10.5話。とある名家の事情①
またまた解説回
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弘農に累世太尉の名家楊家が在れば、汝南に四世三公を誇る名家、袁家が在る。
去る先帝劉宏の時代。楊家の当主である楊彪と、袁家直系の姫が婚姻を結んだことで後漢を代表する名家は深く繋がりをもつことになった。畢竟、当時の両家が抱える人材は多岐に渡り、そうであるが故に後漢の政治は彼らの派閥に属する士大夫なしには機能しないと言っても過言ではなかった。
その事実があればこそ、袁隗らが率いていた名家閥の面々は、先帝劉宏を擁した十常侍が率いていた宦官閥が隆盛を極めていた時期でさえも彼らに害されることはなく、それどころか二度の党錮の禁を乗り越えた仲間意識も相まって、時に宦官閥を上回るほどの影響力を保持することができていたのだ。
彼らの影響力は、皇帝の外戚という立場を持ち、自身も政略と謀略に際立った才があった何進でさえ無視できるものではなく、一時期は何をするにも多額の付け届けや政治的な譲歩を迫られていたことからもその影響力の高さが伺える。
出自の差別により常に相手から下に見られ、無条件に政治的優位に立たれることに何進がどれだけ不満を抱えていたのかは想像に難くない。
事実何進は「侮りたければ侮れば良い。俺はその隙を突くだけだ」と嘯きながらも、内心ではイラついていたのだ。
そんな何進にとってストレスフルな状況は、彼の下にとある名家の小僧が仕官した後に、状況改善のために構造改革を行うことで劇的に変化することになる。
といっても、彼が行ったことは単純にして明快である。そう。彼は人材不足に悩む状況を改善するための策として、人材を登用することを献策したのだ。
……これは言葉で言えば簡単なことなのだが、当時の状況を鑑みれば決して簡単とは言い切れないことであった。しかしこの程度のことができなくて何が士大夫か。
彼は何進にとっても盲点とも言える人材へと声を掛けることで、組織運営に必要な人材の登用に成功していた。
そもそもの話なのだが、当時何進をはじめとした名家に詳しくない者からすれば『名家』とは伝統と格式を誇る名家や彼らに評価されて名を上げた名士が主流となる清流派と、宦官が主流となる濁流派のどちらかの派閥に所属する者しかいなかった。
しかし実際のところそれはあくまで洛陽内に限った話であり、地方に地盤を持つ名家や名士たちはそのどちらにも加担しないというものが多かったのだ。(ただし、袁家や宦官連中に推挙されて地方の県令や郡太守になっていた者は除く)
自分がそうであるが故にそのことを知っていた名家の小僧は、そういった地方に地盤を持つ者たち、その中でも家を継げない立場にあった次男坊や三男坊の存在に目を付け、それらを抱える家の者たちに自派閥への勧誘を試みたのである。
勧誘を受けた側は「洛陽での権力争いには関わりたくはないが次男坊や三男坊を遊ばせておくのも問題だ」と思っていたし「何進の配下という形では有るものの洛陽で職に就けるのは名誉なことではないか?」という思惑もあって、当主や次期当主となる長男を仕官させることはなかったものの、次男坊や三男坊。さらには分家の人間などを何進の下に送り込むことになる。
こうしてできたのが何進旗下の名家閥だ。
結成当初は、数もそれほど多くはなく、袁家や宦官が抱える濁流派に物申すことなどできるものではなかった。しかし、それでも当時河南尹であった何進が自身の職務を遂行する分にはなんの問題もなかった。
それどころか自前の派閥に所属する者たちへ役職や仕事を割り振ることが可能となったことにより、それまで袁隗らに頼み込んで派遣してもらっていた文官たちを放逐することが可能になったのである。
これにより、何が生まれたか?
