当日朝
スペンサーは一睡もできないまま、憂鬱な夜明けを迎えた。
湯気の立つコーヒーと焼きたてのパン、ハムと半熟卵の朝食が運ばれて来たが、全く食欲が湧かない。
黙って右手を振り、そのまま下げさせた。
スペンサー自身は、最高賢者という立場を別にしても科学知識に対しては肯定的とは言い難いスタンスの持ち主であり、勿論、禁書館に対して好意を持つ筈が無い。
従って、今ここで禁書館の中身が消滅したとしても、その事自体には何の痛痒も感じない。
しかし、暴徒が目の前で禁書館を破壊するとなると話は別である。
何しろ禁書館は、大賢人会議の膝元であるケンジントンの中心部、連邦政府・議会庁舎のすぐ近くなのである。
こんな所で焼き討ちが起これば政府の面目は丸つぶれであり、それはスペンサーを最高賢者の地位から引きずり下ろす格好の口実になるだろう。
スペンサーは、閣僚である崇高賢者達の顔を順に思い出していった。
何奴も此奴も、口先だけは調子よく口を開けば饒舌な阿諛が滔々と溢れ出てくるが、その実、本気でスペンサーに従う気のあるやつなど一人も居ない。
居るのは、最高賢者の座を虎視眈々と狙う野心家共と、勝馬に乗るチャンスを窺って従うべき野心家を見比べる小判鮫ばかりだ。
かつて、スペンサー自身もそうやってのし上がって来たのだから、その点は充分に判っている。
いや一人だけ例外がいたな、とスペンサーはケルブの顔を思い浮かべた。
あいつは、自分の地位が最高賢者以上の物であると思っているから、最高賢者の座を目指す野心も持たないし、最高賢者に対するへつらいすら不用だと思っている、と苦笑した。
スペンサー自身の長年に渡る権力闘争の経験から、今回の事態が野心家達にとって、最高賢者にとって代わるためのまたとないチャンスである事は明らかであった。
崇高賢者達は、スペンサーが今回の事態を乗り越える事はできないと踏んでおり、先ずはその失敗に巻き込まれない事を優先しようとしている。
そうして事態が破局を迎えれば、それを全て最高賢者の責任に帰して囂々たる非難の声を上げ、スペンサーは汚辱に塗れた退陣に追い込まれる筈だ。
野心家達は、今もスペンサー退陣後の後継争いに向けた多数派工作に、余念が無いであろう。
そういう意味で、スペンサーは完全に孤立している。
しかし逆に言えば、この事態を乗り切る事が出来ればスペンサーを非難できる者は居なくなり、その地位は磐石となる事が確実であるとも言える訳で、安定化した長期政権を樹立し、更にはいずれ訪れる引退後にも大きな影響力を確保できる貴重なチャンスである事も確かである。
但し、一体どうすれば乗り切る事ができるのか、全く見当もつかないのではあるが。
それ以外にも、禁書館自体が無くなる事については別の問題もあるのだが、それは当面は関係ないので意識から払い除けた。
スペンサーは執務室に入ると、デスクの呼鈴を取り上げた。
かつては、この建物の全ての部屋に電話が備え付けられていたが、それらの大半はとうの昔に動かなくなっており、僅かに残った稼働品は全て保安局がケンジントンの管理用設備として取り込んでいる。
スペンサーは呼鈴を鳴らして秘書を呼ぶと、閣議に当たる崇高賢人会議を召集する様に命じた。
保安担当閣僚である崇高賢者ロバート・ケネスは、不安な目覚めを迎えた。
様々な権力闘争を勝ち抜いて来た結果として漸く勝ち取ったナンバー3の座であるが、今回の対応如何によっては全てを失う可能性もある。
何も今で無くても良かろうに、とケネスは炎の剣の暴走が無性に腹立たしかった。
ここが思案のしどころである。
本来は保安担当閣僚として、炎の剣の暴走を止めるべきなのは充分に承知していた。
しかし、うっかり介入して炎の剣対保安局の全面戦争になってしまった場合、保安局に勝ち目はない。
第一、炎の剣の投入兵力(あれがただの『巡礼』であるはずがない事は子供でも判る)を見れば、禁書館がおしまいなのは明らかだ。
従って、ここで禁書館側につくような素振りを見せれば自動的に炎の剣に敵対したと見なされ、事態が収拾した後で只では済まなくなる。
このまま、禁書館が炎上するのを手をこまねいて見ている事で職務怠慢を責められるのと、炎の剣と敵対する事の危険を天秤に掛けて見ると、その答は明らかだ。
誰も炎の剣に逆らえない現状で敵対者と見なされれば、もう将来はない。
ここは、静観しておくに越した事はない。
呼鈴を鳴らすと、保安局長のサリバンを呼ばせた。
