9.5話。弘農にて④
言うなれば解説回
文章修正の可能性あり
(ようやく一歩、か)
司馬懿に面会してから。というか、弘農に訪れる前から『自身は弘農の陣営から見たら罪人』であると定義していたが故に、司馬懿が用意した度重なる挑発に激昂することなく。それどころか甘んじて罪人としての扱いを受け入れる態度を見せたことで、多少の勘違いはあるものの司馬懿にその胆力を認められるという奇跡を起こし、自身の命と名誉。さらにはその家名も守ることに成功した若者、楊修。
彼がこの奇跡を実現できた最大の要因は『彼が自身を罪人として定義していた』ことにあることは言うまでもないことだろう。
では、何故現役の司空の子であり、名門中の名門弘農楊家の御曹司である彼が自身を罪人と定義付けて、尚且つそのことを隠しもしていなかったか? と言えば、そこには大きく分けて三つの要因があった。
一つ目は、父である司空・楊彪が同じ三公の司徒・王允とともに長安で政の壟断を行っていることである。
ただし、楊修の目から見ても楊彪が行っていたのは司空の持つ権限からなんら逸脱したものではなかった。多少出過ぎた面はあったかもしれないが、それとて皇帝劉弁が喪に服していたために公務に当たれなかったことや、皇帝の代理として丞相に任じられた皇弟劉協が十歳にも満たぬ子供であったが故のこと。よって楊修も、父楊彪による政の壟断を訴えられたなら、毅然と反論していただろう。
よって、この場合問題になるのは楊彪ではなく、その同僚。即ち司徒・王允にある。
宦官を嫌うこと甚だしく、十常侍が権威を握っていた際にも堂々と彼らを非難していたこともあって、今では名家閥の清流派代表のような扱いを受けている王允であるが、実際のところ王允は名家と呼ばれる家柄の出身ではない。
名家名族が先祖伝来の家とその家職を誇りにし、仲間内で固まっていたのに対し、王允は個人として評価されただけの存在であり、言うなれば名士と言われる立場にあったので、一応、敵の敵は味方の原理で敵視はされていなかったが、名家のコミュニティに参加できる立場ではなかった。
それが今や名家閥を率いる三公、司徒様となったのだ。これまでの経緯から宦官への嫌悪感だけでなく名家に対して劣等感も抱えていた王允は、司徒としての権威に加え董卓から借り受けた并州勢の武力を背景に、自分に逆らう者たちへの弾圧を開始した。
自身の政策に異を唱えた蔡邕の投獄に始まる士大夫への言論弾圧や、自分に協力的でない名家の粛清、さらには軍部への口出しなど、もはや誰がどう見ても王允は一線を超えてしまっているのだ。
そして楊修にとって問題なのは、司空である父楊彪も、王允の片棒を担いで政を壟断していると認識されてしまっていることであった。
現状では「一緒になって悪さをしているわけではない」と主張したとしても、「諫めない時点で同罪だ」と言われてしまうだろう。そうなれば楊修に返す言葉はない。これが第一の要因。
次いで第二の要因。それは先日、楊彪が王允と共に丞相劉協の前で司馬懿と敵対してしまったことだ。
あえて言うならば、司馬懿と口論をして論破されてしまったこと自体は別に構わないのだ。極論すれば、あれはあくまで互いの持論を述べただけである。確かにあの場で司馬懿に言い負かされたことで楊彪や王允の評価が落ちることになったが、言ってしまえばそれだけの話だ。
どちらの提言が劉協の意に沿っていたかは別としても、意見をぶつけることや、反対意見を述べたことが罪となるわけではない。
罪となるのはその後。何者かが弘農へと赴こうとしていた丞相・劉協一行の襲撃を計画していたことであり、それが京兆尹である司馬防の手によって防がれたことであり、その際に捕縛された罪人を王允が強権を以て処刑したことである。
一連の流れを見れば、その丞相一行の襲撃を企てた人員を用意したのが誰かは考えるまでもないだろう。
さらに迂闊なことに、王允は自分が抱える暴力装置、即ち并州勢を率いる呂布に対して件の一行を襲撃するよう指示を出しているのだ。当然そのことは呂布から李粛へ、そして李粛から董卓へ、さらには董卓から弘農へと伝わってしまっているし、楊彪や楊修もそのことは理解している。
彼らの立場からすれば完全に冤罪なので、この襲撃を「王允の独断だ!」と主張することはできる。
しかし楊彪には、その襲撃が行われる理由となった朝議で王允と共に劉協の弘農行きに反対した経緯がある。この状況で「楊彪は無関係だ!」と主張したとして、信じる者がどれだけいるだろうか?
