片鉄榴弾と花環榴弾
徹甲弾でも榴弾でも榴散弾でもない、なんとも扱いに困る砲弾についてダラダラと語ります。
大砲から撃ちだす砲弾というものは長年石や金属の球体が基本でしたが、科学技術全般が進歩した19世紀以降は著しく種類を増やし、幾多の砲弾が歴史上に登場しては消えていきました。この頃は日本が国際社会に乗り出して近代的な軍隊を持った時期でもありますが、そこではどのような砲弾が使われていたのでしょうか。
日露戦争前の1903年に出版された『海軍問答』では、当時の日本海軍が使用していた主な砲弾として以下の9種類を挙げています。(註1)
「問 我海軍ニ用フル弾丸ニ幾種アルヤ」
「答 徹甲榴弾、鍛鋼榴弾、通常榴弾、堅鉄榴弾、鋼鉄榴弾、花環榴弾、片鉄榴弾、榴散弾、散弾是ナリ」
大体の砲弾は字面で分かりそうな物ですが(2)、その中で片鉄榴弾と花環榴弾の二つはネット上の情報も少ないですし、ちょっとイメージし辛いかもしれません。
本作品ではこの日本海軍の砲弾ついて、不完全ながら自分が調べた分を紹介してみようと思います。
・名称と機能について
(ちょっと字が潰れていますが、左が片鉄榴弾、右が花環榴弾です)
そもそも読み方からしてわからん、となる名前ですが、親切にも振り仮名がある文献には、それぞれ「ヘンテツリュウダン」「クワクワン(かかん)リュウダン」とあるので(3)、そう読むのでしょう。
また花環榴弾は「鐶」の字が使われることもありますが、今回は環で統一します。
名称は両者とも、上の図にもある内部構造に由来するものと思われます。
まず片鉄榴弾の方を見てもらうと、特に目を引くのは弾体の大部分を占める市松模様の部分ですが、これは扇型の鉄片を組み上げて出来た円筒です。
片鉄榴弾はこの円筒に加え、外側に鋳造された薄い弾殻、中心の空洞部分に充填された炸薬、弾頭部の信管などで構成されています。
なぜこんな手間のかかりそうな構造かというと、砲弾の大部分を鉄片の集まりで構成するという事は、いわば砲弾の内側に切れ込みを入れておく様なもので、より少ない炸薬でも効率的に弾体が破壊されて破片が発生するのです。
破片の数が増えると一個一個のサイズが小さくなって、それ自体が持つ破壊力は落ちますが、数が増えれば兵士や軍馬といった軟目標の集団を効率よく殺傷する事が可能になります。
また炸薬を減らした分、破片になる弾体の量自体も榴弾より多く取る事が出来るのも利点でしょう。
花環榴弾も機能としては片鉄榴弾とまったく同じ物ですが、鉄片を組み上げるのではなく鉄の輪を積み重ねて円筒を形成しています。この輪は名前が示す通り円形ではなく、花びらのように半円を繋げた形で、環の一部分が細くなって砕けやすさを助長しています。
ちなみに外観だと片鉄榴弾は白色、花環榴弾は黒色に塗られていました。(4)
・英国の「セグメント弾」(5)
片鉄榴弾として日本海軍に採用された砲弾は、1850年代ウイリアム・アームストロングによって開発された一連の後装式施条砲、いわゆる「アームストング砲」用の砲弾の一種として開発された「セグメント弾(segment shell)」が元となっています。(6)
大きい物では7インチ、小さいものでは6ポンド砲用の砲弾が採用されていました。(7)
内部構造は上の図の片鉄榴弾とほぼ同じですが、図の砲弾は10インチの大口径弾の為二重の鉄片で円筒を形成しているのに対し、こちらは一重でした。
その他特徴としては、7インチ砲は普通の榴弾・セグメント弾ともに砲弾重量は98ポンド(44.5kg)で、その内炸薬が占める重量は榴弾が7ポンドなのに対してセグメント弾は半分以下の3ポントでした。ここでもわずかながら弾体の重量で勝るのが確認できます。(8)
上で説明した、通常の炸裂弾よりも効率よく破片をばらまく砲弾というと、榴散弾と役割が被っているではないかと思われるかもしれません。
