10話。諸悪の根源②
文章修正の可能性有り
レビューありがとうございます。
作者の考察と言う名の妄想てんこ盛り回
蔡邕や周囲の者たちが李儒の変容に言葉を失う中、当の李儒は蔡邕の挙動を注視しつつ思考を働かせていた。
(そもそも、史実に於いて王允が董卓を殺すこと自体がおかしい)
董卓の暴虐が原因というが、董卓が表舞台に起った時から暗殺までの時系列を考えれば、王允の行動に違和感を感じる者も多いのではないだろうか?
まず董卓が洛陽に到着したのが何進が死んだ一八九年の八月だ。
洛陽に入った董卓が何進一派の兵を吸収して、武力を背景に劉協を帝へと冊立したのがその年のうちのこと。
そして一九〇年の新年を迎えるとほぼ同時に反董卓連合が興り、一九一年の四月に長安遷都。
その後董卓は長安には入らず、郿城を建築しそこを拠点とした。
いつ完成したかは知らないが、新拠点の郿城に入り浸っていた董卓が、劉協の快気祝いを口実に長安の宮城に呼び出され、暗殺されるのが一九二年の四月。
以上、この間わずか三年である。
戦続きの中で『董卓が専横を極めた暴政を行った』とされるのは、おそらく彼が少帝劉弁を毒殺したり、それまで散々彼の足を引っ張った名家連中を適時処理したからだろう。
これは儒教的な価値観からすれば確かに暴虐だから、その風評については良い。
問題は『いつ、そして何故王允が董卓を殺すことを決意したか?』と言うことだ。
暴政を理由に上げるにしても王允が司徒となったのは長安遷都の後である。(その前は楊彪が司徒だった)
そして前述したように、長安遷都の後は董卓は長安に入らず、郿城を拠点としていた。
ならば、長安で暴政を働いていたのは誰だ?
政に興味を示さず、宴や狩りに精を出していた董卓か?
それとも董卓に政を一任されたものの、宦官と繋がりがある濁流派を嫌っているが故に彼らを利用しようとせず、并州出身であることを理由に己を下に見る清流派連中にも憎しみを抱いていた男か?
どちらにせよ、時期というのであれば、反対勢力の掃除が一段落した段階、もしくはその前から、王允は自身の罪を董卓に押し付けるために彼の暗殺を考えていたと見るのが妥当だろう。
(動機はどうだ?)
宦官閥とも名家閥とも距離を置いていて、軍部にも伝手があるわけでもない。劉協の名前と董卓の武力を背景にして政を行っていたのが王允だ。そんな彼がなぜ董卓を殺す必要がある?
悪名の処理? 董卓以外にも押し付ける相手がいくらでもいるだろう?
董卓を暗殺した後、自身がどうなるか考えなかったのか?
帝を確保しているから大丈夫? そう言って宮中で何進を殺した十常侍はどうなった?
何進の配下であった袁紹らによって宮中が蹂躙され、宦官もほとんどが討ち取られたではないか。
袁紹の配下たちよりも血の気が多い涼州や并州の連中が、帝を盾にする王允に配慮するか?
(ありえん)
李儒からすれば、董卓の配下が王允に配慮する可能性も、王允が彼らに配慮を期待する可能性も考えられなかった。
では王允は董卓を殺した後で、董卓に罪を押し付けて自らは死のうとしていた?
(それも否)
彼は名誉欲の塊であり、史に名を残すことを望んでいた節がある。
同時に、彼は儒者として、そして軍人として勝者が歴史を作ることも理解していたはずだ。
実際、李傕や郭汜が長安に迫った際には彼らに降伏するよう呼びかけているし、それが拒否されたあとは呂布を差し向けるなど、徹底抗戦の構えを見せていた。
で、あれば、王允には董卓を殺した後に、勝つ算段があったと言うことになる。その算段があったからこそ、彼は董卓を殺す決断をしたと言っても良いかもしれない。
(その算段とはなんだ?)
