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嫌よ、貴方面倒だもの

作者: 柳澤

 自宅のドアを開けたら見覚えのない真っ赤なハイヒールと部屋の奥から聞こえる何だか慌ただしい音。それだけで全てを察したわたしの心は不思議なほど凪いでいた。


 白川紗紀子、27歳。どうやら彼氏に浮気されたようです。


(自分の家でもない場所に合鍵で上がり込んでラブホ代わりにするなんていい度胸じゃねえの)


 思わず内心で呟いた言葉が年頃の女性らしくないものであったことは気にしないでいただきたい。これでもお上品なお嬢さんね、と褒めやされるくらいには猫かぶりの技術は一級品なのだ。それはいいとして。


「あらぁ、いつの間にわたしの部屋はラブホになったのかしら?その割にはお金もいただいていないのだけれど」


 リビングと寝室を兼ねた部屋のドアを開け放てば、案の定そこにいたのは今この瞬間から元カレとなり下がったと男とその恋人らしき女だった。勿論何をしていたかなんて一目瞭然。慌てて着用したであろう元カレの下着は前後が逆になっているし、彼女はそのかわいらしい胸を曝け出したままだ。おそらくAカップってところだろうか、ちなみにわたしは程々のCカップである。まぁそんなことで張り合ってもしょうがないのだけれど。


 2人揃って正座して青褪めている姿はいっそ滑稽だった。そんなに震えるくらいなら最初からしなければいいのに。それともそんなことさえわからない程頭が残念なのだろうか。おそらく後者なのだろうなとアタリをつける。


 わたしと元カレは3年程付き合っていて、互いの両親にも紹介していたりして、まぁ、それなりの関係を築けていたのだろうと思う。今この瞬間にその関係もなかったものとなってしまったけれど。


 凪いだ瞳で自身を見下ろすわたしを何とか説得しようと思ったのだろう、元カレがようやく顔を上げる。


「さ、紗紀子、」


 震える声でわたしの名前を呼ぶけれど、わたしに話はない。そしてこれ以上このおバカさんたちを部屋に置いておきたくなかった。なんかバッチいものがわたしの部屋に蔓延しそうだから。


「お話は別に聞きたくないわ。人の部屋をラブホ代わりにした代金と合鍵置いてさっさと出てお行き。ちなみに慰謝料含めて2人合わせて5万にしといてあげるわ」

「なっ、そんなバカな…!」

「それでチャラにしてあげると言うんだから安いものでしょう?それとも親御さんに全てご報告して差し上げた方がよろしくて?おばさまとおじさまは貴方とわたし、どちらの言い分を信じて下さるかしらね」


 元カレの両親はわたしのことを本当の娘のように可愛がってくれていたから、こんなしょうもない出来事で縁が切れてしまうのは非常に残念だ。そしてわたしと自身の両親の仲の良さを知っている元カレは青褪めた顔を更に青くしてか細い声で何やら言っている。それだけは、だの、許して、だの言っているが許しを請う前にさっさと金を払って出ていってもらえないだろうか。


「口を開く前にすることがあるでしょう?それとも何?痴情の縺れで警察呼ばれたいのかしら?」


 そう最後通牒を突き付ければようやく残念な頭が動き出したのだろう、慌てて衣服を身に着け元カレは合鍵と財布の中身を、彼女もそれに倣って財布の中身をすべて置いて行った。何だかあっけない結末だ。あとに残ったのは乱れたベッドとちょっと疲れた顔したわたしだけ。


「とりあえず今すぐ布団だけでも処分しよ…」


 色んな液体でドロドロになったシーツと布団を、面倒だと思ったが嵩張るのも嫌で圧縮袋に入れた上でゴミ袋へとぶち込んだ。本当はマットレスまで処分したいところだが、残念ながら明日は粗大ゴミの日ではなかったはず。そういえば布団も粗大ゴミじゃなかろうか。まぁいいか、圧縮袋に入れてるんだし。


 行政やゴミの分別にうるさい人が聞いたら怒り出しそうなことを考えながらわたしは黙々と部屋の片づけを行う。枕も気に入っていたのにこんなくだらないことで処分しなければいけないなんて、本当に悔しい。


 ああ、こういう時わたしがペアルックなんてものをしたがる人間でなくてよかったなと思う。じゃなければ処分するものは膨大な量になっていたはずだ。


 元カレに対して情が無い訳ではない。そりゃあ3年も付き合っていれば愛着は湧くし、これでも少しは結婚だって考えていたのだ。それがこんな結末になるとは思いもしなかった。ただ、それを嘆く気はなかった。嘆いたってあの男の浮気の事実は変わらないし、わたしだってそれを無かったことにはできない。