袁隗の意を受けて足を引っ張ったり、情報を漏洩したりする存在が居なくなるとともに、名家閥への配慮の必要が無くなったが故に、何進はその類い稀なる謀才を如何なく発揮できる環境を造ることに成功したのだ。
ここで何進が名家閥と袂を分かったことの是非は、数年後に名家閥とも宦官閥とも敵対していた彼が大将軍として任じられたことからも明白であろう。
しかしこの大抜擢は決して良いことばかりではなかった。
それは何進が抱える名家閥では、
首都洛陽を含むとは言え一郡の長官に過ぎない河南尹としての職務程度ならば可不可なくこなすことはできても、漢全土の軍事を統括する役目を持つ大将軍府を運営するには能力も人員も不足していた。ということだ。
当然そのことを熟知していた名家の小僧は、来る書類仕事の山に備えるべく何進に人材登用の必要性を説き、それを承認させることに成功する。
しかしながら、当時洛陽にいた士大夫連中といえば、袁隗や十常侍の息が掛かった者ばかりであった。
彼らを雇い入れれば必ず自分たちの足を引っ張ると確信していた名家の小僧は、当時袁家とは距離を置きながらも名家としての名声を得ていたとある一族に声を掛けることにした。
それが潁川に荘園を持つ名門にして、孫卿こと荀子をその祖とする名家。荀家である。
彼らは弘農楊家や汝南袁家と違い、何代にも亘って三公に任じられていたわけでは無いが、祖先の功績や名声。その身に流れる血は楊家や袁家に何ら劣るものではなかった。
特に先代当主の荀淑は、その清廉さから神君とまで謳われており、司徒の子で本人も太尉にもなった李固や、太尉の孫にして登竜門の語源ともなった名士・李膺から師友とまで評された人物である。
つまるところ、潁川荀氏とは世間の評判が格に直結したこの時代に於いて、最上位の評価を受けていた一族といえるだろう。
普通に考えれば、だ。これだけの格式を持つ家の者が、肉屋の倅と蔑まれていた何進に従うことはない。この頃すでに腹心とも言える存在になっていた青年から「荀家に声を掛ける」と聞かされていた何進もそう思っていた。
だが何進から招聘を受けた荀氏は、その要請に対して特にごねることもなく応じることを選択する。
まぁ、洛陽に入ったのは本家の当主でもなければ神童と名高かった荀彧でもなく、分家の当主だったが、それでも彼は正真正銘荀氏の人間だ。
名門荀氏の出でありながら、個人としても名士として名高かった荀攸が大将軍府に仕官したことにより、袁家や宦官による権力争いから距離を置いていた人材も大将軍府に仕官するようになる。
このおかげで、予想されていた文官不足が解消されることになったし、何進が抱える名家閥の規模も一気に拡大することになったのだから、人材不足に悩みながらも青年の権力が増すことを警戒していた何進や『自身の権力が減る=仕事が分散する』と認識していた青年としては万々歳といったところだろう。
このように、荀攸の仕官は何進や青年にとっては実益しかなかった慶事なのだが、当の荀攸本人にとってはどうだったろうか。
そもそも荀攸としては、否、荀氏としては、何事もなければ外戚とはいえ何進如きの招聘に応える気はなかった。
だが彼らが招聘を受けたのは、それこそ大陸全土に黄巾の乱が広がりつつある国難の時期である。
なればこそ、彼らの中には「それを鎮めるよう皇帝その人から勅命を受けた大将軍からの招聘に逆らうということが、即ち皇帝の顔に泥を塗ることになるのではないか?」という懸念があった。
加えて、この時期彼ら荀氏が名家閥の中で非常に中途半端な立ち位置にあったことも無関係ではない。
それは現当主の甥である荀彧が抱える問題だ。
曰く、荀家の神童。
曰く、王佐の才の持ち主。
若くして様々な評価を受けていた荀彧だが、彼には一つ重大な欠陥があった。具体的に言えば、彼の妻の出自である。
荀彧の妻は四歳の頃に決まっていた。そのこと自体は歴史ある名家の人間なら珍しいことでも無いのだが、問題はその相手が当時洛陽で権勢を振るっていた宦官の娘であったことだ。
当然のことではあるが、宦官と姻戚関係となった荀氏は清流派に属する人間から「裏切り者」扱いされてしまうことになる。
