3話。王允の妄執
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皇帝の喪開けを再来月に控えたこの時、議郎にして皇帝の側近である司馬懿が単身 (当然護衛は伴っている)長安に入り、父である京兆尹・司馬防との会談に臨んでいたころ。
「弘農から議郎……司馬懿が来た、だと?」
当然のことながらこの情報は、即座に長安を実効支配している王允の下に届けられていた。
「はっ。彼は丞相府に対して丞相殿下との面会申請を出した後、その足で京兆尹へと向かいました」
「ほう……」
とは言っても、元々司馬懿は丞相である劉協への面会の要請をしているので、黙っていても王允の下にその情報は届けられていたであろうから、そのこと自体は特に驚くようなことではない。
それはそれとして。王允にとって問題なのは、司馬懿の来訪の理由と、申請の内容である。
普通に今回の司馬懿の動きを推察するならば『丞相殿下と即日面会出来るはずもなし。ならば待たされている間に父親に挨拶をしよう』と言う程度のことでしかなく、深読みするようなところは何もない。
荀子の徒である司馬防は司馬懿のこの行動を不義不忠と見て叱責したが、現在の漢に蔓延している儒教的な教えでは『父であり家長を重んずるのは当然のこと』であり、さらに議郎とは言え『13歳の少年が父に優先的に挨拶をすること』も、また当然のことなのだ。
故に。通常であればそれを問題視するような人間はいない。
……後暗いことをしている自覚が有る人間以外は。
「司馬懿と言えば、陛下の側仕えにして太傅の直弟子。つまりは陛下と同門と言うことだろう? それが面会を申し込んできたと言うのなら、丞相殿下とて最優先で会わねばならぬはずよな」
「はっ。おっしゃる通りかと」
「にも関わらず通常の手続きだけを済ませて京兆尹と会談、だと? 太傅め。一体何を企んでいる?」
今回司馬懿は正式な手続きを取っただけなのだが、後暗いことが多数ある王允らにかかれば、それだけでここまで警戒されてしまうのだから、皇帝を擁する太傅と言うのが彼らにとってどれほど厄介な存在なのかが良く理解できる事例であると言えよう。
まぁ司馬懿も彼を長安に送り込んだ太傅も、それを知った上でこのような動きをしているのだから、どちらの性格が悪いのかは推して知るべし。と言ったところだろうか。
一応補足をするならば、確かに司馬懿が『皇帝からの使者』つまり『勅使』であるならば、正式な手続きも順番待ちも何もかもをすっ飛ばして、最優先で丞相の下に通されるのは当然の話である。
しかしながら、本来その使者を出すことが出来る皇帝劉弁は現在喪に服している最中である為、公務としての使者を出すことが出来ない。なので今回の司馬懿の立場は『勅使』ではなく『(皇帝陛下から内諾を受けた)太傅からの使者』であるということになる。
それを加味した上で考えれば、今回の司馬懿の手続きによって丞相府には二つの選択肢が突きつけられた形となったと言えよう。
すなわち、司馬懿を『皇帝の使者』として即座に迎え入れるか。はたまた申請を額面通りに受け取り『太傅からの使者』として順番待ちをさせてから迎え入れるか。である。
通常なら、内諾だろうとなんだろうと皇帝の意思を確認できる立場にある太傅が、皇帝の弟である劉協に出した使者である以上、皇帝の意思が無関係と言うのは考えられないことなので、司馬懿を『皇帝の使者』として即座に迎え入れるのが正しい選択だろう。
だがしかし、繰り返して言わせてもらうが、現在皇帝劉弁は喪に服している最中なのだ。
つまり、司馬懿は『勅使』では無いのだから、彼を待たせても(待たせるとは言っても当然優先して通すことになるが)皇帝に対する不敬にはならないし、当然罪に問われることも無いわけだ。
それでも現代の日本人的な価値観があれば『いや、ここで待たせても自分に得なんかねーだろ』と言うことで即座に通すのだろうが、色々世紀末の後漢末期の名家的常識はそんな簡単なものではない。
では何があるのか? と言えば……今風に言えば『マウント取り争い』があるのだ。
なんというか、一般的に考えれば非常にくだらないことではあるが、変な方向で名誉を重んずる風潮にあるこの後漢末期の名家にとって『これを軽んずることは死活問題に直結する』と言っても過言では無いほどの重要事項である。
今回の場合、具体的に言えば『実質的に丞相府の権限を握っている王允が、実質的に皇帝を擁する太傅からの使者にどのような態度を取るのかを見られている』と言ったら理解しやすいだろうか。
もしここで王允が、太傅からの使者である司馬懿を下にも置かぬように遇すれば、現在王允に味方している名家や軍閥の連中はこぞって太傅の傘下に加わろうとするだろう。
