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私たちはちょうど始まったばかり

作者: 鱒子 哉

 窓のそとは、時間も遅くなり暗くなってきたことと、渋滞のせいで、もうずっと変わり映えがなくなっていた。それに見飽きて、左に座る託人に目を切り替えると、前に停まる車のテールランプで顔から首元まで真っ赤に染まっていた。乗る直前に飲んだ鎌倉ビールの酔いはすっかり醒めきっているみたいだ。

 同じサークルや部活でもなく、教養の類の授業で知り合った四人なだけに、共通な話題というのは殆どない。あったとしても、この旅行でしぼりきっていた。耳当りのいい穏やかなラジオがだらだらと自由に流れている。

 疲れのせいかぼうっとしている託人に、何か話を振ろうか――。侑二は、またなんとなく目を外に戻して肘をかけると、てろん、と自分のスマホが通知音を発した。

 運転している修也以外の二人――侑二の左前に座る健はすっかり眠り込んでいると思ったのに――がそろってこちらを向いた。

「彼女か」

 健がにやにやし始めた。

 違うと思うけど、と侑二は言い、グレーのツイードジャケットの右ポケットから大きくて薄い四角を引き抜く。酔いやすいからあまり画面は見たくないんだけど。

「明日のお昼、久しぶりに一緒に外でとりましょう」

 区切らずに一息で送ってくるあたりに透子らしさを感じる。わかった、と返して顔を上げると、健はまだ座席の間からこちらを見ていた。

「当たりだったのか」

 本当に驚いたように託人が言う。まだ何も言ってないのに。

「リア充は羨ましいね」

 四人のうち唯一彼女のいない健は、あらかじめ配られた台本があるかのようにそう言って、前に向き直った。この状況を傍から見れば、外国映画のいじめっ子に囃される構図だ。

「健は理想が高いから」

 ウインカーを光らせながら、優しい声で修也がなだめると、健は後ろにも見えるように肩の上でぴらぴらと振ってみせた。直接見えなくても、今の健の表情が手に取るように分かる。

 また――とそう言って健はさっき途中で買ったお菓子の封を開く。

「また、変な内容だったの?」

「変じゃないよ」

 侑二はなるべく笑みを込めて言い返す。

「ああ、変わってる、だ」

「いや、明日の昼食べようって」

 ふーん、と健は不満そうにお菓子をほおばりながら、乱雑に話を切り上げる。逆に怖いよな、と修也は健に向かって笑った。

 確かに、侑二の彼女は変わっている。でもきっと、それは悪いことじゃないと思っている。普通のカップルとは距離感というかスタンスというか、そういうのは明らかに違う。それでも良い。こう透子が望んでいるのだとしたら。プラトニックなんて、良い響きじゃないか。

「まあ、侑二も変わってるとこあるもんな」

 託人はこの四人のうち一番仲がいいだけに、たまに侑二の扱いが雑だ。けれど誰も否定してくれなかった。

「そろそろケンカかな」

 修也が、どうせ思ってもいないことを口にする。健はまた振り向いて、期待してるぜ、と表情で訴えかけてきた。

「全く心当たりがないよ」

 高校三年の秋と冬の間に付き合い始めて、もうすぐで三年になるのに、侑二と透子は一度もケンカをしたことがない(透子が不機嫌になることはあるけど)。自慢と言えば自慢になるのかな。

 ふたたび外を見ると、いつの間にか渋滞はとっくに解消していた。四人は夜に紛れてぐんぐん進む。大学生らしい、半突発的小旅行も終わりが見えると、最初は渋っていてもすこしは寂しくなるもんだな、と一人感心していた。


 良好な大学生活。私の成績やスケジュールを見れば、誰もがそう判断するだろう。

 どちらかというと真面目でない人の方が多いなかでそれを保つのは並大抵のことじゃない、といつか彼は言ってくれた。こんなチープな褒め言葉にも、昔はすっかり嬉しがっていた。