「あーあ、27にして独り身になっちまったわー」


 さっきまで被っていた特大の猫は毛皮を脱ぎ、わたしという人物へと戻る。


 こんな時は酒に走るに限る。幸いコンビニはこのマンションの向かいにあった。ついでにゴミ置き場へデロデロな布団という名の燃えるゴミをぶち込みに行こう。そう決めたならすぐに行動へ移す。とりあえず財布と携帯をポケットに突っ込み、無駄に重いゴミ袋を持って部屋を出た。


 部屋を出てすぐにわたしはとあることに気付いてしまった。我が家に客用布団なんて気の利いたものがあっただろうか。衝動で布団を処分してしまったけれど、よく考えてみれば大問題じゃないか。


「ああしまった、布団ねえじゃん。今日の夜どうしよう」

「じゃあうちに来る?」


 無意識に吐き出した言葉に、どこからともなく応えが返ってくる。ギョッとして振り返れば隣室のドアが開いていて、そこから長身の男性が姿を覗かせていた。ええ、なにこれ怖い。男性がわたしの好みの爬虫類顔の男前だったとしても、怖いものは怖い。だって、タイミングが良すぎる。


「いえ、間に合っておりますので」


 多分やばい人だ。関わらない方が身のためだろう。わたしはこれ以上隣人と関わり合いになりたくないと足早にエレベーターホールへと向かう。が、しかし。


「ねえ、布団って粗大ゴミじゃない?明日燃えるゴミの日だよ?」

「他にも色々突っ込んでますしそもそも圧縮袋に入れておりますので大丈夫かと思います」

「あ、すごいね、一瞬で猫被った。おれ、そういう女の子嫌いじゃないよ」


 いや、別にお前の好みなんて聞いてねえから。そんなツッコミが喉まで出かかって、何とか理性で押しとどめる。それよりもこの人どこまでついてくるつもりなのだろう。さっさとゴミを出して酒を買いに行きたいのだけれど、もしやコンビニまでついてくるつもりなのだろうか。


「ええと、あの、貴方…」

「川瀬諒平。言遍に京都の京で諒、平は普通に平で諒平。お嬢さんは?」

「いえ、貴方に名乗るつもりはありませんけれど。そしていったいどこまでついてくるおつもりですか」

「ええっ、おれは名乗ったのに?お嬢さん、イケズだなあ」


 何だろうこの人。今話題のパリピってやつだろうか、それともラテン系の血でも混じってるのか?言動が軽い、軽すぎる。そしてそんな軽い男に現在進行形で絡まれているわたし。3年付き合った彼氏に自宅で浮気されるわ、頭の軽い男に付きまとわれるわ、今日は厄日であったのだろうか。


 男にまとわりつかれながらエレベーターに乗り込み、さっさとエントランスのボタンを押す。男の存在なんて無視だ、無視。普段ならあっという間についてしまうエレベーターがやけに長く感じるのは確実にこの男が一緒に乗っているからだろう。ていうかほぼ初対面なのになんでこの人こんなにフレンドリーなんだろう。


「お嬢さんさぁ、どうして布団捨てるの?模様替え?」

「それを知って何になるんですか?というか答えるつもりはありません。ほぼ初対面の方にお話しすることではありませんもの」

「そっかぁ…、面と向かってほぼ初対面って言われると割とグサッと来るなぁ」


 それは、一体どういうことだ。わたしの頭上に疑問符が浮かんだのがわかる。というかわたしとこの男は引っ越しの挨拶程度しか顔を合わせたことはないはず。いや、隣に住んでいるのだから多少の接点はあっただろうが、気に留めたことはなかったように思う。これだけわたし好みの爬虫類顔の男前なら少しくらい記憶に残っていそうなのに、全くと言っていいほど印象がない。


 すうっと血の気が引いていくのがわかる。この男は、隣人は、いったい何者だ?


「あ、なたはいったい何者ですか」


 わたしの声に怯えが走ったのを感じ取ったのだろう。安心させるように、男が表情をやわらげる。いや、それぐらいで安心できるか!


「ごめんね、お嬢さんを脅かすつもりは全くなかった」

「説得力がありません。本当に、今日は厄日だわ……」

「ええっ、おれ、これでも割と一途にお嬢さんのこと好きなつもりなんだけどなあ」

「いや、そういうことじゃないです。そして今それを告げられても心底困りますのでしまっといていただけますか」

「おれの告白なかったことにしないで、お嬢さん」


 さらっと告白されたけれど今はそれを受け入れる余裕はない。とりあえずゴミを捨てたい。そしてヤケ酒だヤケ酒。こんなよくわからない男に付き合っている暇があったらさっさとコンビニで酒買って帰りたいし、できるなら気持ちよく酔っぱらいたいのだ。


 チーン、と軽い音を立ててエレベーターのドアが開く。わたしは男を無視してさっさとそこから出た。マンションの横に備えられたゴミ捨て場に負の遺産をぶち込んでコンビニへと向かう。どうあっても男はついてくるらしい。まったくはた迷惑な男だ。というか本当にいい加減にしてほしい。