一応説明しておきますと、榴散弾は18世紀末に英陸軍のヘンリー・シュラプネルによって開発された砲弾で、それまで使われていたキャニスターやブドウ弾といった散弾とはちがい、内部に炸薬を充填して炸裂と共に散弾をばらまく砲弾です。
登場時の榴散弾は球状の砲弾内部に散弾と炸薬が混じり合う形で充填されていましたが、そのあとボクサー大佐による改良で分離し、さらに砲弾が椎実型になるとその底部付近に炸薬を集中することによって、炸裂時には散弾を前方に集中して飛ばすようになっています。
これに時限信管を組み合わせて、敵部隊の前方上空で炸裂させて散弾をばらまく、という使用法の際に効果を発揮します。
この二種のどちらが優れているのかは、実際に当時の人も気になっていたようで、60年代には複数回にわたり比較試験が行われています。
大まかに結果を言うと、目標から一定の距離で両者を炸裂させた場合、セグメント弾は榴散弾に比べ、目標に達する破片の数と貫通力の両方で劣るという厳しい評価がなされていました。
それじゃあ価値はあるのか、という話になりますが、一応別の試験によると着発信管を用いて敵部隊に直撃、もしくはより近距離の地面で炸裂させるという、榴弾的な使用法の効果ならこちらに分があるとの事です。このような結果になったのは、炸薬の充填位置が異なるのが大きく関係しているとされます。
ちなみに日本海軍による別の本では、炸裂地点と目標との距離は榴散弾の小口径弾が50、大口径弾なら100ヤード以上なのに対して、片鉄榴弾の破片はあまり飛ばないので12から20ヤード程度が望ましいとされています。(9)
決して万能兵器とは言えないセグメント弾ですが、1860年代に中国やニュージーランドでの実戦にて使用されました。
その際にはライフル砲で運用されることから射程と遠距離での精度に優れ、威力も1フィート以上の厚さがある煉瓦塀を貫いて裏側で炸裂、奥の敵兵を全滅させた例があるなど、基本的に好意的に受け止められていたそうです。
一方で本国での試験と同じく遠距離で炸裂させる使用法には向かない点や、地面に当たっても着発信管が作動しなかった例、腔発を起こした例も報告されています。またセグメント弾に限った話ではないと思われますが、この頃のアームストロング砲用の砲弾はライフリングに食い込んで回転する為に鉛を被せてあり、これが飛翔中に飛び散って落下することがありました。その為味方の頭越しに撃つのは危険ではないのか、という指摘もなされています。
また忘れてはいけないのが、1863年薩英戦争の鹿児島砲撃で使用された件でしょう。
この戦いで信頼性に問題ありとされたのも一因となって、その後海軍の制式兵器からは外されたアームストング後装砲ですが、そこから放たれる砲弾の威力は薩摩藩士たちに大きな衝撃を与えたと言われています。
その際に使われた砲弾には実体弾や通常榴弾に交じってセグメント弾もあり、少なくともアーガスとレースホースの二隻では結構な割合を占めていたようです。(10)
ちなみに築地の海軍参考館では、この時に回収されたセグメント弾を含む数発の不発弾を展示してた時期がありました。(11)
・日本海軍における採用
まず片鉄榴弾は先述したようにアームストロング砲用の砲弾ですので、幕末の時点で入ってきたとされる同砲にて採用されていたかどうかが問題になります。
興味深いことに『佐賀藩銃砲沿革史』の文久元年(1861年)の項にて、アームストロング砲が「椎実弾殻に銑鉄片を充てたる着発弾」を中国で使用したという伝聞が紹介されており(12)、薩英戦争にて使用される前から存在自体は知られていた可能性が高いと思われます。ただし同書では佐賀藩が「製造」したとされる6ポンドアームストロング砲大砲の弾薬について、「着発弾」と「散弾」が用意されたとあるだけで、「銑鉄片を充てたる着発弾」が配備されたかは定かではありません。(13)