……ここで彼らが一般に濁流派とされていた者たちのように利権の獲得に走るようであったのならばまだよかったかもしれない。
しかしながら彼らは、その持ち前の清廉さが災いしてか濁流派のように割り切ることができなかった。そのせいで濁流派からも「お高くとまっている」と言われてしまい、どっちつかずの荀氏は名家の中で孤立することになってしまった。
この状況を打開するために彼らは、清流派でも濁流派でもない派閥であり、その性質上袁家や楊家といった上位の名家が存在しない派閥。即ち何進閥への参加を決意することになる。
ただし、ここでも名家の誇りが邪魔をしたのか、それとも保険を掛けたつもりなのかは知らないが、彼らは何進に全掛けするのではなく、分家の人間である荀攸を何進の下に差し出したのだ。
こんなことだから彼らは清流派と濁流派の両方から「どっちつかずの家」と言われて嫌われることになっているのだがそれはそれ。
結局何が言いたいかといえば、荀攸が何進の下に仕官したことも、その後の各種混乱に巻き込まれたことも、先達として何進旗下の名家閥を率いていた青年から様々な書類仕事を押し付けられ『忙殺』という言葉の意味を理解することになったのも、全てとは言わないがその原因の大半は荀彧にあるということだ。
尤も、宦官の娘との婚姻を決めたのは荀彧ではなく、その親である荀緄やその兄であり宗家の惣領でもある荀倹であることは荀攸も理解しているので、親の都合で宦官の娘を妻とすることになった荀彧に恨み言を言う心算は無い。
まして潁川に残った彼らと違い荀攸一家は、潁川黄巾党による略奪や、董卓軍と反董卓連合の戦に巻き込まれることなく現在に至るのだ。
片や何進に差し出されたものの、今や皇帝の側近として尚書令に任じられ、思うがままにその辣腕を振るう荀攸。
片や、冀州牧韓馥の招聘を受けて黄巾の乱や反董卓連合と董卓軍との戦に巻き込まれてボロボロになった潁川から一族郎党を連れて冀州へと向かったものの、彼らが冀州に到着したころには彼らを招聘した韓馥が逆賊認定されて州牧を罷免された挙げ句、逆賊連合の盟主であり自称名家閥を束ねる男・袁紹が幅を利かせていたという絶望を叩き付けられ、その場から逃げるように立ち去ったかと思ったら、結局逆賊連合の副盟主にして宦官閥の取りまとめ役として認識されている東郡太守・曹操の下に仕官することになった荀彧。
無論荀攸とて今に至る前に様々な苦労をしてきたが故に今の立場があるのだが、それを念頭においたとしても荀彧の現状は「酷い」の一言に集約できるだろう。
ここまでくれば、情の薄さに定評のあるどこぞの太傅でさえも同情を覚えることになるのではなかろうか。
……実際は「動くべきときに動かなかったからああなった」と、反面教師として教材扱いにするのだが、それはそれ。
この時期の荀攸は、ここ数年の混乱の最中、なんだかんだで本家を継ぐことになった年下の叔父に対して間違いなく憐憫の感情を抱いていたのである。
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司隷・弘農郡・弘農 宮城内尚書令執務室
弘農楊家の御曹司が命乞いの為に弘農を訪れたのが必然ならば、潁川荀氏の当主が生き残りを懸けて弘農へと足を運ぶのもまた必然なのだろう。
「久しいな公達。……いや、違うな。お久しぶりです尚書令殿」
「……えぇ。お久しぶりです叔父上。いえ、文若殿」
普通の名家である河内司馬家の次男坊が、楊家の御曹司に対し自身の師である太傅から与えられた指示を伝えていたときのこと。尚書令荀攸の下に、一人の客人が訪れていた。
――漢に名だたる名家、潁川荀家。その生き残りを懸けた戦いが今、始まろうとしていた。
そんなわけで、筍の軍師こと荀彧登場。作者は彼が曹操の配下になったのは奥さんの出自も無関係ではないと思っております。
荀彧が死んでも荀攸がおるやん。と思うかもしれませんが、荀彧が逆賊として処分されたら荀攸も処分されますからね。政敵などの存在を考えれば、尚書令とて油断はできないので、彼の覚悟は決して的外れなものではありません。
君の一族が悪いのだよ。そんなお話でした。









