1話。プロローグ的なナニカ
久方ぶりの投稿です。かなり短め。
文章修正の可能性有り
初平3年(西暦192年)3月。司隷・弘農
再来月には皇帝の喪が明けると言うことで、今や長安以上に漢の国中の人間から関心を寄せられている弘農に於いて、皇帝である劉弁とその側近と目されている少年、司馬懿がとある打ち合わせを行っていた。
「なるほど。それじゃあ、一度しばいが長安に行って協と母上を連れて来るんだね?」
「はっ。陛下と同門であり議郎である某が、陛下からの私的な書状を持って丞相殿下や皇太后陛下に書状を届け、さらに御二人の移動に付き添うことを妨害できる法はございません。故に、この件については京兆尹である父も異を唱えることは無いと思われます」
「あ~しばいの父上か~。太傅から話は聞いてるけど、すっっっっごく融通が利かないんだよね?」
「……まぁ、そうですね」
司馬懿の父である司馬防は、誰もが認めるガチガチの儒家であり、職場はおろか自宅であっても一切気を抜かず、息子たちと話す際にも子に座らせることは無いと言われるほどに厳格な男である。
李儒の弟子となる前の司馬懿はそれが当たり前のことだと思っていたのだが、今は内心で『あの父は少しおかしいのかもしれない』と思う程度には意識改革が進んでいるようだ。
周囲から厳格と評されながらも、皇帝やその側近となっている息子からはそんな扱いを受けている司馬防の評価についてはともかくとして、重要なのは『彼が邪魔をしない』と言う事である。
元々儒教の教えでは、喪中に一切の公務を行ってはならないと言うものが有るので、今の段階で皇帝である劉弁が丞相である劉協を呼び出すと言うのはよろしくない。
だからこそ今回の呼び出しは私的なものになるのだが、私的な用事で丞相を呼びつけると言うのも当然よろしくはない。
それらの事情があるので、司馬防を始めとした儒教を絶対の指針とする名家の連中が、悪意など無いままに今回の司馬懿の行動に異を唱え、妨害工作を行ってくる可能性は極めて高いとみなされていた。
……基本的に名家の連中など歯牙にも掛けない司馬懿であるが、父である司馬防に妨害されては、さしもの彼とてその動きを封じられてしまうのは仕方が無いことであろう。
だからといって司馬懿以外の人間が両者を迎えに行こうにも、劉弁から私的な手紙を預かることが出来るのは、司馬懿以外では同じく同門である徐庶や、同門であり劉弁の正室である唐后の側仕えである蔡琰になるのだが、徐庶では王允や楊彪と言った連中と向き合うには明らかに格が足りていないし、蔡琰が行けば王允によって妨害をされるのが目に見えている。
ちなみに李儒の場合、彼が動けば止めることが出来る人間などいないのだが、彼の立場上その手紙の内容がどのような内容であれ『帝の公務』と受け取られる可能性があるので、これまた動けない。そう言う名目で彼は弘農でサボ……待機し、劉弁の周囲に居る人間を監督しているのであった。
そんな李儒の個人的な欲求はともかくとして。
このような事情から、現在劉弁の周囲に於いて、計画通りに角が立たぬよう物事を動かすことが出来そうな人材は司馬懿しかおらず、今回その司馬懿が司馬防らを説得できるであろう『とある名目』が成立するこの時期まで、劉弁は劉協や何皇太后を長安から連れ出すことが出来なかったのだ。
いや、と言うか、それ以前の話として、喪が明けた後で劉弁が長安へ赴き、丞相の上に立って皇帝として政務を行えば良いだけの話であるので、本来なら劉弁には劉協や何皇太后を弘農へ呼ぶ理由などは無い。
しかし、劉弁の師でもある李儒は『このまま劉弁が長安へと移れば必ず問題が発生する』と見ていた。それ故に彼は『そもそも問題を発生させない。もしくは問題が発生してもその被害を極力抑える』ことを念頭に様々な方策を練々と練っており、それを逐次劉弁に進言していた。
その進言の内容の一つが『劉協と何皇太后を長安から引き離すこと』であった。
李儒曰く『今まで丞相殿下を担ぎ上げて好き勝手してきた連中が、大人しく陛下を迎え入れるとは思えません。必ずや陛下を神輿にする為に動くでしょう。その前に陛下は連中が動くための名分を奪わねばなりません。また、その際に丞相殿下や皇太后陛下を陛下に対する人質とされないよう手を打つ必要がございます』とのことである。
この意見を聞いた時、劉弁は「心配しすぎじゃない?」と考えたのだが、司馬懿や蔡琰は「王允ならやりかねない」と判断し、劉弁に対して『用心の為です。何事も無ければそれで良いではありませんか』と言って今回の件を推し進めていた。
重ねて言えば、劉弁も王允や楊彪と言った連中によって傀儡とされる可能性も無いわけではないと言った事情もある。
……確かに今の劉弁は己の進むべき道を見出してはいない。
だが彼は現時点で傀儡になる気は毛頭ない(それも李儒や司馬懿ならともかく王允如きの傀儡になる気は更々ない)と言うことも有って、今回は一応、念のために自身の弱点となり得る弟と母を弘農へと避難させることを認めており、同時に股肱の臣である司馬懿を長安へと送り込むことも認めていた。
ちなみに司馬懿が長安へと赴く名目は、父親であるが同時に京兆尹である司馬防への御用伺いと言う名の公務であるので、弘農にいる陛下を放置して司馬防の前に顔を出したからと言って、司馬懿が叱責されるようなことは無いと思われているのだが……まぁそれに関しては親子の間のことなので触れないでおくのが優しさであろう。
兎にも角にも、弘農にいる者たちは、喪が明けた後に劉弁の行動が制限されることを好ましく思っていないことは確かである。
そして如何なる事情が有ろうと、特に『儒の教えに反する』などと言った寝言を以て劉弁の行動を妨げるような存在は、劉弁の不興を買うだけではなく、李儒からも『不要』と断じられてしまうのは目に見えている。
そして司馬懿が知る李儒と言う人物は『不要』と断じたモノに対して一切の容赦をしない人間であった。
このことを誰よりも良く理解している司馬懿は『何としても父に自分たちの邪魔をさせる訳には行かない』と考えており、最悪の場合は家の存続の為に父である司馬防を殺す覚悟すら決めていた。
劉弁の為、漢の為、そして司馬家の為。
その小さな胸に様々な思惑を秘め、司馬懿は潜在的な敵地と言える長安へと単身で赴くのであった。
プロローグだから短くてもしょうがないね! と、自分に言い訳しつつ投稿。
司馬懿が表舞台に出るのが早すぎる? 何を今更ってお話。
―――
192年現在の登場人物の年齢。
司馬懿:弟子。西暦179年生まれの13歳
徐庶 :弟子。司馬懿の4つ上で17歳
劉弁 :皇帝。何后の子供。拙作では176年誕生説を採用したので16歳
劉協 :王美人の子供。劉弁の弟。181年生まれの11歳。丞相として長安で皇帝の代わりに書類に判を押す仕事に明け暮れている
蔡琰 :蔡文姫の方が有名。西暦177年生まれの15歳
唐后:唐姫の方が有名。劉弁の正妻。劉弁と同い年の16歳
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中々更新が出来なくて申し訳ございません。
一応、これからは土曜か日曜に週1での更新を予定しております。
……出来たら良いなぁ。
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