普通に考えれば援軍。と言うか、確固たる援軍の宛を王允が明言していなければ、董卓を殺すという賭けに出ようとする王允に従う者はいなかっただろう。
その援軍を出す人物は、いつ裏切るかわからない董卓軍の残党や、董卓の養子ではあったが一将軍に過ぎなかった呂布が率いる并州勢の一派とは違う人物であり、王允に味方する者もその価値を認めるだけの人物でなくてはならない。
(朱儁? 皇甫嵩? 違うな。両方とも、王允よりも評価が高い人物だ。嫉妬深く、疑り深い王允が無条件で認める人物ではない。ならば……)
この時点で李儒の脳裏に一人の人物の名が浮かび上がるも、李儒はまだ断定をせずに、考察を続ける。
(董卓による害悪の実例として広く挙げられるのは、少帝の廃嫡と殺害、民(名家)の殺害、長安遷都、そして貨幣価値を破壊したとされる董卓五銖銭だろう。この中で董卓五銖銭だけが特に異質だ)
確かに伝え聞く董卓の人間像であれば『足りないなら作れ』だの『銅の比率を少なくして数を増やせばいい』だのと言ったことは言いそうだし、誰かにそう献策されたら、それを認めるようなところはある。
しかし、貨幣がその価値を落とすのは、その貨幣が世に出回ってからだ。董卓が郿城に入ってから一年足らず。その間にどれだけ作られたか分からないが、少なくとも世に出回り、浸透するには時間が足りな過ぎる。
そもそもの話だが、董卓に銭の話をしたのは誰なのだろう?
生粋の武官で、かつ辺境域の王でもある彼には経済的な感性など存在しない。そう断言できるが故に、董卓が自力で銭の不足に気付くことなどありえない。
もっと言えば、董卓にとって銭とは、食料や鉄と交換できる手段でしかないのだ。よって、極端な話、董卓は銭がなければ羊でも良いし、馬でも、なんなら布でも良いのである。
付け加えるなら、彼が拠点とした郿城には銅銭よりも高い兌換効果がある黄金や財宝が大量に蓄えられていたのだ。そんな中で董卓が銭の不足に憂慮するとは思えない。
ましてや長安には、歴代の陵墓に埋葬されていた財貨に加え、洛陽で名家連中が集めていた財の全てがあったのだ。
つまり長安では、銭は不足していなかったことになる。
で、あれば、銭が不足していたのはどこなのだろう?
(……長安以外の地域、だな)
確かに、洛陽から銭の供給が無くなったことで、関東(虎牢関より東)の地域では銭が不足し、経済状態の悪化も見られていたのは事実だ。
だが、考えても見て欲しい。時は治世ではなく乱世であり、さらに世は地域の情報がリアルタイムで手に入る近代ではなく、後漢の末期である。
そんな中で『漢全体に銭が不足しているために経済が悪化している』ことを理解できる者がどれだけいるだろうか?
大抵の人間はこの不景気を『戦乱のせい』と取るだろう。実際、あの万能の天才である曹操でさえ、魏国を作るまでは経済に手を出してはいない。この時代はそういう時代なのだ。
しかし、董卓に銭の不足を訴え、銭を改鋳させた者が存在することは歴史が証明している。
ではその存在が居たとして、だ。
この時代に漢全土で銭が不足していることを認識し、董卓に対して対処の必要を訴える程の者が、わざわざ銭の価値を落とすような粗悪品を作るだろうか? と言う話になる。
(無いな。むしろ意図的にインフレを起こして経済的に董卓を、否、郿城に篭った董卓には潤沢な資金があったはずだから、狙いは董卓以外の連中だな。そいつらを経済的に絡めとろうとしたと考えるのが自然だろう)
もちろん、単純に銅銭の価値に気付かなかった場合もある。だが李儒には相手を過小評価する悪癖はないし、策士とは最初に相手が最悪の手段をとって来ることを前提に策を練る者。
よって李儒も最悪の状況を想定する。
(考えてみれば、数年、下手すれば数十年単位の策だが、董卓の年齢や、王允を使嗾して董卓を亡き者にする計画と併用することを前提とするならば、それほど荒唐無稽な策と言うわけでもない)
前提条件が整っていれば、十分に効果的な策。李儒は経済の専門家ではないが、知識があるが故にこの策の怖さを正しく認識する。
(では、この策を企んだのは誰だ?)
