追憶の庭
昨年亡くなったおばあちゃんは、縁側からの眺めがお気に入りだった。
昔に建てられた古い日本家屋なので、庭に面する廊下には縁側と呼ばれる張り出しがある。気候もよくなり、天気のいい日には、そこにすわってただぼんやりと庭を眺めるのが、当時九十歳の彼女の日課だった。
おばあちゃんが亡くなり、主のいなくなった家に息子夫婦が引っ越すことになった。
息子は、母の死をきっかけに、めっきり老け込んだ様子だった。特に趣味らしい趣味もない仕事人間だった人間が停年後に陥るよくあるパターンといえるだろう。
家の老朽化は激しく、妻は建て替えを提案したが男は首を縦にふらなかった。
そして、生前のおばあちゃんがそうしていたように、縁側にすわり庭をただ眺めることが多くなっていた。
それが一種の幻覚なのか否かはわからないが、おばあちゃんの形見の老眼鏡をかけて庭を眺めると、植木の手入れをするおじいちゃんと、その様子を見守るおばあちゃんの仲睦まじい姿を見ることができたのだ。
声は聞こえないが、ふたりが満ち足りた様子でいることは充分伝わってくる。
その日も男は、老眼鏡をかけ、お茶をすすりながら、縁側にすわっていた。
「あなた、毎日毎日、よく飽きもせずに庭ばかり眺めて、何が面白いの?」
妻がそう尋ねた。
「おまえには見えんかもしれんが、俺には見えるんだよ」
「何が?」
「俺の父さん母さんだよ。おまえにも見せてあげたいよ」
「そうですか。そのうち見せて下さい」
妻は硬い微笑に痛々しい思いを隠し、その場から背を向けた。
翌日、いつものように老眼鏡をかけ庭を眺めている男に妻が声をかけた。
「引き出しの整理をしていたら、こんなのが出てきたわ。おばあちゃんのかしら」
「補聴器か、おばあちゃん耳が少し遠かったからな」
男は補聴器を受け取ると、耳に当ててみた。
「おや?」
男の耳に、懐かしい声が飛びこんできた。おじいちゃんとおばあちゃんの話し声だった。
「!」
妻が心配そうにみつめているのにもかまわず、男は庭に降り、ふたりのもとに駆けていった。
「お父さん! お母さん!」
「おまえがここにくるのは、まだ早い。その老眼鏡と補聴器を渡しなさい」
「いやだ。そんなことをしたら二度と逢えなくなるじゃないか」
「それでいいんじゃ。庭もつぶして家も建て替えなさい」
「そんなことできない」
「思い出にかまけて、生きている嫁を大切にしてやらなくてどうするんじゃ」
おじいちゃんは、小さな子供を叱り付けるような口調で言った。
今風のデザインに建て替えた家と、こざっぱりした庭。庭の一角の小さな畑での家庭菜園が、初老の夫婦の趣味のようになっていた。
身も心も見違えるように健康になった男だったが、お盆の時期だけは、部屋に籠る。部屋には、建て替え前の庭の写真が飾られている。
そこに何かが見えるのか、それとも何かを見ようとしているのか。男は結局返せなかった老眼鏡をかけて、写真を眺め続けるのだった。
《終》