1話 プロローグ
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先帝劉宏の喪が明けたと同時に新帝劉弁が発した勅は燎原の火が如く漢全土に広がっていた。
この勅における最大の特徴は、新帝が勅を発した場所とその内容にあると言われている。
なにせ新帝劉弁は、洛陽に代わる都であると同時に国家を支える三公が待つ長安ではなく、喪に服していた弘農で、それも三公も大将軍も不在のまま自身にとって最初の勅を発したのだ。
さらに、新帝は自身が帝位に就いたことを言祝ぐ式典を行わず、それに伴う各種恩赦も行わないことを宣言してしまう。
これにより、親族や関係者の恩赦を望んでいた名家の者たちや、新帝を長安へと迎え入れ、その歓待によって自身の立場を固めようとしていた者たちの目論見は露と消えることになった。
内容についてだが、これは特に名家の者に大きな衝撃を与えることになる。
特に、属尽の持つ各種権利の剥奪や宗室を名指しで逆賊扱いしたことが、名家の者にとっては不満の種となった。
それは何故か?
元々皇帝である劉弁やその弟である劉協のような正真正銘の皇族や、地方を治める諸侯、さらに彼らに関係が無い文官たちからすれば、属尽というのは劉氏の名に縋りつき、碌に仕事もしない癖に権利だけを主張する穀潰しでしかない。しかし、一部の名家たちにとっては違ったからだ。
彼らにとって属尽は、金もなければ権力も持たないが、劉氏というブランドを持つ者である。地方における劉氏の価値は極めて高く、彼らからの郷挙里選によって職や箔を得た者も決して少なくないのだ。
そんな彼らの特権がなくなるということは、彼らから推挙された者にも価値がなくなるということになる。それは、今後の昇進や雇用に直結する大問題となることが予想されるのだ。
また、皇帝を支える役職である九卿には、皇族や宗室、そして属尽を管理する宗正という職がある。
宗正の定員は一名だが、皇族や宗室の各家に家令を置いたり、その家令を支える丞を置いている。
彼らは十分な給金と劉氏に仕えるということを誉れとしているのだが、此度の勅によって宗室に名を連ねていた面々や属尽の扱いが改善(彼らにとっては改悪)されることで、自分たちの存在価値が落ちてしまうことを懸念していた。
さらにさらに、皇室は属尽のコミュニティを抱える諸侯に対して一定の予算を組んで支給することになっているのだが、彼らの特権が剥奪されるということは、その給付金も廃止となるということだ。そうなれば、その予算を横領していた者たちの収入源がなくなってしまう。
職も名誉も収入も失うことになる名家の者たちにとって、まさしく死活問題だ。こういった事情から、名家の者たちが勅に反発するのも当然といえよう。
しかし、内心で反発していようとも、表立って反するわけにはいかないのが勅命というものだ。よって名家の者たちは、己が声を挙げるのではなく、別の誰かを担ぎ上げ、自分たちの声を代弁させようと画策することになる。
そして、今回彼らの代弁者に選ばれたのは、勅によって彼ら以上に顔を潰され、怒りの声を隠しもしない老人であった。
興平元年(西暦一九二年)六月 司隷・京兆尹長安
「有り得ん! 有り得んぞ! 貴殿もそう思われませぬか!?」
勅が発せられてからというもの日々傘下の者たちからの陳情を受けている司徒王允は、同僚であり先達でもある司空楊彪の執務室にて怒鳴り声を挙げていた。
「司徒殿のお怒りもごもっともかと(毎日毎日愚痴を垂れに来るのも有り得んと思うがな)」
「そうでしょう! 此度の勅は、私共の失脚を狙った若造の讒言によるものに間違いありませんぞ!」
実のところ楊彪としては、勅によって自身がこれまでに与えていた恩赦などが認められていたことから、自身や自身の派閥に十分配慮して貰っていることを理解していたため特に不満はなく、あくまで暴走気味の王允を宥める為に曖昧な理解を示したのだが、王允にはそれで十分だったようだ。
