2話。プロローグ的なナニカ②
またまた短め。
文章修正の可能性有り
誠に申し訳ございませんが、あらすじにも書いてあるように、展開予想やそれに繋がるような読者様の考察が入った感想は消させて頂きますので、ご了承下さい。
初平三年(西暦192年)3月下旬 京兆尹。長安。
三月中旬に劉弁からの親書と李儒からの親書を携えて弘農を出立し、長安に入った司馬懿はその足で自身の父が勤める京兆尹の執務室を訪れ、久方振りに会う父親と挨拶を交わしていた。
「お久しぶりです。京兆尹殿におかれましてはお変わりないようで何よりです」
「誠に久しいな。お主は随分と変わったようだが……まぁ五年も会わねばそれも当然か」
「はっ」
そう。司馬防が司馬懿に対して言ったように、この親子が邂逅するのは久方振りどころではなく、実に五年振りのことであった。
ちなみに五年前と言えば司馬懿は八歳の時である。
つまるところこの司馬懿と言う少年は、李儒に弟子入りしてからと言うもの一度も郷里に帰省しておらず、両親にも顔を見せて居なかったと言うことである。
これは孝徳を重んじる儒教的には間違いなく問題ある行動と言っても良いだろう。
「うむ。それにしてもその歳で議郎とは、随分と買って頂いたものよな」
しかし司馬防はそのことを咎めるでもなく、現在13歳の息子が正式な官職を持って皇帝の側で働くことに感慨深く頷くだけであった。
「はっ。太傅様を始めとした皆様には良くしてもらっております故」
そしてその父の言葉に対して、臆面もなくこう言い切る司馬懿はやはり色んな意味で異常であると言えよう。
「そうか。後で某からも太傅様には礼を述べさせてもらおう」
「はっ」
そんな息子を見て一つ頷き、司馬防は当たり前のようにこの場に居ない李儒に感謝の言葉を述べる。
これが五年振りに会う親子の会話であると言うのだから、実に心温まる家族仲である。
ちなみにこの時の二人は両者共に席に座っておらず、立ちながら、更に無表情で挨拶を交わしているので、もしこの二人の様子を董白などが見たならば『あんたら本当に親子なのよね? もしかして、仲、悪いの?』と真顔で両者の仲を心配するであろう光景であるのだが、コレが司馬家の平常運転であるので、断じて彼らが不仲と言うことではない。
いや、まぁ、一応今回は司馬防が司馬懿の立場を慮って自分から席を立っているので、ある意味では平常運転とは違うのだが、これに関しては他者から見たら些細なことだろう。
そんな『ウチはウチ、他所は他所』を地で行く司馬家親子の交流模様はともかくとして、今はまだ挨拶の段階。本題はこれからである。
「それで、だ」
しかし、司馬懿が本題に入る前に司馬防が声を掛ける。
「はっ」
ある意味で機先を制された形になるが、司馬懿としても別に司馬防と競っているわけでもないので、大人しく司馬防からの言葉を聞くことにした。
そうして自身の言葉を聞く姿勢を取った司馬懿に対し、司馬防は数年振りに顔を会わせた息子の成長を見て僅かに目を細めるも、すぐにその表情を厳格なものに戻して己の目の前に立つ息子を叱責する。
「陛下のお側仕えである議郎となったお主が、初めに私に挨拶に来るとは何事か。無論、何かしらの故有っての事なのだろうが、それでもまずは丞相殿下へのご挨拶を先にするべきであろう」
彼の価値観で言えば、司馬懿が単純に自分に挨拶をする為に来たと言うわけでは無いことを理解した上で、息子が父親に挨拶をするのは孝徳の上では正しいことであるが、所詮それはいつでもできる私事であり、議郎が丞相と挨拶を交わすと言う公務を差し置いてまでするべきことでは無い。と言うことになる。
当時の士大夫層に広がっていた儒教の教えは、公務よりも私事を優先すると言ったものが大半であり、旱魃や疫病など、国家に都合の悪いことが有れば「天子の不徳が原因だ」と喚く者が大半であったが、この司馬防と言う人間はそれらとは違って荀子の原理主義に近い思想を持っており、まず優先すべきは『礼』であり、次いで実力や成果を見るべし。と考える人間であった。
この考えが有ればこそ、司馬防はこれまで一度も帰省せずに弘農に留まった司馬懿の行動を『師である李儒や喪中の劉弁に対して『礼』を欠かさぬ行為』として捉え、本来家族が集まるはずの年末年始でさえも帰省せず、自身や母への挨拶を怠っていることにも文句を言わないのだ。