……実際官位官職の序列から言えば太傅は三公を凌ぐので、それも間違いではないのだが、派閥争いと言う意味では最悪である。
特にこれまでの王允や楊彪は『劉弁の喪が明ける前に』と、幼い劉協に対して様々な意見具申や陳情を行っており、それを承認させることで様々な権益を得ていると言う事情がある。
そして、これからその総仕上げとしてラストスパートをかけようという時に、太傅に情報が流れたり、劉協への上奏を封じられてしまえば、これまで王允らが諸侯に出している空手形が空手形のままで終わってしまう可能性が非常に高くなると言う懸念もある。
それも今決定できるならばまだ良い。なにせこれから劉弁が皇帝として復帰したとしても、その代理として丞相である劉協が一度承諾したことを覆すことは簡単ではないのだから、空手形はしっかりと有効となるだろう。
……正確に言えば、皇帝の勅命こそ何よりも優先されるべきことなので、劉協の決定を覆すこと自体は簡単なのだ。しかしながら、それをやってしまうと自身の喪中に代理として働いていた劉協や王允、楊彪など諸将の顔を潰すことになる。
それは自身の弟や長安の有力者の影響力を下げることに直結するので、たとえ皇帝であっても、劉協が認めたことを簡単に反故にすることが出来ないと言うのが正しいところであるが、それら細かい言い回しに関しては、今は置いておこう。
今の問題は、自身の面目や皇帝の弟の面目を人質とすることで各種政策を行っている王允にとって、この時期に皇帝 (の側にいる太傅)からの使者が来ると言うのが、どう考えても良いこととは思えないと言う事だ。
「……陛下の側に在ることを良いことに陛下を誑かす若造が。奴は一体何をするつもりだ?」
王允にとって李儒と言う男は『今は亡き何進の影響力を不当に使い、宦官でも外戚でもないくせに太傅と言う官職に就くことで、皇帝の側に侍りながら皇帝を私している』と言う暴挙を為す若造であり、ある意味で皇帝の権威ありきの宦官や外戚よりもたちが悪い存在である。
また彼の存在は自身が必死で支えている (つもりの)漢と言う国の秩序を軽んじ、現在進行形で破壊している存在と言っても過言ではないとさえ思っていた。
加えて王允にとって我慢ならないことがある。
それはこの三年間、他の諸侯が挨拶や御機嫌伺いに来る中で、李儒は、否、弘農の連中は、一度も自分たちに対して挨拶やご機嫌伺いの使者を送ってこなかったと言う事だ。(劉協に対してはしっかりと時候の挨拶など行っている)
つまり、李儒と言う男は、自分や楊彪など眼中にない。と行動で示していることになるのだ。
これは名誉欲や承認欲求の強い王允にとって、まさしく顔から火が出るほどの屈辱である。
(なんたる不義! なんたる不敬!)
年上の人間を敬うことを知らぬ若造が、どうして太傅などになれようか!
これまで王允は、何度も平民出身の何太后や、右も左も分からぬ子供の劉協に対してそのことを告げ、太傅を解任させようとした。
しかしそれは両者の反対もあって今も叶っていない。
このことも王允にとっては『こうして傍らで支える自分よりも、弘農でのんべんだらりと生活している若造が大事か!』と屈辱に感じる要因の一つであった。
結果として王允の中で李儒と言う男は
偶然、袁紹に狙われて逃げ出したところを保護しただけ。
偶然、何進の股肱の臣と言う肩書きが有っただけ。
偶然、反董卓連合が弘農にたどり着く前に自壊したと言うだけ。
それ以外にも様々な『偶然』が重なっただけで皇帝の保護者を気取る、まさしく身中の虫であった。
「元服前の子供を使って何をするつもりか知らんが、今更若造の好きにはさせんぞ!」
漢を支える忠臣を自認する王允は、義憤に震えながら弘農がある東へ殺意ある視線を向け、そう言い放つ。
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幼き丞相を傀儡として政を壟断して有為の人間を罰し、政治と経済の状況を悪化させ。
皇帝が名指しした逆賊に対して勝手に恩赦を約束して懐に入れ、自身の派閥を強化し。
結果として洛陽を焼くことで出し切ったはずの名家と言う蛆虫を活性化させる地盤を築く。
これらのことから皇帝劉弁からも『その存在が漢を腐らせている』とまで断じられていることを知らぬ王允は、己の行いの全てを正しいものと疑わず、それどころか『己の邪魔をする太傅こそ悪』と断じ、ただ一人で義憤に燃えていたと言う。
忠義の司徒にして、王佐の才の持ち主。更には一日で千里を走る男、王允。
作者の中では、董卓から政治を任されておきながら政治、経済、外交。その全てに失敗した男ですね。
彼が正史に於いて何をしたのかは……まぁググって下さいってお話。
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