 それでも、学生という身分である以上それは義務であり、そうあるべきなのだ、と言い聞かせる。

 ベルも鳴ってぞろぞろと人が出て行く教室でゆったりと時計を見ると、待ち合わせまでちょうどいい具合だった。

 透子と侑二は同じ大学ではなかったけれど、偶然にも最寄り駅が一緒だった。かといって毎日会うわけでもないのだけれど。

 でもこのくらいがちょうどいいのだ、と透子は長らく感じていた。同じ大学だなんてきっと息がつまってしまう。お互いがその気になったら会える、ちょうどいい距離。

 透子は、もうずっと使い続けている黒いリュックサックの口を開き、机の上に出していたものたち――安価な紙に刷られたプリントに、布製のペンケース(同じく黒の)――をしまい込んで、ぴちっとした浅い色のスキニージーンズが机と机の狭い間をするすると抜ける。

 透子が講義を受けていたこの棟なんかはとくに古い。だから廊下に立ちこめる匂いは昔――といっても具体的にいつかは思い出せない――を彷彿とさせる。いつものクセで早足になってしまうのを抑える。ゆっくり歩いたって十分ほど前に着くんだから。

 それに、これから合う予定の喫茶店は透子が提案したところだった。通いつめてはいないものの、何度かは行ったことがある。

 透子と侑二の間には、誘った方がお店を決める、という暗黙のうちのルールがあった。だからもちろん、侑二が決めるときもあったのだけれど、それは駅を出て目の前だったり、どこにでもあるような大手チェーンだったりと、言ってしまえばセンスがなかった。透子にとって侑二の一番の短所は、そのセンスの無さだった。

 ところどころに小さい水溜まりがあり、それに陽が反射する。こう湿っているのは嫌だけれど、キラキラしていてのぞき込むと中に空があるところが、透子は幼い頃から好きだった。道路も、その水溜まりの中も同じように汚いはずなのに、どうしてそこに映るのは、綺麗に見えるんだろう。

 横断歩道もあるのに、透子は歩道橋を使う。下よりも少しだけ澄んだ(気のする)空気を深く吸い込む。やっぱり、下は息苦しくっていけない。透子はまるで水を得た魚のように、いきいきとし始めた。


 ほんとうに遭難してしまうのを避けるために、侑二は進んでみては戻り、また別の道を選んでは戻り、を繰り返していた。

 こうなることは全く予想ができていた。だから待ち合わせまで二十分も早くその周辺にきていたのに。けれど、こうなってしまってはその余裕は一切感じられない。

 侑二が軽度(と自分では固く信じている)の方向音痴だということを、透子は忘れてしまったのだろうか。あったとしてもほんのちょっとした差でしかないのに、どうしてそこまで「カフェ」にこだわるのだろう。駅前なんて分かり易くていいのに。

 いい加減音を上げたくなった侑二は、スマホを開いて透子に助けを乞おうとすると、聞き慣れた、というよりは耳が歓迎している声がした。

「侑二君」

 聞こえた方へ首から向けると、会えて嬉しい、というよりは困惑の表情を浮かべていた。けれどそんなことより侑二は自分がもうすぐゴールに近かったことを悟り、安堵で声が出なかった。

「どうしてここにいるの」

「どうしてって」

 透子が指定したんじゃないか、と言うも、その言葉から攻撃性をなくそうとしたせいで語気が弱くなってしまった。

「ばか」

 そう言うと、透子は下を向いてくつくつと静かに笑いだした。

 侑二はその問いの意味と、どうして透子は笑っているのかが分からず、戸惑うことしかできなかった。

「侑二君の大学から来たのだとしたら、こちら側に来すぎよ」

 つまり、侑二が道に迷っていたことが透子にバレてしまったということだが、これを侑二がきちんと理解したのは、「さあ行きましょう」と透子に連れられ、来た道を戻ってしばらく経ってのことだった。

 侑二と透子では、お金の使い道が全然違った。そもそも侑二は、お金が入る前からその先を決めていた。言ってしまえば内向的で、急に用事ができるのも、急にお金が必要になるのも嫌った。

 対して透子は全く外交的だった。急なことは嫌がるどころかむしろ歓迎して楽しんでいるように見える。そんななかで「カフェ巡り」もその使い道の一つだった。侑二にとって透子の一番理解できないところは、ひょっとするとこれかもしれない。