「ふむ……(確かに向こうは貴様の失脚は狙って居るだろうよ。しかしその手は何処まで伸びているのだろうな?)」
我が意を得たりと頷いて言葉を続ける王允を見て楊彪は、新帝劉弁とその裏で謀を練っているであろう男の狙いが奈辺にあるかを考察する。
(普通に考えれば今回の勅は、増長気味の王允を長安から引き離すと同時に、王允に擦り寄る名家連中の掃除を兼ねたもので間違いなかろうよ)
楊彪からみても、王允は明らかに一線を越えてしまっている。普段の行いもそうだが、決定的だったのは先日の丞相劉協襲撃未遂事件だ。
京兆尹である司馬防が捕らえた罪人を彼が持つ強権で以て問答無用で処刑したことなど、どう考えても証拠隠滅を図ったようにしか見えないだろう。
王允は証拠さえなければなんとかなると考えているようだが、楊彪としては「甘い」と言わざるを得ない。
事実がどうであれ、皇帝がそう見てしまえばそうなのだ。
まして相手は十常侍や袁隗のような絶対的な権力者が傍に侍っていたせいで、自身が得ることができる情報を選別されていたことにすら気付かなかった先帝劉宏ではない。弘農にて喪に服していたが故に余計な者による邪魔がなく、自身の目で物事を見て自身の頭で考えて物事を判断できる劉弁だ。
(先帝陛下との違いは、宗室や属尽に与えていた特権の排除を明言したことからも明白)
元々属尽に対する各種制度は、後漢を興した光武帝があくまで一時的な措置として自身の在位中に定め、そして在位中にその制度の廃止を決定したものを、地方に散らばった劉氏や彼らを利用せんとする名家からの働きかけで、順帝(八代皇帝)や桓帝(十一代皇帝)が復活させたものである。
その制度を廃止するということは、歴代の皇帝が定めた法を否定することと同義。
歴代の皇帝の決定を重んずるだけの皇帝なら、周囲が何を言っても制度の廃止に踏み切ることはないはずであり、その決断を下せたという時点で、劉弁が先帝に倣うだけの存在ではないことを証明している。
(まぁ、太傅に対する信頼が歴代の陛下を上回っただけの可能性もあるが……いや、それはない、か)
たとえ劉弁の無知に付け込んだとしても、周囲にいる者全員が無知というわけではない。劉弁の周囲には荀攸をはじめとした名家の者や皇甫嵩や朱儁といった皇帝に忠義を誓う者もいるのだ。
それらが異論を唱えれば、如何に太傅を信頼していると言っても、宗室や属尽を除いて劉氏の権威を落とすような勅を出すことは不可能となる。
(故に今回の勅は、陛下の御意思によって発せられたと見るべきだろうて。まぁ太傅が全く無関係とは言わぬが、それでも陛下のお立場に立ってみれば、な)
後宮にいたころから母の出自から散々悪評を垂れ流され、父である劉宏が死んだと思ったら袁紹を筆頭とした名家連中に宮城を侵犯されて後ろ盾である何進を殺され、弟ともども洛陽から逃げ出して董卓に保護され、ようやく名家や宦官どもから距離を取れたかと思ったら名家や宗室連中が中心となって結成された反董卓連合と称した賊徒に刃を向けられたのだ。
(このような扱いを受けた陛下が、名家や宗室、そして自分に味方しなかった属尽や、彼らに推挙された人間も敵視するのは当然のことよな)
むしろ反董卓連合の主力を担った袁術や、袁家と姻戚関係にある自分を赦すだけでも十分な配慮と言える。
それを知るからこそ楊彪は、これ以上の恩赦を認めないという勅は紛れもなく劉弁の意志であり、太傅らが自分たちに恩赦を与えるために随分骨を折ってくれたのだということを理解している。そのため彼個人としては弘農にいる者たちに含むところはない。
(問題は、それを理解できぬ阿呆が目の前にいるということ。いや、そういった配慮を理解できないからこそ、彼らは排除対象にされたとも言えるのだがな。……こやつらと一緒に処分されては堪らぬわ)