当然楊修とて、自分がその渦中の人物の長子という立場でなかったならば信じようとはしない。他の者が庇う? それはない。こういった場合、名家の常識に則って動くならば、楊彪を庇うよりも司空という役職を空座にするため、積極的に陰謀論を後押しするのが普通のことなのだ。
状況証拠的にどう考えても詰んでいる。これが楊修が自らを罪人と定義する第二の要因である。
最後の要因は、もっと根源的なもの。即ち楊修の中に流れる血に起因する。
何度も言うが、楊修の父は累世太尉の家と謳われる名門、弘農楊家の当主にして現役の司空でもある楊彪だ。このことは特に問題がない。では何が問題なのか? と言われれば、その妻。つまり楊修の母の生まれこそが問題なのだ。
なにせ彼女は袁家の出。それも現在の汝南袁家の直系。もっと言えば汝南袁家当主、袁術の妹なのである。
これが平時であれば、四世三公の家である汝南袁家と累世太尉の家である弘農楊家の間に生まれた楊修は名家閥を束ねる立場となっていたかもしれない。しかし現在、汝南袁家は非常に危うい立場にあった。
その理由は、言わずと知れた袁家の後継を自認する問題児、袁紹と彼の言動に触発された袁術が引き起こしたあれこれである。
袁紹が最初に犯した大罪が宮廷への武装侵犯。これだけで一族郎党、否、関係者を含めた九族の処刑に値する大罪だというのに、この際、袁紹は兵士による宦官惨殺だけではなく名家の子女への暴行を黙認していたという罪もあるのだ。さらに非公式ではあるが、袁紹や袁紹と共に宮中へ乗り込んだ連中は「自分たちが成り上がり者の何進も殺害した!」と吹聴していたので、その罪もある。
当然楊彪らはこの暴挙には一切関わっていないのだが、その身に流れる血を否定することはできない。よって袁術の妹である楊修の母やその夫である楊彪。さらにはその息子である楊修は袁紹の関係者として処罰の対象となっているのだ。
ちなみにこの時点ではまだ、宮中の権力者であった袁隗の尽力もあり、袁隗や袁紹らの死を以て汝南袁家の存続も認められていたのだが、非常識の塊であった袁紹はさらに罪を重ねてしまう。
反董卓連合の結成と、それに伴って皇族である劉虞を皇帝へ推戴しようとしたことだ。
当時の董卓はと言えば、何進からの呼び出しを受けて上洛したかと思えば、その途中で袁紹の宮中侵犯を受けて洛陽から逃げ出した皇帝劉弁や劉協一行を救出。その後、大将軍府の人間から移譲されて洛内の軍権を掌握しつつ治安維持を行っていただけの軍人である。
当然そこに罪と言えるような罪はなく、あるのは『手柄を横取りされた!』とか『肉屋がいなくなったと思ったら次は涼州の野犬か!』などと、自分の利益を奪われたことに対して逆恨みする者たちの怨嗟の声であった。
そんな逆恨みから兵を興し、その兵を都である洛陽へと向けることが大罪でなくてなんだというのか。
さらに救えないのが、劉虞へ皇帝になるよう打診を入れたことだ。これにより反董卓連合は『董卓に拐かされている幼い皇帝を救う』という大義名分をなくし、名実ともに皇帝に叛旗を翻した逆賊となってしまった。
さらにさらに救えないのが、彼らと直接の関係がある袁術が、袁紹を諌めなかっただけでなくあろうことか連合の副盟主としての立場を得てしまったことだ。それも兵糧の負担という、大軍を維持するための要とも言える役割を進んで行ってしまったのである。
袁術にすれば勝ち馬に乗ったつもりだったのだろう。確かに連合軍が董卓に勝っていれば、その貢献の度合いは大きく、戦後の人事にも大きく影響を与えたであろうことは間違いない。
しかし結果は敗北。
連合軍への貢献の重さは、そのまま逆賊としての罪の重さとなってしまう。
袁紹だけでも問題なのに、袁術までもが逆賊となってしまっては救いようがない。そこで楊彪はなんとか袁術の逆賊認定を解こうと尽力した。
その結果が『袁紹を討伐した暁には恩赦を与える』という言葉を丞相劉協から引き出したことであり、先日皇帝劉弁が発した『袁術は劉岱と劉繇を討伐せよ』との勅命であった。
勅命を頂けるということは逆賊ではない。
そのような解釈に加え、恩赦の内容も条件付きのものから実質的な許諾に変わっていることを受けて、親子揃って胸をなで下ろしたのは記憶に新しい。だが、だからといって未だに袁術はなんの成果も挙げていないので、その関係者の肩身は恐ろしく狭かった。
そんなこんなで楊修は「自分たちは完全に許されたわけではない」と認識している。これが楊修が自分を罪人と定義付ける第三の要因である。
結局のところ楊彪・楊修親子からすれば全面的に王允と袁紹と袁術が悪いのだが、利害関係とは利益と実害を共有する関係なのだ。それに鑑みれば、汝南袁家と姻戚関係となったことで弘農楊家は利益を得たのだから今の袁家から齎される実害を許容するべきだし、王允をうまく操ることで袁家の、ひいては弘農楊家の逆賊認定を解くことができたのだから、王允の行動によって齎される実害も許容すべき事柄と言える。
同時に、それは今後も生死を共にするということと同義ではない。
(母上の関係上、汝南袁家との関わりを切ることはできない。だが王允。貴様は別だ)
なし崩し的に同僚と認知されている楊彪にとってもそうだが、名家の子として生まれ、名家を継ぐべく教育を受けてきた楊修にとっても、長安で王允が行っている諸々の行いは些か以上に目に余るものであった。
(あれは志を同じくする者ではない。故に切り捨てることになんら痛痒も感じぬ)
司馬懿の前で罪人としての扱いすら許容している楊修だが、彼とてこれ以上自分たちが王允の同類と見られることには我慢できなかった。
「恐れながらこの場を借りて司馬議郎様に、司徒王允が長安で企てている謀をお教えしたく存じます」
筵の上に座しながら、尚も矜持を忘れぬその姿。
(ほう……これは中々)
(す、凄い!)
内心の猛りを隠さぬままに声を挙げる楊修。それを目の当たりにした司馬懿や徐庶は彼に対する評価をさらに高めることになるのだが、それを若さゆえの勘違いと断ずるのは流石に酷というものだろう。
今回挙げた三点は、あくまで大きな要因です。
細かく言えばもっと罪はあります。
つまり「トリプル役満どころの騒ぎじゃねぇ!」というのが今の楊修の立場です。
そりゃ家名存続のために必死になりますわ。
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