 小ぢんまりとしていてまるで透子好みなここは、茶色がベースとされていて心なしか木のにおいがした。

 一番奥の席に案内されて、ゆっくりと腰を下ろすが早いか、

「ここはオムハヤシが絶品なの」

 と透子は嬉々として教えてくれた。そう、と返しながら、こう雰囲気のあるカフェに耐性の薄い侑二は、注文がそれで決まったも同然だった。

 ずいぶん悩ましげな表情を透子はしていたが、決めるのにはそう時間をかけなかった。よほど楽しみなメニューなのか、珍しくそわそわしている透子を横目に、侑二は手を挙げた。

 すぐにウェイトレスがやってきて、侑二は透子に手を差し出した。五種のきのこクリームパスタ、と注文していた。そう聞くと、侑二はオムハヤシよりもそっちを食べたいような気がしてきた。

 食後のドリンクまで確認し終えて、ウェイトレスは元の位置へと戻っていった。今更ながら、侑二は椅子のサイズに窮屈さを感じ始めた。

「ここは何度目なの」

 もしかするとほんとうに気まぐれかもしれないけれど、侑二は透子が今日誘ってきた理由を早く知りたくて仕方がなかった。とはいえ単刀直入に訊ねることは、侑二の性格上できるはずもなかった。

「そうね、三度目くらいかしら」

 透子はそう言って口で笑みをつくった。もう目論見がバレているのかもしれない。

 ここは遠回し戦法を断念するしかないのか、と思いつつも切り口を見いだせずにいると、

「ねえ、人ってほんとうに死ぬと思う?」

 と、さながら愉快犯の口ぶりで、それでも侑二と透子の間にあった空気は保ったまま、新しい話を持ち出した。とういうときの透子に、話題の否定なんか通じないことは既に学習済みだ。

「そう言われてみれば確かに、実感したことはないね」

 そうでしょ、とこの返事を待っていたかのように透子はうなずいた。

「私なんて、親族で近しい人ですら誰も死んでいないのよ。実はファンタジーでした、なんて言われても信じてしまうかもしれない」

 やっぱり怖ろしい人だな、と少し引いて見ながらも、言われてみれば……なんてつられている自分には閉口してしまう。

「お待たせいたしました」

 いっぺんに二人分の皿を持ってウェイトレスがやってきた。熱弁を遮られて機嫌を損なったか、と透子の表情を確認する。

「やっぱりいい匂いね。冷めるとすぐに固まってしまうから早く開いた方がいいわよ、それ」

 透子はそれどころかより上機嫌になったみたいだった。そうだね、とテーブルの中央に置かれた大きいステンレス製のスプーンを一つ手に取り、オムハヤシに線を引く。それは自然と全体に広がっていき、それを見ると侑二は何だか卵に悪いことをしてしまった気になった。

 いつものことながら、透子は黙って食事をする。いわく会話を楽しむのと食べる楽しみは別物、らしい。食べている間なんてたったの一度も目が合わないくらいだ。

 猫舌のせいで苦戦しながらも、しっかり全てを腹に収め込んだ。透子の皿を見ると、もうすっかり空だった。

「透子のおすすめは外れがないね」

 そう言うと、透子は分かり易く嬉しがった。こういうところをもっと見せれば、人付き合いも変わっていきそうなのに。

 はっとしたように、透子は下を向いた。そろそろ出る頃合いかな、と侑二はテーブルの真ん中よりも少しだけ自分寄りに置かれた伝票へと手を伸ばす。

 ねえ、と透子はまだ下を向いたまま声を発した。

「ねえ、今度侑二君の家に行きたい」

 そう言いきると、透子は顔を上げた。甘えるような声でも、ただ好奇心に駆られただけのようにも見えなかった。

「畳でよければ」

 侑二は、自然な不自然さ、をもって言った。私がこう言ってくるなんて思いもよらなかったんだろう。

「タイルよりはいいわ」

 透子はちょっとからかうようにそう返して、取られかけていた伝票をさっとつかんだ。


 電車のなかで十分に温まった身体も、駅を出て大学の正門に着くまでには冷えに冷えていた。門からのびる広い通りには銀杏がまき散らされていて、踏み入れる前から強烈な臭いを漂わせていた。