「それで、司徒殿はこれからどうなさるおつもりか?」
今も目の前で怒鳴り散らす王允を見やり、巻き添えで処分されるつもりがない楊彪は内心で溜め息を吐きつつ自身が生き延びるための一手を打つ。
「どう、とは?」
「弘農にいる者どもの思惑はともかくとしても、勅はすでに下されました。それに従うなら貴殿は兵を纏めて并州へと赴き、袁紹殿を討たねばなりますまい。にも拘わらず出陣の支度が進んでいるという話は聞こえてきませぬ。一体どうなさる心算なのでしょうや?」
反董卓連合に参加したというだけの諸侯はまだ言い逃れはできたが、袁紹が犯した罪はそれだけではない。宮中に侵犯して宦官を殺害したり、侍女らをかどわかした件については、誰がどう見ても一族郎党が処断されるに値する重罪である。
事実、それまで洛陽の名家をまとめ上げていた袁隗も、この行いのせいで助命嘆願すら出来ぬ状況に追い込まれてしまう。
結局多額の弁済金を支払うことと、袁隗らの命を以てなんとか一門である袁術の助命という言葉を引き出したものの、袁家や袁家と関係をもつ名家の立場は文字通り薄氷の上に立っているが如く、いつ処刑されるともわからない危険極まりないものとなってしまった。
当然その中には、楊彪が家長を務める楊家も含まれている。
故に楊彪には袁紹に配慮する気は皆無であったし、王允や彼に擦り寄る名家の者たちも、朝敵である袁紹を討つことに異を唱えることはできない。なればこそ動く必要があるはずなのだが、王允は一向に動く気配を見せていない。
だからこそ楊彪は「いつ出陣するのか? 出陣しないのなら何をするつもりなのか?」と問うた。
「あぁ。それですか」
「……」
「儂に兵を率いて袁紹を討てという勅は、陛下の御意思ではなく、若造が儂を蹴落とす為に仕向けた罠でござろう? ならばわざわざその罠に掛かってやる必要はない。そう思いませぬか?」
「は?」
その問いに対する王允の返答は、楊彪が想定した中で最も有り得ない、かつ最も下策としか思えないものであった。
「そ、それでは司徒殿は勅に逆らう、と?」
呆然としながら呟いた楊彪に、王允は「人聞きの悪い風に言って欲しくありませんな」と、憮然とした表情を浮かべて反論をする。
「勅に逆らうのではござらん。若造の仕掛けた罠を破るのです」
「い、いや、それは……」
「それは?」
「……」
詭弁だろう。そう言いかけた楊彪だったが、王允の表情を見て喉まで出掛かったその言葉を呑み込んだ。
楊彪の常識からすれば、誰がその裏にいようと勅は勅である。加えてその理屈を良しとするならば、誰でも勅に逆らうことができてしまうではないか。
故に、王允の主張は皇帝の権威の否定に他ならない。
「王允殿のお気持ちは分かり申した。しかし罠を破るとは、どうなさるのです?」
本来ならそれを糺すべきだろう。しかし楊彪は王允の主張に異を唱えなかった。それは王允の主張を認めたからではない。むしろその逆だ。
「うむ。司空殿も知っての通り、此度の勅には彼の御方も関わっております」
「それは、確かに」
「当然、彼の御方も若造の策に乗せられるような心算はござらん」
「……では?」
「えぇ。多少予定とは違いますが、なぁに。中途半端な才しかもたぬくせに謀略家面をしている若造や、目先の戦場しか見えぬ愚か者を罠に嵌めてやるだけの話ですよ」
「……そうですか」
「くっくっくっ。幼い陛下を傀儡として天下を握った気になっている阿呆どもに、我らが目にモノを見せてやりましょうぞ!」
「……」
「ふはははは! 分不相応な身分を得て調子に乗った若造どもめ! この王佐の才を持つと謳われた儂を侮った報いを受けさせてくれるわっ!」
目を血走らせ、虚空を睨んで声を挙げる王允。その姿は在りし日の彼が疎んじていたはずの欲に呑まれた老害そのものであった。
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