今回調べた分で残る最も古い記録だと、1872年に幕府海軍出身の千代田形が搭載する40ポンド砲用の砲弾として「シヨト 実弾」「コムモンセル 榴弾」と共に「セグメントセル 破裂弾」とあるのが最初となります。(14)
なおこの史料からわかる通り当初はカタカナ表記で、「片鉄榴弾」という訳語が主流になるのは1877年あたりからのようです。
1898年の『海軍掌砲学問答』によると以下の砲が片鉄榴弾に対応していました。(15)
(安砲=アームストロング砲)
旧式12ポンド後装安砲
旧式20ポンド後装安砲
25口径10インチ後装安砲
32口径10インチ後装安砲
新式40ポンド後装安砲
新式9ポンド後装安砲
旧式9ポンド後装安砲
6ポンド後装安砲
これ以外には前装式の70ポンドアームスロング砲用(16)や18ポンド砲用(17)の砲弾に関する記録も存在します。
花環榴弾の方を使用するのは7.5cm克砲(=クルップ砲)のみですが、一時期の日本海軍は新型艦の備砲をクルップ式に統一していたことも影響して、この砲はスループやコルベットの副兵装として多数の艦に搭載されていました。
両砲弾を使用する艦砲は、防護巡洋艦和泉(1887年竣工で1894年に日本が購入)が搭載していた32口径10インチ砲を最後に、90年代以降に竣工する新型艦には搭載されていません。
1907年の『改正海軍砲術問答』の砲弾紹介では、先の『海軍問答』とは違い「然シ他日実用トシテハ徹甲榴弾鍛鋼榴弾及ビ鋼鉄榴弾ノ三種ニ過キス」という記述がありますが(18)、実際はこの時期には完全に旧式化していたと思われます。
そもそも片鉄・花環榴弾の使用法は、日本海軍では主に陸上砲撃や装甲を持たない小型艇への攻撃で、比較的口径の大きい物はこれに加えて大型艦の非装甲部に損傷を与える際に使用する物とされていました。
一方で80年代後半より速射砲の開発やピクリン酸系統の高性能爆薬の登場などもあって、火砲の持つ攻撃力は大きく向上しています。その中でわざわざ生産性の悪そうな片鉄・花環榴弾を使用するまでもないとされたのかもしれません。
それから大分後になりますが、大正の終わりごろには「片鋼弾」という、名前からして片鉄榴弾の鋼製版らしき物が採用されていました。
これを使用するのは、赤城・加賀や条約型重巡などが竣工時に搭載していた十年式12cm高角砲、つまり今度は対空砲弾として復活したことになります。一般的に航空機を攻撃する場合は被害範囲が広い砲弾が望ましく、普通の榴弾よりも多くの破片を生じる片鉄弾が再び脚光を浴びたのは不思議ではないでしょう。
同砲弾は大正15年(1925年)の内令兵七にて確認できますが、同じく昭和4年の内令兵二十六では消滅して通常弾に置き換わり、八九式12.7cm高角砲など後続の高角砲でも採用された形跡はないようです。(19)
・日本陸軍における採用例
本作品の本題ではありませんが、陸軍の方でも類似した機能・形状をもった砲弾が採用されていました。
まず海軍砲と同じくアームスロング後装砲の時点で配備されたかどうかですが、片鉄弾に酷似した物を「英式円分榴弾」の名前で紹介している史料が存在する(20)のが気になる所ですが、詳しい部分は不明です。
その後の採用状況は海軍と似たようなもので、1870年代に採用されたクルップ式8cm、7.5cm砲、そして国産の7cm砲にて花環榴弾と同一と思われるものが「環層榴弾」の名称で採用されていたようです。(21)
なお似た形状の砲弾を「ウカチュース式弾」といった、異なる名称で紹介している例があるのはこちらも同じです。(22)
その後も海軍と同じく最初期の対空砲である11年式7.5cm野戦高射砲にて再び採用、榴弾はもちろん榴散弾よりも優れると評価されていましたが(23)、以降の砲では姿を消しています。(24)