 けれど侑二には、遠回りをしているほどの余裕はなかった。それどころか駆け抜けなければ遅刻、というほど危機的状況だったのだ。意を決して小走りのまま――とはいえなるべくそれらを踏まないように――進み入った。健が、「まるでドイツの化学兵器だ」なんて笑っていたけれど、いまはそれをまともに(、、、、)受け入れてしまいそうだ。

 よかった、あと一分――。エレベーターを待たずに奥の階段を使ったおかげで何とか間に合った。託人のいるのを見つけて、そこへ座りにいく。第一声は非難だろう。

「おい、銀杏くさいぞ」

 必死に避けていたつもりだったが、きっと一つや二つに収まらないほどの銀杏を踏みつぶしてしまったんだろう。

「汗がやばい」

 侑二はそう言いながら、紺のトレンチコートを丸め、去年一目惚れした――透子でさえ「侑二君にしてはいいのね」と褒めた?――お気に入りのセーターまでも脱いだ。それでも汗はふき出し続ける。

 いっそクーラーをつけてほしい、なんて思っていると、教授が入室してざわついていたのが落ち着き始めた。後期も中盤になると欠席者が増え、全体的に大人しくなる。これは侑二にとっては好都合だった。

 侑二はいたって真面目に――講義を聴き、ノートを取り、そして汗を拭きながら――この九十分間を過ごした。託人はというと、その気はあるようだが終始うとうとと船をこいでいた。これも毎度のことで、ベルがなると目を覚まして、侑二のノートを写真で撮らせてくれと頼みだす。

 いつも通り託人が撮っている間に、侑二はせっせとセーターをかぶった。それから二人は荷物をまとめると、今度はエレベーターで、学食のある一階へと下りた。

 春では考えられないお昼時の食堂の静けさに、侑二は快適さを感じていながらも少し寂しくもあった。別に、騒がしいのが好きな訳ではない。ただ、これほど騒がしいところなのか、と嫌厭していただけに、肩すかしを食らったような気分にさせられるのだった。

 託人は決してまずいとは言えない程度のラーメン、侑二はここのメニューの中ではお気に入りの油淋鶏をもって席についた。

 そのまま黙々と食べていると、

「ここに来て急な進展になるとはな」

 と、託人は手を止めずに、昨日ラインで話したことを掘り返した。

 侑二はこの間の夏から、長いこと夢だった一人暮らしを始めている。このために、一年生のときから大学生にしてはかなり厳しめの節約と貯金を続けていた。そして、このことは当然、透子にも話していた。

「ただどんな風か見てみたいってだけな気もするけどな」

 侑二は、このことに関して期待なんか一切ない、という意思を込めて、ペースを落とさずに少し辛い油淋鶏を食べ続ける。

 もう三年にもなるんだから、互いの実家に行ったこともあれば親にだって認知されている。そのことはときどき侑二を、侑二と透子が置いてけぼりをくらったような気分にさせる。周りの期待とか、月日だとかに。

 ふーん、みたいな返事も託人はしないまま、色の薄いラーメンを食べきってスマホを眺めていた。おれも早く食べるか、とまた油淋鶏を箸でつかみにかかると、託人と侑二の、二人のスマホがほぼ同時に震えるのが分かった。え、と託人は驚いて画面をこちらに見せてくる。

「健が彼女できそうだって」

「いや、今までだってそんなこと言ってたろ」

 もっと何か面白いことを期待していた侑二はがっかりして言い捨てた。

 そうなのかなあ、と託人は侑二に向けていたスマホを戻して見つめていた。


 待ち合わせは、彼の今の家の最寄り駅だった。その駅は大学から近くて相場の安い、という条件にぴったりだと思わせるところだった。

 ホームを降りてさらに階段を下って改札まで来ると、真っ昼間だというのに眩しいくらいの白で照らされている。透子はそれがどこか異世界へのゲートのように思えて、少し憂鬱な気分になった。