「貴方も何か用事があったのではなくて?」

「うーん、しいて言えばお嬢さんについていくことがおれの用事かな」

「あらそう、では警察に通報させていただいてもよろしいのね」

「えっ、うそうそ冗談だって!おれはそこのコンビニに漫画買いに行くつもりだったの!」


 行先まで一緒なんて冗談じゃない。男が向かいのコンビニに行くというなら、わたしは1本奥の通りにある個人経営の酒屋にでも行くことにしよう。缶チューハイや缶ビールはないけれど、美味しい日本酒が取り揃えてあったはず。そんなことを思い出しながら、では、と男に別れを告げる。


「お嬢さん、どこ行くの」

「それはいちいち貴方に伝えなければならないことでしょうか」

「それは、」


 存在を認識してたかだか5分足らずの相手にどうしてそこまで伝えなければならないのだろう。わたしはこの男の恋人でもなければ家族でもない。この男だってそうだ。わたしと彼は唯の隣人。これまでも、これからも、きっと。


 だからいい加減ほっといてくれ、と、わたしは足早に男から離れようとした。


「ちょっと、なんで貴方ついてきてるのよ!」

「だってこのきっかけを逃したらお嬢さんと話す機会がなくなるかもしれない!」


 どうして人は追いかけられると逃げたくなるのだろう。例にももれずわたしも何とか男から距離を置こうと必死に足を動かす。しかし男女の体格差というのはやっかいなもので、あっけなく男に手を取られてしまう。


「お嬢さん、お願いだから、逃げないで」

「もう、逃げないから、手、離して」


 もうこの男相手に取り繕うのはやめだ。こんな面倒な男に猫被ったってどうしようもない。わたしの何がこの男の琴線に触れたかわからないが、とりあえず今は逃げることをやめてやろう。


「あのねえ、わたし、あなたが思ってるほどの人間じゃないのよ。普段は猫被ってるけど実際はこんなんだし」

「もちろん知ってるよ。だっておれが見たお嬢さんは素のきみだからね」

「え…?」

「でもこれ以上は悔しいから秘密にしておこう。おればっかりお嬢さんのことを気にしているのは寂しいし。……お嬢さん、おれときみは繋がっているよ。だから今度はお嬢さんがおれに興味を持って探してほしいな」


 この男は素のわたしを知っている――――その事実がわたしの頭をさらに混乱させる。


 職場関係はあり得ない。だってわたしは職場でもたいそうな猫をかぶって、お上品なお嬢さんとして働いているからだ。学生時代も同様。当然のように猫をかぶって生きてきたに決まっている。


 となればもう想像がつかない。わたしが素を曝け出している時なんて1人の時しかないし、それだっていつ何時知り合いと遭遇するかわからないから極力外出先では気を抜かないようにしているのに。


 ぐるぐると頭を働かせるわたしを、男が楽しげに見下ろしている。何だかとてつもなく悔しいので、わたしは男に背を向け、当初の目的であったコンビニへと向かうことにした。


「お嬢さん、約束が違う!さっき逃げないって言ったじゃないか」

「うるさい、わたしはコンビニに用があるのよ。これ以上貴方に付き合ってる暇はないの」

「なんだ、お嬢さんもコンビニに行くのか。じゃあ一緒に行こう」

「それが嫌だって言ってんの。貴方みたいなよくわからない男と一緒にいるのは嫌よ」

「じゃあおれのこと、もっとよく知ってくれる?」

「というかほっといてくれないかしら。面倒くさいのよ、貴方」


 ほぼ初対面のくせに妙になれなれしくて、わたしの素を知っていて、そして悔しいことにわたしの好みのタイプの顔をしていて。もう暫く恋愛事なんて結構だわ、なんて思っていたわたしを揺さぶる貴方なんて、面倒でしかない。


 わたしの言葉にショックを受けて固まっているらしい彼をおいてさっさとコンビニへ入る。勿論お目当てはビールと缶チューハイ。ついでにつまみになりそうなものも少し買ってコンビニを出れば、まだ男はその場から動いてはいなかった。


(ああ、もう、しょうがないなあ)


「じゃあ、わたしは部屋に戻るわね。さよなら、諒平さん?」

「え、あ、お、お嬢さんっ?」


 彼が我に返った時にはわたしはもう既にエレベーターの中に入っていて。とてもじゃないけれど彼が追いつけそうにはなかった。何だか愉快な気持ちになって、わたしはくすりと笑う。


「ま、とりあえず接点とやらを探してあげることにしますか」


 出来ればしばらく見つからないでほしいけれど。そんなことを思いながら我が家へ戻ったわたしは、新しいシーツと毛布を引っ張り出すのであった。

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