この砲弾は第一次大戦の時点でフランスが使用していた砲弾が元とされますが(25)、1918年の海外視察報告者にてそれらしき砲弾の模式図が確認できます。(26)
なお海軍で同時期に採用された「片鋼弾」との直接の関係性や、採用時に陸海軍の間でどこまで情報の共有が行われていたか等の点はとても気になる所で、今後調査する機会があれば特に重視したいと思います。
・実戦における片鉄・花環榴弾
話を海軍に戻して、最後に実戦での記録を当たってみたいと思います。
まず幕末には佐賀藩が製造したとされるアームスロング砲以外にも、新政府軍の装甲艦甲鉄は前装式の300並びに70ポンドアームストング砲を搭載し、箱館戦争で使用しています。その際には実弾、散弾、そして炸裂弾が使用されたのは確か(75)ですが、片鉄榴弾が使用されたかは不明です。
一方で近代日本最初の対外戦争である日清戦争では、搭載艦も多数が前線に出ており、実際に使用されたのも確認できます。ただしすでに旧式化が始まっていた90年代の戦争という事で、この戦争で最大の水上戦闘となった黄海海戦で使用された記録はありません。
同海戦では通常榴弾並びに鋼鉄榴弾が主に使用され、他の種類は浪速が26cmクルップ主砲で1発、赤城が47mm軽速射砲で24発の「散弾」を使用していたくらいのようです。(28)
使用が確認できるのは威海衛の戦いを含む陸軍支援の際に行った砲撃で、片鉄榴弾は磐城が6ポンド後装安砲で3発、花環榴弾は7.5cm克砲にて海門と秋津州が合計6発使用したことが確認できます。(29)
これは全体の消費量から見ると微々たる量で、そもそも陸上砲撃任務ということで、比較的口径の小さい7.5cm砲などは搭載していても使わない艦も存在しました、
なお10インチ、40ポンド、9ポンド砲など片鉄榴弾に対応した艦砲を多く搭載する筑紫もこの作戦に参加し、1月から2月の間に10インチ安砲18発、40ポンド砲15発を使用するも、すべて通常榴弾でした。(30)
一方の清国側ではどうだったのかというと、予算不足により十分な数の炸裂弾を用意できなかったと伝わる同海軍にて、こんな生産性の悪そうな砲弾が使われていたと思っていたのですが、どうやら存在したみたいです。
今回確認できた物では、威海衛の戦いにて鹵獲されたレンデル砲艦(31)が搭載する12ポンド後装砲用の砲弾として片鉄榴弾があり(32)、また陸上砲台として使われた7.5cm克砲では花環榴弾も押収されています。(33)
黄海海戦で参加した艦艇では、経遠と来遠の二隻が7.5cm克砲を搭載していた他、片鉄榴弾に対応する艦砲を持つ艦として、筑紫の同型艦である超勇と揚威、6ポンド後装安砲を持つ致遠と靖遠がいました。この六隻は黄海海戦並びに威海衛の戦いにて全滅してしまったので日本軍による戦後の調査などもなく、実際に搭載していたかは清側の史料にあたる必要がありそうです。
その後の日露戦争となると砲弾の旧式化はさらに進み、日清戦争の頃には対応する砲を搭載していた艦も、新型の速射砲に換装されるか実戦から退くなどして、使用する機会はほとんどなかったようです。
その中で筑紫の武装は変わらず、5月26日には陸軍支援のため金洲湾のロシア軍砲台に艦砲射撃を実施しています。その中で10インチ砲を6発、40ポンド砲5発を発射していますが、今回も使用したのは通常榴弾のみでした。(34)
このように日本海軍では旧式化していた片鉄・花環榴弾ですが、対するロシアは公刊戦史によると、同系統の砲弾をこれよりも頻繁に使用していました。
まず開戦初頭の旅順口外での戦闘にて、ペレヴヴェートが6インチ「セグメント弾」9発を使用し、砲台の10インチ砲にも配備されていた旨の記述があります。(35)