 そのゲートを出ると、透子は本当にあれがそういうものだったのかと錯覚する。歩道が狭く片側にしかない道路、もはや空き地に見える駐車場、さらには外灯の間隔もやけに広く感じる。まるで都心じゃない――つまりは、透子のこの街における第一印象はあまりいいとはえなかった。

 約束の時間になった。これほど付き合っていて、侑二は――どうしようもないときを除いて――遅刻をしたことがない。しかし決して早くいることもない。透子が先にいると、こんな風に――ひょっこり顔を出し、透子を見つけてはにっこりと微笑む。

「おはよう」

 侑二は透子に近寄りながら声をかけた。もうお昼よ、と侑二がさっきまで寝ていたことを推測して諭すように言う。自分の口角が勝手に上がってしまうのを自覚する。会うまでの憂鬱なんて、会ってしまえばそれきりなんだ。

 あはは、と侑二が笑う。そして、こっち、と先導した。

 後ろについていきながら、透子は改めて侑二を羨ましく感じる。いいな、楽しいということをちゃんと相手に伝えられていて。

 侑二に案内してもらうことに見なれない新鮮味を覚えながら、透子はここの土地勘を得ようと必死だった。

 大通りから右に小路をしばらくして、

「このアパート」

 と侑二は自慢げに言った。

 大学生が住むようなところだと、勝手にぼろアパートを想像していたために目を疑ってしまった。もしくはごくたまに言う、侑二のつまらない冗談かと。

 透子が何か感想を言う前に、侑二はそのコンクリートの中へと入っていった。

 侑二の部屋は、やっぱり想像通りの狭さだった。1DKの六畳で、けれどあまり物が多くないため二人でも窮屈には感じなかった。透子は入って右の本棚の上にあるオーディオコンポを見つけた。

「ねえ、何かメランコリックな曲を流して」

 透子は楽しかった。いつもよりも侑二の内側に入れた気がしたから。

 いいよ、と侑二はコーヒーの入ったマグカップをこちらに運びながら快諾してくれた。もし訊かれたら、透子は紅茶を頼みたかったのだけれど。

 期待をしていながら、やっぱり侑二の選曲に対する不安はあった。妥当にシューベルトあたりで良いんだけど――。

 侑二のオーディオコンポを操作する音が止むと、低いけれども軽快な旋律をファゴットが奏で始めた。一瞬、透子の思う最悪の選曲が脳裡をよぎるが、聞き間違いかもしれない、とまた耳を傾ける。

 一つのテーマが終わり、参入楽器が一気に増え、ふわっと明るくなる。押し引き具合たまらない。やっぱり一番好きだ。けれど、違う。

「メランコリックでチャイコフスキーだなんて、信じられない」

 言ってしまった。透子はとっさにうつむいた。

 けれど透子は本気だった。本気でこの男を憎らしく思った。

 侑二は自分の選曲センスにかけらの間違いもないと思っていたらしく、純粋に驚いていた。

 弦と金管の掛け合いがこの薄暗くなり始めた部屋中で響く。侑二と透子の二人だけでなく、家具や小物たちもその響きを吸収しているのが分かるくらいだった。

 この人は、私が以前した話を忘れてしまったのだろうか。お互いにクラシック音楽が好きなことが判明してしばらくして、透子は一番と言っていいくらい大好きなチャイコフスキーが「メランコリック」に分類されることがどうしても我慢ならない、と言ったのだった。確かにそうだ、なんて侑二は返事をし、メランコリックというより叙情的だよね、と同意してくれたのに。

 透子はそれから、また別の怖れを抱いた。これまで自分のしてきた話も、同じように聞き流していたのではないか、と。

 一度それが思考に入り込んでしまってから、透子は侑二の顔を見づらくなってしまった。

「ああ、ごめん」

 侑二は動揺を隠しきらないまま立ち上がり、曲を変えにいった。


 やってしまった。

 そういえばそんなことを言っていた、と記憶に検索をかける。チャイコフスキーが好きだろう、と気を利かせたつもりが、裏目に出てしまったようだ。

 侑二はラックの左端にあるシューベルトを手に取った。これならきっと間違いもないだろう。

 そろっと振り返って透子を見やると、何か思いつめたようにして、この間のカフェのときと同じように下を向いている。この調子だと、透子はもうすぐにでも帰ってしまうだろう。