後に銭以外での納税を認めた曹操? 否、あれは突発的に青州兵を得たことや、蝗害などで民衆から税を得ることが出来なかったことから発令された、ある意味で窮余の策である。さらに曹操には経済的な地盤が無いため、そんな真似は不可能だ。
では袁紹や袁術か? それも否。確かに連中には貯め込んでいる財がある。楊彪と言う長安に繋がる窓口もある。だが連中に経済戦争なんて構想があるなら、曹操との戦に負けることはなかったはず。
と言うか、袁家の周囲に居るのは、彼らの財に惹かれた武官もどきの破落戸や、先代である袁逢や袁隗の名の下に集まった清流派の面々が主体である。前者はともかく、後者の、実質袁家を運用している連中は、銭を『卑しいもの』としか考えていない連中だ。
よって彼らが今回のように銭を使った策を容認することはない。それどころか、この策の有用性を理解しようともせず、献策した者を貶した上で即座に廃案とするだろう。
(残る可能性としては、交州に在って独自の経済感を持っていた士燮。しかし彼は既に孫堅によって殺されているし、前世の史実でも彼が長安に関わっていたようには思えない。ついでに言えば長安への援軍を出せるような立場でもない。後世、蜀を強奪した劉備に献策し、銅銭を造らせた劉巴と言う人材もいるが、現在の劉巴は長安に援軍を出せるような立場にない)
あえて本命以外の人物を挙げていくことで選択肢を広げようとする李儒だが、ここまでくればもう確定したも同然である。
(……やはり奴、か)
一人居るのだ。
早くから洛陽から距離を置き、何進や十常侍の争いを傍観していた群雄が。
領内で発生した、後に一〇〇〇の兵を派遣して鎮圧出来る程度の乱を理由にして、黄巾の討伐に参加しなかった群雄が。
反董卓連合に参加せず、董卓と連合軍の争いや、その後の袁紹と公孫瓚。劉表と孫堅と袁術らの争いを傍観しつつ、ただひたすらに力を溜めていた群雄が。
長安にいる己の子を使って王允の名誉欲を煽りつつ、董卓亡き後、王允の後ろ盾となっても周囲に非難されず、むしろ認められる群雄が。
銭のインフレを引き起こして政権の信用を失わせつつ、社会不安を生み出しながら、数年後にそれを鎮める手段を持つ群雄が。
王允が董卓を殺した後、不自然とも言える速さで動かんとした群雄が。
李傕と郭汜が王允を殺した後、馬騰を動かし、彼らに挑ませ、そして彼が敗れたせいで全ての構想が狂った群雄が。
それは、兵権を持つ州牧制度の復活を霊帝に進言した者。
それは益州牧となって銅の産出地域である巴蜀と漢中を握った者。
それは董卓亡き後の長安を落とし、帝を奉じるか事故死を装って帝を廃した上で、長安近郊にある上林苑を手にすれば漢を一手に握ることが可能だった者。
それは馬騰が長安での戦で李傕や郭汜に敗れなければ、互いに食い合い疲弊していた群雄を平らげることも、経済的に縛ることも可能であった者。
「見つけたぞ。……貴様が諸悪の根源か」
――その群雄の名は、劉焉。
宗室の一員と認められているが故に幼き帝の後見人として相応しく。彼を頂点とした政治機構の中に入ることが出来たなら、蔡邕ですら『王允の行いは全てが漢への忠義の為であった』と、記すことになるであろう人物である。
と、いうわけで、サブタイの諸悪の根源は劉焉=サンのことでした。
過去のお話で王允=サンと接触したのも、王允=サンに銭の話をしたのも彼の使者(子供)です。
実際董卓と王允の周りは時系列が色々おかしいんですよね。
まぁ1800年前のことですし、歴史は勝者が作るものですから、当時の真実は誰にもわかりません。だからこそ、それぞれの作者さんが描く考察が面白いと思いませんか?
え? 予想していた? ネタバレは口にしないのが鉄則ですので、心の中でお願いしますってお話
―――
用語解説。
上林苑:元は前漢の時代、都であった長安の南に造られた皇帝のための別荘や設備群がある荘園のこと。漢で使われていた五銖銭を製造する施設がある。後漢時代には洛陽の付近にあった。
董卓五銖銭:董卓の失政を語る上では欠かせないもので、董卓が造らせたと言われる五銖銭のこと。それまで漢が製造してきた五銖銭よりも銅の含有率が低く、造りも粗雑であったため、悪銭として認識された。後漢末期~三国時代に於いて超インフレを発生させた実績を持つ銭。ある意味で歴史の先駆者である。
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