さらに黄海海戦後に艦隊が陸揚げした砲弾の中にも6インチ「片鉄弾」が含まれており、その後日本陸軍の陣地へ行った艦砲砲撃では、レトヴィザンを除く4隻が10インチや6インチ砲に加え、12インチ砲で通常榴弾に匹敵する量を使用しました。(36)
なお同書は上巻では「セグメント弾」下巻では「片鉄弾」が登場しますが、翻訳上の都合で違う名称なのか、原文では違う砲弾だったりするのかは不明です。
またロシアによる使用に関しては、日本側の記録も存在します。
まず明治37年5月3日の第三次旅順港閉塞作戦では、砲撃により損傷した第42号水雷艇の報告書にて、損傷原因は右舷5m横で炸裂した12cm片鉄榴弾による物と断定されています。(37) 他の水雷艇の被害報告を見ると、命中後機関部で炸裂した物、船体を突き抜けて海中に落ちたもの、時限信管により空中で爆発した物と、異なる種類の砲弾が用いられたと思われますが、その中に片鉄榴弾もあったのでしょう。
また日本海海戦で降伏した戦艦インペラトール・ニコライ一世は12インチ砲に12発、9インチ砲に60発の片鉄榴弾を搭載し、28日の海戦ではそれぞれ4発と18発を使用したことが砲術士官への調査からわかっています。(38)
上で紹介したように片鉄榴弾は近距離で炸裂した場合の効果に優れるもので、60年代にニュージーランドで使用された際にはマオリ族の乗ったカヌーを至近弾若しくは水面での反跳狙いで攻撃した例もありました。水雷艇などの小型艦を攻撃する際には、ここでも普通の榴弾や榴散弾にはない使い方ができると評価されたのかもしれません。
また大型艦との戦闘で敵艦の非装甲部を破壊する場合、ロシア海軍は日本とは違って日露戦争の頃でも炸薬として綿火薬を使用していたことから、普通の榴弾が持つ破壊力はそこまで強化されておらず、片鉄榴弾の効果が劣るものではなかった面も考えられます。
なお日露戦争後は戦利艦として、ペレスヴェート、ペトロパブロフスク級を含む複数のロシア艦が日本海軍に編入され、第一次大戦ではドイツ領青島の攻略作戦に従事しました。その際の艦砲射撃の記録を見ると、使用砲弾は基本鍛鋼榴弾で、それ以外は少数の徹甲榴弾が使われた程度のようです。(39)
最後に第二次大戦では、12cm高角砲は生産性に優れることから、すでに八九式や九八式が登場した後も海防艦の主砲や陸上砲台用に大量に生産・配備されていました。その際に使用されたかは確かではありません。
この頃には通常弾の以外にも46cm~12.7cm砲の三式弾に相当する四式焼散弾も採用されているので、基本的に使われた可能性は低いとは思われます。戦後の引渡し目録などを洗えば出てくるかもしれませんが……。
・おわりに
今回調べた範囲は以上のように部分的なものですが、複数の国家にて採用・実戦投入されながらも、あまり語られる事の無いこの砲弾について、歴史上の痕跡を僅かながら辿ることができたと思います。
そもそも戦史において19世紀後半から第一次大戦までと言うのも、第二次大戦と比べるとやや地味な印象を受けるかもしれませんが、もしこの時代をテーマにした作品を執筆されたり読んだりするときには、この頃にはこんな兵器もあったんだよ、という事で記憶の隅に留めてもらえれば幸いです。
以下は註と作者の戯言になります
註
(1) 高橋雄一『海軍問答』 共益商社 1903年 p.52
(2) 二番目から四番目の砲弾の違いが分かり辛いかも知れませんが(特に鍛鋼榴弾と鋼鉄榴弾)、堅鉄榴弾・鋼鉄榴弾は装甲の貫通を狙った徹甲榴弾系。鍛鋼榴弾・通常榴弾は炸裂の威力を重視するいわゆる普通の榴弾、という認識で問題ありません。その中で材質や採用時期に差があります。
ちなみに明治33年の内令兵二十三によると堅鉄榴弾以外は以下のように英訳されています。
鍛鋼榴弾 drawn steel common shell