 それからしばらく、時間にして四十分ほど、侑二と透子は黙りこくったままぬるくなったコーヒーを少しずつ飲んだり、「未完成」を聴いたりして過ごした。侑二は何か言わないといけない気持ちがあったが、考えているうちに部屋の空気は固まってしまっていた。

 みるみるうちに凝固していったこの空気を一気に昇華させたのは、透子だった。

「ねえ、今晩泊まってもいい?」

 侑二はとてもすぐには反応できなかった。急の発言な上に、内容なんて誰が予想できただろう。そのまま微動だにしないでいると、

「文字通り。以上も以下もないわ」

「構わないよ」

 侑二は思考を放棄した。この彼女とうまく付き合っていくのに、通常の思考ではどうやっても無理な話なのだ。深く考えるより、それとなく順応していけば問題ない、はず。

「それじゃあ、ちょっとコンビニ行ってくるよ」

 侑二はそう言って立ち上がり、何か要る物は、と訊ねた。

 透子はまだ目を合わせないまま、顔を横に振った。

 透子の考えがよめない――。そんなの、ずっとそうだったじゃないか。三年もの間変えなかったスタンスは、今更どうこうするべきじゃない。

 透子の返事を確認して、侑二は玄関へ続く細く暗い廊下を進む。その途中で肩掛けの鞄を引っさげる。靴を履いて、何か――行ってくる、だとか、待っててな、だとか――声をかけようかと思ったが、透子はさっきからずっと変化がないらしく、侑二は部屋の電気をつけてから、そのまま家を出た。

 家の外はもうすっかり真っ暗で、外灯と外灯の間には完全な闇があった。

 あんなことで、とは思わない。透子には透子の、おれにはおれの、大事にしているものが身体とか頭の奥の方にはあるんだ。それが違うだけで、「おかしい」なんてことはないんだ。それでも、あそこまで(、、、、、)、とは少し思ってしまうけれど。

 住宅の建ち並んだ道に、突然の違和感が起こる。それは、もの静かで穏やかな夜に抵抗するようにして光を発している。そして侑二はそこへ向かっていく。

 ピンポンピンポン、と自動ドアが開くと同時に音が降ってくる。侑二は悠然とその明るさの中へと溶け込んでいった。


 ばたん、とぶっきらぼうに玄関の扉が閉じられてからどれくらい経っただろう。

 透子は腰を置いていたクッションを枕に、おそるおそる横になった。ついでに思わずため息が流れ出る。

 間違いではないの。人間誰しも主張があるんだから。ただ、胸を張ってこれが正解だ、と言えないだけ。

 侑二の淹れてくれたコーヒーはもうずっと前に空になっている。ここに来る前に何か買っておくんだった。

 こうやって、あともう十数日で三年になるというのに、彼氏の家の冷蔵庫一つ開くことができないところが憎らしい。もっと横柄になってもいいのに、とどれだけ言い聞かせたことだろう。結局入り込めたのは、ひどく表面的な部分でしかなかったのだ。

 未完成はいつの間にか終わりを迎えていて、次のベートーヴェンが静かに、そして盛って漂っていた。いつもなら高揚するはずの気分は、重く倒れ込んだままだ。それにしても、シューベルトとこの部屋は相性が悪いな、と透子は思う。それはここが和室のせいなのか、侑二の部屋だからなのか、は判断できなかった。

 顔を預けていたクッションから侑二の匂いがした。どうして私はこうも不器用なんだろう。

 玄関の方で音がして、部屋の空気もゆるんだのを感じる。侑二の足音が響く。

「ただいま、アイス買ってきたよ」

 透子は侑二に背を向けているにもかかわらず、思わずむっとしてしまいそうになる。そんなもので機嫌をとれると思われているのが癪だ。

「雪見だいふく」

 この言葉を聞いて、透子は上体を起こす。ずっと不機嫌でいるのも嫌な彼女だし、と思ったからだ。


「お昼すぎからアルバイトがあるの」

 結局文字通り透子は一晩泊まって、透子と侑二は健康的な朝を迎えていた。侑二のいつもの朝食――八枚切りの食パン二枚をトースターに入れてマーガリンを塗ったもの――を二人で向かい合って食べながらいるときに、透子が言った。

