5話。動乱の気配③
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京兆尹・長安・宮城内司徒執務室。
「何故董卓は動かんッ!」
董卓が『いつも通りに動く』と決め、それを実行している最中のこと。帝である劉弁も、劉弁の代理として政務に当たっていた丞相劉協も不在の長安に於いて、最高権力者の一人である司徒・王允は、董卓の代理人として派遣されている李粛を己が執務室に呼びつけ、叫び声を挙げていた。
并州で生まれるも、自身の生まれ故郷を田舎と断じ、内心で見下して居た王允は并州での軍役に就いたことがない。そんな王允の持つ価値観で言えば、金城という長安に近い地に四万もの羌族や胡族が居るというのは正しく異常事態である。加えて漢の常識として見ても、定期的に漢の地を侵し掠める彼ら騎馬民族は、発見次第即刻排除するのが当然の存在だ。
そしてその排除を実行するのは官軍の仕事であり、官軍を率いるのは大将軍である董卓の仕事である。
しかしながらその大将軍・董卓は、己が将軍府を設けた郿から動く気配を見せていない。それはつまり、董卓が大将軍としての職務を放棄していると言っても過言ではない。
故に王允は、董卓の代理人として長安に滞在している李粛を叱責し、郿から動こうとしない董卓の尻を叩こうとしていたのだが、呼び出された李粛が怒り狂う王允を相手に行ったのは、謝罪でも反論でもなかった。
「いや、いきなりそんなこと言われましても何が何やら。向こうでなんぞ動きがあったんですかい?」
「なんぞ動きがあったか? だとッ!」
李粛が取った行動。それは王允が望んでいた謝罪や弁明ではなく韜晦であった。そう。李粛は王允が何を言いたいかを知っていながら、あえて知らない振りをすることで王允から必要な言質を取ろうと画策したのだ。
もし王允が少しでも李粛を警戒していれば、そのわざとらしさに気付くこともできたであろう。だが、悲しいかな己を高く評価すること甚だしい王允は、目の前で頭を掻く同郷の武人をそこそこ仕事ができるだけの田舎者と見下しているため、その韜晦の中に隠された意図に気付かない。だから本来なら彼が知り得ないはずの情報を口にしてしまう。
「金城に四万もの羌・胡の連合軍がいるではないかッ! それだけの大軍を前にして大将軍が動かんとは何事かッ!」
王允にしてみれば、完膚なきまでに正論である。あくまで王允の視点では、だが。
「ほぉ。金城に羌と胡の連合軍がいるんですかい?」
「そうだ!」
「それは初耳ですね。そもそもその情報はどこから得たんで?」
「むっ?」
長安での政争を嫌い、郿に篭りながら涼州を警戒しているはずの董卓が得ていない。少なくとも長安に於ける董卓代理人である自分が知らない羌と胡に関する情報を、何故司徒である王允が知っているのか?
李粛からの問を受けたことで、己が過ちを犯したことを自覚し、先ほどまでの激昂ぶりが嘘だったかのように沈黙する王允。彼が口を噤んだところで、李粛は追及の矛先を変えながら矛盾点を指摘する。
「ま、情報源に関しては、司徒様にも色々伝手があるってことでいいんですけどね。ですが、流石にこの情報は、ねぇ?」
「……何が言いたい?」
「端的に言って信用できやせん」
「なんだとッ?!」
王允とて己が失策を犯したことは自覚している。しているのだが、金城に騎馬民族が集結しているのは紛れもない事実なのだ。そこを疑われる筋合いはない。
内心で叫び声を挙げる王允だが、李粛が言っているのはそれ以前の話である。
「落ち着いてくだせぇ。并州出身の司徒様には言うまでもないことでしょうが、羌と胡は違う氏族でしょう?」
基本的に、羌は涼州やその北や西に広がる民族なのに対し、胡は并州の北や西、つまり涼州から見て東に根差す民族を指す言葉だ。并州生まれの王允が知らないはずもない。
「……そうだな」
無論、両者が漢の北で交わることはあるだろう。羌や胡の中に、元々住んでいた地域から移動した者だっているのかもしれない。
しかし、その両者が手を組んで漢に兵を向けているとなれば話はガラリと変わる。
「先ほど司徒様は、金城にいるのは羌と胡の連合軍と言いましたね?」
「……」
「確かに羌も胡も季節ごとに漢に侵攻し、略奪を働いていくはた迷惑な連中ですよ? ですが、いや、だからこそ、と言うべきですかね? 基本的に連中はお互いが侵略する縄張りを侵したりはしないんでさぁ」
戦術的に考えれば、董卓という羌も胡もその怖さを理解している大敵を前に兵力を集中させるのは間違いではない。しかし、だ。漢という共通にして強大な敵を前にした場合、わざわざ別の氏族までも糾合し一箇所に集まる必要性は、皆無とは言わないが限りなく薄い。
まして彼ら騎馬民族が討伐される危険を理解しながらも漢の地に押し入り略奪を続けるのは、漢を滅ぼすためではない。偏に冬を越すための蓄えを得るためなのだ。