通常榴弾 cast iron common shell
鋼鉄榴弾 strong headed steel shell
なお堅鉄榴弾は開発者の名前をとって「palliser shell」と呼ばれることが多いと思われます。
(3) 股野東洋編『改正海軍砲術問答』軍港堂 1908年 p.44
(4) 『海軍制度沿革』巻9 海軍大臣官房 1940年 pp.325
(5) この項の内容はCharles Orde Browne, Ammunition Part II. Ammunition for Rifled Ordnance ,1870より
(6) 一方で花環榴弾は後述するようにドイツ(プロイセン)よりもたらされた物で、発祥は英国というよりも大陸国家だと思われます。
(7) 長年大砲の名称は使用する砲弾の重さで決められており、こちらに合わせると7インチ砲は110ポンド砲に、口径で言うと6ポンド砲は2.5インチ砲になります。
(8) ただし7インチ砲のみ弾体だけで146.75ポンド(66.5kg)に達する長榴弾が配備されており、これには普通に劣ります。
(9)『英国火工問答』海軍省主船局 1883年 pp.36、60
(10)「鹿児島湾内砲撃ニ使用セシ英艦「アームストロン」砲報告」『海軍雑誌』第54号 海軍参謀本部 1886年
(11) 工学会『明治工業史. 火兵・鉄鋼篇』工学会明治工業史発行所 1927年 p.193
(12) 秀島成忠『佐賀藩銃砲沿革史』原書房 1972年復刻版(原1934年) p.276
(13) 同p.301
(14)「戊5号大日記 造船局申出 千代田形艦え40斤砲尖実弾外2廉御備付」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09110793500、公文類纂 明治5年 巻31 本省公文 器械部2(防衛省防衛研究所)
ここで気になるのが「破裂弾」が炸裂する砲弾全般を指すのではなく、セグメント弾のみを指す単語として使われていたかどうかでしょう。仮にそうだとすると「破裂弾」の初出はより古く、幕末にも使われた可能性も出てきますが、明らかに一般名詞として使用されている例もあるので断定はできません。
また「セグメント榴弾」という表記もあるので、そこまで深く考える事ではないのかもしれません。
(15)『海軍掌砲学問答』軍港堂1898年 pp194-195
(16)「7尹前装安士得龍砲外諸兵器類陳腐其の他により善良品と交換の件」JACAR C11019447100、明治18年 普号通覧 巻16 自普1451号至普1520号 5月分(防衛省防衛研究所) 画像2枚目
(17)「往入3656 24斤滑膅砲用弾丸等の件兵学校申出」JACAR C09113037000、公文類纂 明治11年 後編 巻25 本省公文 器械部2(防衛省防衛研究所) 画像2枚目
(18) 股野 1908年 p.46
(19)『海軍制度沿革』巻9 海軍大臣官房 1940年 pp.352、382、387
(20) 『砲兵教程.3』陸軍文庫 1882年 pp.55-56、附図9
(21) 佐山二郎『日本陸軍の火砲 野砲山砲 日本の陸戦兵器徹底研究』潮書房光人社2012年 pp.31、42-43、62
(22)『砲兵教程.3』陸軍文庫 1882年 pp.54-55、附図9
他にも見たような目的の砲弾として「複肉榴弾」というものもあったそうです。
なおこの本はネット上で公開されており、環層(花環)榴弾の断面の図も載っているので見てみることをお勧めします。
(23)「7珊半高射砲10年式環層弾弾薬筒及10年式高射曳火信管仮制式制定の件」JACAR C02031077200、永存書類甲輯第5類第1冊 大正11年(防衛省防衛研究所) 画像8枚目