「そう」

 全くその気がないといえば嘘になるが、侑二は自分の返事が異常に(、、、)寂しさを帯びているのに困惑した。

 これを聞いた透子は、すこし申し訳なさそうな表情をしながらもせっせとトーストを口に運んでいた。

 このせま苦しい部屋を慌ただしくでていく様子を、侑二はじっと眺めていた。透子が最後、靴を履く前にこちらを見たとき、ちょっとだけ名残惜しそうに見えたのは、気のせいだったのだろうか。

 透子が帰って、朝食で使った平たい皿とマグカップを洗い終えて、侑二は透子の枕にしていたクッションを持ち上げた。限りなく薄いが、ほんのすこし透子の匂いがした。

 バイト頑張って、とメッセージを送っておいた。そのままスマホの中を目的もなくふらついていると、あの四人――この間の旅行のメンバー――のグループに通知があった。

 侑二は思わず、まじか、と独り言を呟いた。ほんとうに健に彼女ができたなんて。そして、なんでか分からないけれど、侑二は焦燥感のようなものを感じていた。


 おかしい。前触れもなくこんなことが起きるなんて、今まで――三年間のうちで――一度もなかった。原因さえわからないものに、対処もなにもないだろう。

 侑二は、()()()()()()()()()()()()()()()()事態に、焦りだけでなく恐怖も抱いていた。

 とても一人では解決――そんなものがあるとすればだが――できないと降参して、侑二は託人を頼ることにした。少なくとも自分よりは、まともな判断ができると信じていた。

 託人は侑二がよっぽど追い込まれているのを察してか、持ちかけたその日に応じてくれた。

 話し始めのうちは、託人は、それはそれは親身だった。けれど、侑二が「二週間」と言ってから、託人の聞き方は明らかに変わった。

「それでも、何の心当たりもない。一体どうすればいいのか――」

「二週間もか」

 あらかた説明を終えると、託人は食い気味に言った。

「二週間も、連絡が途絶えてのん気にしていたのか」

「侑二、お前はいつまで自分ばっかりなんだ」

 侑二は、託人の言いたいことは十分に理解できてはいなかった。けれど託人の言葉に、どこかはっとしてしまう部分があった。

 託人は、それ以上は何も言ってくれなかった。侑二は、考えようとすればするほど、何かが押し寄せてくるような感じがした。そしてそれと同時に、何か大切なことに近づいている気もした。考えることは、意味のないことなはずなのに。

「ちょっと出てくる」

 託人はそれを聞いて、おう、と笑った。いつかこういうときが、このカップルには必要だと感じていた。今までは今までで、侑二の防衛本能だったのかもしれない。何より託人は、あの二人が好きだった。

 侑二が学食を出て行くのを見送って、残りのスープを飲み干しにかかった。


 大体の場所のアテはあった。それでもたとえ違ったら、また探し続けるだけだった。

 うちの高校には、駅までの道が何通りかある。そしてそのうちの一つに、アベック通りというものがある。名前の通り、カップルたちの通る道だ。

 侑二と透子が付き合ったあの日――ちょうど三年前の今日――は、日がな一日雨だった。侑二は緊張しっぱなしで、そのタイミングをずっと見計らうことだけに集中を集めていた。そしてそのために、人に邪魔されないように、まだカップル前の二人はアベック通りで帰っていた(透子はすこし嫌そうだったが侑二が無理やりひっぱった)。けれど、雨がそれを阻んでいた。それでも今日と決めていた侑二は、とても往生際悪く、屋根のあるベンチを探していた。そう、ちょうどここを一本逸れたところの――。

