着かせる。
そんな呂布を見て「下手に引っ張ると暴発する」と判断した李粛は、さっさと結論を伝えることにした。
「つまるところ王允は、お前さんが生きていて、かつ野郎の味方になる可能性がある限り人質には手は出さない。っていうか手を出せないってことになるわけだ」
「む?」
「で、大将もお前さんが忠実な部下になる可能性があるってんなら、明確に自分に逆らわねぇ限りはお前さんを殺さねぇ」
「……そうなのか?」
「まぁな」
古今東西を問わず敵前逃亡者に与える刑罰とは、死刑一択である。
それはある意味で一般常識ではあるのだが、今回の場合は少しばかり状況が違うと李粛は言う。
「そもそもお前さんが逃げる『敵』は、漢の軍権を握る大将軍・董卓その人だぞ? つまり今回に限り、お前さんの逃避行動は敵前逃亡という扱いではなく、司徒・王允が主導する謀反への不参加表明って解釈できるだろ?」
「あぁ。そうなる……のか?」
「なるんだよ」
解釈のしようによりけりではあるが、決して無理筋ではない。
「で、今のお前さんの立場ってのは『王允を通じて勅を受けたが、養父である董卓を裏切ることはできない。かといって勅に逆らうわけにもいかない』って葛藤している感じだな」
「いや、勅については……「細けぇことは気にすんな」……む?」
勅が偽物だとわかっているんじゃないか?
そう伝えようとする呂布だが、李粛は一切取り合わずに話を進める。
「で、動きが取れなくなったお前さんは、親友である俺に相談した」
「……まぁ。そうだな」
そこは事実なので、異論は挟まない。
「で、親友から相談を受けた俺は、即座にその勅を偽物と判断する」
「ふむ」
実際、今の王允は弘農にいる劉弁から勅を受ける立場にない。よって李粛の判断を『現場で勝手に決めるな!』と咎める者は王允以外にいない。
「で、勅を偽物と判断した俺は、お前さんの家族の安全よりも大将の安全を優先して、お前さんに預けていた并州勢の軍権を取り戻すことを決意する。ようするにお前さんを罷免するわけだ」
「ほほう」
なんとなく李粛が伝えようとしている内容を理解しつつある呂布は、先程まで見せていた怒りや焦りを収めつつ先を促すと、李粛はそんな呂布の反応を見て満足げに頷いて言葉を紡ぐ。
「で、俺は罷免したお前さんが変なことをしないよう身柄を拘束しようとするも、お前さんは抵抗して逃げ出してしまうって寸法だな」
「なるほど」
「この場合、王允からすればお前さんは、并州勢の抱え込みに失敗したものの、大将から敵と認定された武将ってことになる。あとは……わかるな?」
「あぁ」
呂布が王允に反抗したのではない。あくまで策が露呈してしまい失敗してしまったのだ。同時に、呂布がその軍権を奪われるということは、王允が呂布に託した『秘策』が董卓陣営に露呈したということでもある。
当然王允としては呂布を「使えない!」と詰るだろう。
だが、彼にできるのはそれだけだ。
なにせ策が露呈した以上、今は涼州で羌族らと向き合っている董卓もすぐに取って返してくることは明白であり。その先にあるのは、董卓と王允による戦であるということもまた明白なのだから。
では、遠くない未来に戦があるとわかっているこの状況で、ただでさえ軍部に伝手のない王允が呂布という武人を手放すだろうか? 彼を知る大半の人間が「その可能性は非常に低い」と答えるだろう。
さらに言えば、董卓の下に戻れない呂布が生き延びるためには王允に従うしかないのだ。なればこそ、王允としても黙っていれば自分に従うことになる呂布の妻子に手を出す確率は極めて低くなる。
「わかったか? 下手に動かれると逆に王允の行動が読めなくなる可能性がある。だからこそお前さんには確実に王允を騙すために動いてもらいたい」
「うむ」
「重要なのはお前さんが生きていること。次にお前さんが王允の味方になる可能性が極めて高い。と向こうに思わせることだ」
「そのために『逃げる』のだな?」
「そうだ」