(24) 佐山二郎『日本陸軍の火砲 高射砲 日本の陸戦兵器徹底研究』潮書房光人社2010年
(25) 同上
(26)「第13章 今回の戦役に使用しつつある主要兵器(2)」JACAR C15120554400、筑紫中将戦時欧米視察報告 第2編 大正7年10月(防衛省防衛研究所) 画像1枚目
(27) 竹内運平『箱館海戦史話』若桜書房 1943年 pp.123-125
(28)「第24号 征清海戦史 巻 10(黄海海戦)(5)」JACAR C08040513000、明治27・8年 征清海戦史 2(防衛省防衛研究所) 画像32から38枚目
なお浪速の26cmクルップ砲には散弾が存在しないので、ここでいう「散弾」とは榴散弾を含む物と思われます。また機砲や小銃など比較的小口径の火器を用いた艦では鉛の実弾も使用されました。
(29) 「海報第55号 連合艦隊出征第24回報告の内弾薬消耗報告」JACAR C11080773700、海軍報告 第5册(防衛省防衛研究所) 画像1、4、9、枚目
(30) 同上 画像17枚目
(31) 沿岸防衛用に主力艦並みの大口径砲を搭載した、低乾舷・汽走式の小型艦艇
(32) 「28.5.4 捕獲軍艦 鎮西 鎮南 鎮辺 鎮北の兵器弾薬員数表」JACAR C06060114500、明治27、8年 「戦役戦利兵器関係書類」(防衛省防衛研究所)画像9枚目
(33) 「28.1.24 第1号 旅順口戦利兵器調」JACAR C06060111800、明治27、8年 「戦役戦利兵器関係書類」(防衛省防衛研究所) 画像3枚目
(34) 「戦闘詳報及行動報告(1)」JACAR C09050278200、戦闘詳報及行動報告 (但 連合艦隊戦闘詳報に関係なき分)(防衛省防衛研究所) 画像31枚目
全くの余談ですが、同艦は艦上での作業中に発砲したことで二名の鼓膜が破れるという事故が起きています
(35) 露国海軍軍令部編 大日本帝国海軍軍令部訳『千九百四、五 露日海戦史』上巻 2004年復刻版 芙蓉書房 pp.114、116
(36) 露国海軍軍令部編 大日本帝国海軍軍令部訳『千九百四、五 露日海戦史』下巻 2004年復刻版 芙蓉書房 pp.148-149、158
(37) 「備考文書」 JACAR C05110041600、「極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻4」(防衛省防衛研究所) 画像117枚目
一方で「極秘 明治37.8年海戦史」の戦紀本文の方では「水面炸裂弾」とだけあり、具体的な弾種は明記されていません
(38) 「第2編 日本海海戦/第3章 5月28日に於る戦闘」 JACAR C05110084600、「極秘 明治37.8年海戦史 第2部 戦紀 巻2」(防衛省防衛研究所) 画像8枚目
(39) 「第2戦隊戦闘詳報 自10月25日至11月6日(2)」JACAR C10080014800、大正3年8月 第2艦隊行動詳報綴 戦闘詳報綴(防衛省防衛研究所)
画像出典
高橋雄一『海軍問答』共益商社1903年(国立国会図書館デジタルコレクション インターネット公開 保護期間満了)
◇ ◇ ◇
上の文章と関係のない駄文
……ええ分かってます。こんな尻切れレポートここでやる内容か?と皆さん思われているところでしょう。
一応言い訳として執筆理由の話をしますと、一つは単純にこういう兵器があったと知って欲しかったのがあります。
冒頭でも話した通り、この砲弾は日本のネット上では殆ど取り上げられていません。検索エンジンに片鉄榴弾と打ち込んでみても、2017年10月現在では第一線の研究者である桜と錨氏のHPがヒットするぐらいで、詳しい情報は全くないんですよね。別の名前だともう少しヒットしますが、一般的にはかなりマイナーな部類に入る兵器だと思います。