そんな司馬防の価値観から行けば『私的には太傅の下で皇帝と共に勉学を学ぶ同門の学友にして兄弟子であり、公的にも議郎として皇帝の側に侍る人間が、皇帝の代理として政を行う丞相より先に、京兆尹でしかない自分に挨拶に来る』など断じて有ってはならないことなのである。
普段ならば、父であり家長である司馬防にこのように言われてしまっては、司馬懿は己の無作法を謝罪をするしかないだろう。しかし今回、司馬防からそう告げられることを理解していた司馬懿は、彼の言葉に一度頷くも、毅然とした態度で謝罪ではなく反論を行った。
「然り。本来ならば京兆尹殿が仰ることも間違いではございませぬ。しかしながら此度の訪問はその例に当てはまらぬと考えております」
「……ほう」
反論するならその根拠を述べよ。そう視線で訴えられた司馬懿は、その態度を変えぬままに言葉を紡ぐ。
「此度某は太傅様からの命を受けております。それ故、敢えて丞相殿下よりも先に京兆尹殿の下を訪れた次第でございます」
「……太傅様の命、とな?」
「はっ」
偽りや韜晦は許さんと言わんばかりに自身を見据えた司馬防に対する司馬懿からの反論は『帝の側近たる議郎が丞相と挨拶を交わすのも公務なら、太傅の使者として京兆尹に会うのもまた公務』と言うものであり、同時に儀礼でしかない前者よりも後者を優先する必要が有ると言うものであった。
また劉弁が先帝の喪に服している現在、師と言う立場故に公然と劉弁と接触出来る数少ない人間である太傅からの命令と言うのは、表立って公務を行えない皇帝の意を反映したものである可能性が極めて高い。
と言うか、可能性云々どころではなく、そのまま皇帝からの内示と判断するべき内容であった。
こうなると、基本的に『礼』を重んずる司馬防には「自分はその『礼』を捧げられるべき対象である皇帝の意を酌んで動いている」と言い切った司馬懿の言葉に反論する術は無い。
「納得頂けたところで、まずはこちらをご確認下さい」
こうして司馬防の反論を封じた司馬懿は、京兆尹を訪れた主題の一つである『司馬防から反論されるような空気を潰しつつ、書状を渡す』と言う目的を達成させることに成功したのであった。
ちなみにもう一つの主題は『家長である父への挨拶』であったが、それは冒頭の挨拶で既に終わっているので問題はない。
……董白が見れば『え?本当にそれで終わりなの?!』と絶叫するほど淡泊なものではあったが、それこそ『ウチはウチ、他所は他所』であり、司馬家ではこれで問題無いのだから、これで良いのだ。
それでもあえて付け加えることがあるとするならば、一度司馬懿が河内の実家に戻って母親や祖先に挨拶をする必要がある程度だろうか。
しかしその母親にしても『帝の側仕えである司馬懿が自身への挨拶の為だけに帰省』などしようものなら、その場で彼に絶縁を言い渡しかねないようなお堅い人間なので、あくまで『機会が有れば』程度の事である。
このような司馬家の複雑な家庭環境についての言及はともかくとして、司馬懿から書状を受け取った司馬防はその書状を読む為に席に着く……前に、司馬懿に対して席に着くよう促す。
「太傅様からの書状、確かに頂戴致しました。あぁ、使者殿を立たせたままでしたな。不調法をして申し訳ない。只今白湯を持たせます故、一先ずはそちらにお掛け下され」
「それではお言葉に甘えさせて頂きます」
『これまでは親子の会話だが、これからは太傅の使者と京兆尹の会話となる』
そう言う意図を込めて司馬防が司馬懿に席を勧めれば、司馬防の思惑を理解した司馬懿もまたそれに乗って大人しく席に着く。
……こうして二人の会話は、心温まる家族の会話から、次の段階へと進んだのであった。
一行で言うなら司馬懿、手紙を渡す。と言ったところでしょうか。
いやぁどこからどう見ても仲の良い親子の会話ですね。ってお話
司馬防を荀子の徒としたのは、曹操を抜擢したことや、常に愚直に帝の側に仕えようとした感じがあるよなぁと考えた作者の独断と偏見によるものです。
―――
週1更新だと言ったな。
あれは本当だ。
ただ作者が予想以上のポイントを貰ったことで筆が乗ってしまい、今日のうちに書けてしまったので投稿した次第でございます。
ぽ、ポイントが嬉しかったわけじゃ無いんだからね!(チラチラ)
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