なればこそ、彼らが狙うべきは蓄えが少ない上に、すぐ近くで董卓が兵を駐屯させている涼州ではなく、大量に兵を引き抜かれた上に、前任の刺史が処刑された挙げ句、後任の州牧が駄々をこねて赴任すらしていない并州であるべきだろう。
さらに今は夏である。当然収穫の時期ではない。
「もし羌と胡が同盟を組んだというのであれば、羌が涼州で我々を誘引しつつ、胡が并州へと動くでしょう? なのに連中が一箇所に纏まっている? それもうちらが知らないってことは略奪もせずに一箇所にいるんでしょう? おかしいじゃないですか。まぁ、もしも連中を集めた上で略奪を控えさせるような強力な纏め役がいるってんならわからないでもありやせんが、その辺の情報はありやすか?」
もしも氏族間の問題を無視して羌や胡といった連中を集めることができるとしたら、それは第二の檀石槐の誕生を意味する。しかしその場合、今回動員した兵が四万というのは少なすぎるという問題が発生する。つまり、それなりの北方騎馬民族の内情を知る者からすれば『この時期に、金城に、四万の羌と胡の連合軍が、略奪もせずに、集合している』と、どこをとっても矛盾だらけの情報となる。
そんな不自然極まりない情報を元に兵を動かす将軍など、よほどの阿呆以外存在しない。
「むぅ……」
李粛のいう纏め役こそ、王允から勅という形で命令を受けた馬騰と彼の義兄弟である韓遂であり、彼らが略奪を行っていないのは、王允らが彼らに物資の援助を約束しているからなのだが、流石にそれを明かすわけにはいかないという程度の常識はある。
どう誤魔化すか。そう思い悩んで無言になった王允に、李粛は言葉を重ねる。
「ってな感じですんで、司徒様が得たその情報は色々と前提がおかしいってことです」
「……私を疑う、と?」
「いやいや、司徒様は疑ってません。ただねぇ」
「ただ?」
「俺は司徒様にその情報を持ってきたヤツを知りませんからね。知らないヤツは信用できませんや」
かなりオブラートに包んでいるが、つまるところ李粛の言い分は『王允は疑っていないが、羌と胡を同一視するような物見は信用できない』となる。
「……」
「とはいえ、司徒様が言った情報が本当であれば間違いなく大事です。向こうの大将に使者を送って確認してもらいます。大将が動くとしたらその確認が終わった後になるでしょうねぇ」
できるだけ早く。具体的には弘農から自身の異動を促す督促の使者が来る前に董卓を動かしたかった王允からすれば、些かどころではないほど迂遠な話だ。とは言え、今の王允には李粛の後ろにいる大将軍・董卓を動かす権限は、無い。
「……そうか」
結局王允は(どうせ調べればわかることだ。ならばその時に『だから儂は言ったではないか!』とでも言って董卓を急かせばよい。多少時間がかかるが、それはしかたがないと諦めよう。弘農の若造どもは……まぁなんとでも転がせよう)と判断し、この場で李粛に命じて董卓を動かすことを諦めることになる。
この決断が彼にとって吉と出るか凶と出るか。
――普段から董卓旗下の将軍たちを『政を理解できぬ阿呆』と見下している王允は知らなかった。
自身の目の前で頭を垂れる李粛が、どれだけ危険な存在なのかということを。基本的に彼らは政略だの謀略だのについてはアレなところがあるのは事実だが、こと戦場に於いてはただの猪ではないということを。彼らは敵を食い破る獰猛さと、罠を警戒するだけの知性を兼ね合わせる狡猾な狼だということを。
(どうやら王允にこれ以上の引き出しはないようだな。あとは楊彪と劉焉の動きになるが……まぁそっちは大将や旦那たちに任せるとしやしょうか)
そう。彼も知らず、己すら知らぬものに勝利はないのだ。
王允がその理を真の意味で理解するとき。それは、即ち狡猾な狼がその牙を獲物に突き立てた瞬間となるだろう。
そしてそのときは、決して遠くはない。
この時代の胡とは、広義で言えば北方騎馬民族全体の事を指し、狭義で言えば東胡、つまり匈奴の事を指します。よって、今回のように羌と胡が連合を組むというのは、羌と匈奴が連合を組んだと言い換えれば分かりやすいかもしれません。
ちなみに以前の後書きにも書きましたが、史実において王允によって獄殺された蔡邕の娘である蔡文姫こと蔡琰は、何故かピンポイントで鮮卑に攫われて、何故か鮮卑のお偉いさんである劉豹の側室(奴隷)にされています。
イッタイダレガテビキシタンダー。
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権利者様から再度地図を使って良いという許可を頂きましたが、みてみん様以外でやる場合ってどうしたら良いのでしょう? ご存知の方がいらっしゃいましたら、アドバイス頂ければ助かります