面白い兵器なのにこんな有様なのはちょっと寂しいので、何様だという感じですが、何か作品に登場するぐらい知名度が上がらないかなあと思い立ったわけです。
(これ以外にもデイヴィス式魚雷砲とかもダイナマイト砲並みに知られてもいい面白兵器なんですが、これで書くのはちょっと情報が少なすぎて……)
書き方については信頼性のある情報を集めた結果というか、そもそも利用規約からして出典の明記は必須ですので、このような形になりました。
もう一つの理由には、これをネタに歴史の扱いに関する面倒な話がしてみたかったというのがあります。
先程は検索で情報が出ないと言いましたが、実際に上で挙げた参考資料の多くはアジ歴や国会図書館のアーカイブで公開されています。
つまり調べ方さえ変えれば、情報自体は十分ネット上で得る事が出来るし、自分のような素人でもこうして情報を発信できる時代になっているという事です。非常にいい時代に生まれたものですね。
ただし発信された情報には注意を払わなければなりません。
史料の扱いなどで間違いが生じる可能性は十分ありますし、中には意図的に情報を歪めたり都合のいい部分を切り貼りした悪質な物すらあります。(もちろん素人が書いたもの以外にも怪しいものが紛れている可能性がある事には注意しなければなりませんが)
そういった情報を無批判に受け入れるというのは、扱う内容によっては大きな危険を孕むのはもちろんのこと、趣味レベルの範囲でも誤った認識を持つのは人によっては望ましくないでしょう。
今回の文章は当然真面目に書いたものですが、仮に大きな誤りや捏造を含む不正確なものだった場合、誤った情報がネット上に存在する中では最もアクセスしやすいという、想像したくない事態になってしまいます。
といっても所詮は題材が題材ですから、今話題の弾道ミサイル等とは違い、いくらおかしな情報でも我々の暮らしに与える影響は無いに等しいものです。ただし逆に言えば影響力がない分、反論や議論によって情報が訂正される機会自体が少ないというのも厄介な点になります。
まあネット上にはびっくりするぐらい博識かつ物好きな人がたくさんいますし、そういった方々が正しい情報を示してくれる事もありますが、その活躍は常に期待できるものではありません。
そうなると結局は受信者側のリテラシーに加え、原因となる発信者側の良識や努力など心構えに頼る部分が大きいと思うのですが、いろんな人が自由に活動する上に、行き交う情報自体が莫大なネットでは、そっちに期待するのも難しいだろうなあと思う次第であります。
という事で最後に愚痴と自省の意味を込めてトップヘビーな文章にした所で(終わりに話を膨らませているのだからボトムヘビーか、船酔い不可避)、今度こそ筆を置きたいと思います。ここまで読んで頂きありがとうございます。
あ、何度も言いますが上の文章は真剣に書いたものです。ただし史料の背景を理解したうえで情報を扱う、という基礎的な部分や目を通す史料の範囲で手を抜いた部分もあるので、これもまた信頼に値する情報という保証もありません。おかしい点などあれば容赦なく突っ込んでもらえればと思います。
「そもそも内容が薄い上に書き方がおかしい」とか「不明不明ってお前が調べきれていないだけだろう」と言われると何の反論もできませんが。
訂正、更新
17年11/3 構造は上の図の片鉄榴弾とほぼ同じですが → 内部構造は~に変更(外部は導環の有無など大きく違う点があるので)
11/30 薩英戦争での使用が確認できたので追記
18年7/15 今更ながらタイトルをちょっと変更
21年3/14 ありがたい事に今も読んで下さる方がおられるので、放置していた書式と誤字を修正しました。調整破片弾の先駆けであると言う事に全く触れなかった駄文ですが、楽しんで頂けたのであれば幸いです。