もし呂布が死んだり、生死不明の状態になってしまえば、呂布の妻子は王允の癇癪によって殺される可能性もある。しかし呂布が生きていることがわかっていれば、話は別。王允はどのような手を使ってでも呂布を手元に引き寄せようとするはずだ。
そういう意味では長安にいる妻や娘は今と変わらず人質として機能していると言えるのだが、同時にその身の安全は保証されていると言っても良いだろう。
(董卓が本気で追撃をしてこないというのであれば、逃亡や潜伏することも容易、とまでは言わないが不可能ではない。あとは時間を稼ぎつつ自分たちの手で妻子の安全を確保すれば、王允が用意した俺を縛る鎖はなくなる。……紅昌には悪いが、これ以上王允に纏わりつかれるのは御免だ)
側室である紅昌を切り捨てる決意をした呂布は、己が考えついた最後の懸念を口にする。
「残る問題は董卓と王允の戦いが長引いたり、何らかの事情で我慢の限界を迎えた王允が暴走した場合だが、それに対して何か考えはあるのか?」
そう。呂布の脳裏に残った懸念とは、感情のままに動く老害が勢いに任せて八つ当たり気味に人質となっている自分の妻子に手を出す。という、王允の人品を一切信用していない内容のものであった。
その懸念を耳にした李粛は李粛で「さすがにそんなことはしねぇだろうよ」と王允を庇う……どころか(その可能性は否定できねぇ。というか、かなりの高確率でありそうだ)と呂布の心中に理解を示しつつ、呂布の懸念を払拭する決定的な一言を口にする。
「可能性は皆無とは言わねぇけどよぉ。ほとんどねぇよ」
「なぜそう言い切れる?」
「おいおい、呆けたか? それとも考えすぎて熱でも出たか?」
「なにっ!?」
家族を心配して何が悪い! そう罵ろうとした呂布だが、本気で自分を心配しているような表情を浮かべる李粛を見て、次いでその口から発せられた言葉を聞いて、自身の憤りを鎮めることになる。
「あのなぁ。大将が動き、王允がお前さんに『秘策』を授けて送り出したってことは、王允やその後ろにいる連中も戻れないところまで動いているってことだぞ?」
「それがどうし……あぁ。そういうことか」
「おうよ。ここまできたら、当然陛下や旦那も動くってことだ」
「なるほど。確かに俺の妻子に手を出す余裕はないな」
前門の狼。後門の外道。
この状況で、王允に呂布の家族に手を出す余裕などあるはずがない。よしんばその余裕があったとしても、それを許すほど甘い相手でもない。
事実、長安を離れようとしていた劉協一行を襲うために雇われた者たちは、行動に移す前に潰されているではないか。
実績による信頼とでもいうべきだろうか。
呂布も李粛も、弘農にて手腕を振るう外道に対して、人間としての信用や信頼は一切してはいない。だが策士として考えた場合、その評価は真逆となる。
「よし、逃げよう」
敵を地獄に落としつつ味方を書類地獄へと誘う容赦ない男の存在を思い出した呂布は、李粛の献策を受け入れて、姿を隠すことを決意した。
――数日後。
「な、なん……だとっ!?」
長安にいる王允の下に『呂布が逐電したので、呂布に代わって李粛が并州勢の指揮を執る』という報が届けられることとなった。
これを以て『盤面は自身の手の届かないところにある』と自覚できていたのなら、王允はもっと建設的な手段を取れていたのかもしれない。
しかし、自制も自省もできない老人にそのような自覚ができるはずもなく……。
「くそっ! くそっ! くそっ! えぇい! 大義のなんたるかを。政のなんたるかを知らぬ慮外者どもめがぁ! 一体何のためにあの女をくれてやったと思っているっ! 一体何のためにこれまで取り立ててやったと思っているのだぁっ!」
血管が切れるかというくらいに激昂した王允が取った行動は、養女を嫁がせた呂布や、自分が取り立ててやっていた李粛を罵りつつ、周囲へ当り散らすことだけだったという。
李粛。取り立てられていたもよう。
まぁ彼の中では、学も名士からの紹介もない并州出身の下郎に過ぎない男が、司徒様である自分と直接言葉を交わしていたって感じですからねぇ。
名家的常識で考えれば決して間違いではないというのが、この時代の怖いところです。