 早歩きだった侑二の足は、自然と駆けていた。長い時間ここにいたのだろう、俯いていた透子は侑二の足音に気づいてこちらを振り返った。

「ダメね。あなたに見つかってしまうような場所にいたんじゃ」

 涙でうるんだ目で、透子は侑二に笑いかけた。立ち止まりはしたものの、侑二は何と声をかければいいのか分からなかった。

 ずっと考えていたの、と透子は話を始めた。

「私、どうしたらいいのかしら」

「侑二君は、私といても楽しくないでしょう」

「彼女って、何なのかしらね」

 侑二はまたしても胸を打たれた。これら全て、侑二が考えるのを避けていた問いだったから。ようやく侑二は「おかしさ」を自覚(、、)した。

 どうして自分は、考えることをやめてしまったんだろう。上手くいっていたのは表面上だけだなんて、すこし考えればすぐにわかっていたのに。

「僕らは、たがいに、臆病、だったんだね」

 侑二は思考しながら、一言一言を必死に紡いだ。

「つまり、石橋を叩きすぎたんだ。大事だったから、その、領域を侵すことが、できなかったんだ」

 深く考えようとするほど、近づいていく。これは、間違いではなくて、正解なんだと、はっきり分かる。侑二の今の感情を形容するには、頭の容量が足りなかった。それくらい、いまは自分と透子のことを考えていた。

 透子は、侑二の話を真剣に聞き入りながら、いつの間にか涙を流していた。

 侑二は、いったいこの三年間でどれほど透子を傷つけてしまったのか、と思うと自然と涙を流してしまった。

 愛しくてたまらなくなって、侑二は透子を冷たいベンチから立たせて、思いっきり抱きしめた。三年間で初めてのそれは、とても衝動的で、感動的だった。

 透子がいつもずっと傍にいてくれるだなんて、欠片も思ったことがない。だからこそ、透子の内側に踏み入れるのが怖かった。

 付き合ってちょうど三年経ってようやく、侑二と透子は進展を迎えた。


 ぱりっと糊の利いたように晴れている。たまに通りすがる風は身を震わせるものの、十三時ということもあり、ぽかぽかと暖かかった。こんなに太陽を浴びていると、ひょっとして光合成でもしてるんじゃないか、と錯覚する。

 低い格子窓からちらりと覗くと、奥の方で透子がもう店内で座っていた。すると侑二に気づいたのか、穏やかににこりと笑みを送ってくれた。

 今回は侑二が指定したのだった。道がとても分かり易く、なおかつ雰囲気のあるカフェ。そして自信もある。

 三段ほど下がって広がるそこは、白と黒が基調となっていて、まるで一昔前だ(もちろんその時代を生きてはいないが)。

 侑二はよくありそうなピアノのワルツを背に、さっき見つけた透子のいる席へと向かう。

 透子の読書する様はほんとうに画になる。背すじはぴんと床に垂直に伸びていて、それと平行に長く細い髪が垂れ下がる。この姿を見る度に、侑二はずっと目の前でこれを眺めていたい、という欲がかき立てられる。

 けれど当然そういう訳にもいかないので、透子の向かいのソファに座りこみながら声を掛ける。

「お待たせしました」

 透子は文庫本に下ろしていた目をゆっくり侑二に合わせる。

「ちょうどぴったりよ。それより、いいところを見つけたのね」

 透子の幸福そうな様子がゆるやかに伝わってくる。侑二は透子の手にある、カバーのかけられたそれに向かって、それ何て本? と訊ねた。

 透子は口を閉じたまま、ぱらぱらとページを始めに戻し、タイトルを見せてくれた。「夜間飛行」と書かれていた。

「面白い?」

「ええ。他のことをついなおざりにしてしまうくらい」

 好きなものについて話すときの透子は、侑二にとってもっとも愛しいと感じるところの一つだった。あの日以来、何が変わったかと、明確にはわからない。けれど、少しずつ互いの内側を共有していければいい、と思っている。

「透子はもう決めた?」

 うん、と言ったのを聞いて、侑二はベルを押した。

 ウェイターがやって来て、透子はカルボナーラを頼んだ。侑二は、この店自慢のサンドイッチ。ここを見つけ出したときから、もう決めてあったのだ。

 失礼します、とウェイターは戻っていった。感じのいい好青年、という印象を持った。

 先に置かれた冷水を一口飲んでから、侑二は思いきって口を開いた。

「ねえ、僕たちにとって、安らかな場所ってどこだと思う?」

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