「おはようございます。」
挨拶しながら入って来たサリバンの表情は冴えが無く、やはり良く眠れなかったようだ。
「状況はどうだ。」
サリバンは現状を詳細に報告したが、ケネスは相槌を打つばかりで何も具体的な指示をしない。
そうしている内に、崇高賢人会議召集の連絡が入った。
「よし、行こうか。」
そう言って立ち上がったケネスに従って歩きながら、サリバンは予想通りケネスに積極的な事態打開の方針が無い事を覚った。
ケルブは爽快な目覚めを迎えた。
遂に、炎の剣設立以来の悲願を達成するための、重要なマイルストーンが実現される日が訪れたのだ。
あの忌々しい禁書館が今日を限りに地上から消滅すると思うと、自然に頬が緩む。
いつもと代わり映えのしないはずの朝食は、今朝は実に旨かった。
執務室に入り、デスクの呼鈴を取り上げると秘書を呼び、巡礼団のリーダー達を呼びつけさせた。
炎の剣ケンジントン支部長グロムイコと、巡礼団長のセジウィックに続いて、巡礼団の主要メンバーが整列した。
セジウィックは、今回の禁書館攻略軍の司令官であり、それに続くメンバーは各戦闘単位の隊長である。
「準備は出来ておるか?」
ケルブが鷹揚に尋ねると、セジウィックは胸を張って答えた。
「全て、完了しております。」
「武器の配置は済んだか?」
「はい、ライフルを200丁、拳銃を400丁、長剣を1000振揃えまして、広場各所の植え込みに分散して隠してあります。その他に、全員がナイフを持っております。」
「焼き討ちに使う松明は、どうなっておる?」
「1000本ほど作って、隠してあります。」
「梯子は、どうじゃ?」
「城壁の上まで届く物を20脚手配いたしました。」
その時、ケルブの秘書が、割り込んで来た。
「尊師、失礼いたします。崇高賢人会議の召集が掛かっております。」
ケルブは、煩そうに手を振った。
「今は手が離せぬ。待っておれ、と伝えよ。」
それだけ言って、会話を続けた。
「舟は大丈夫か?」
「運搬用の平底船を2艘入手して、船着き場に繋いであります。1艘あたりの人数は50人ですが、まず100人を送り込んで橋頭堡を確保すれば、後は往復する事で充分な人数を上陸させられます。」
ケルブは満足げに頷くと、更に尋ねた。
「『あれ』はどうじゃ?」
「勿論、用意しております。」
「まず使わずに済むとは思うが、見つからぬ様に、きちんと隠しておけ。あれはさすがに言い訳し難いでな。」
「畏まりました。」
「この後の手筈はどうなっておる?」
「皆が、尊師のおいでを待っております。尊師のご演説を頂きましたら巡礼団の意気は上がり、ご命令1つで鎧袖一触、禁書館を葬り去りましょう。」
その答えにケルブは満足げに、邪悪ともいえる笑みを浮かべた。
そこに、秘書が再度割り込んで来た。
「最高賢者様から、緊急事態なので直ぐに出席せよ。とのご命令です。」
ケルブは不快な表情で答えた。
「儂は、これから広場で信徒どもに挨拶をせねばならぬ。」
そこで一端言葉を切って、グロムイコに向かって告げた。
「そうじゃ、そなたが儂の代理で出席して参れ。なに、何と言われてもまともに相手をする必要は無い。適当にあしらっておけ。」
グロムイコが出て行くと、隊長達の方に向き直り再び話し始めた。
「そなたらも承知しておる通り、科学技術の根絶は我が父祖よりの悲願であり炎の剣の究極目標である。今ここで禁書館を消滅させる事が出来れば、最早それは成ったも同然じゃ。ここを切所と心得て、全力を挙げて邁進せよ。」
セジウィックは胸に手を当てて自信たっぷりに答えた。
「お任せ下さい。必ずや成し遂げて御覧にいれましょう。」
閣議室の最奥の椅子に座ったスペンサーは、苦り切っている。
当事者の中心人物であるケルブがやって来ないのだ。
秘書に呼びにやったら、その返事はなんと「只今所用で伺えません。後程出席いたします。」と来た。
閣議より重要な用事だと?全く舐められたものだ、と内心怒りに震えつつ八つ当たり気味に秘書を叱り付け、再度呼びに行かせた。
すがるような視線を投げているランドルフを除く他の閣僚達も、スペンサーと目を合わせないようにそれぞれあらぬ方に視線を遊ばせているが、この返答に不快感を覚えているのは同様だ。
漸く扉が開き、全員の鋭い視線が集中する中で入ってきたのは炎の剣のケンジントン支部長グロムイコだった。
「ここは貴様の来る所ではない!ケルブ師はどうした!」
グロムイコは、面罵されても全くたじろぐ事なく、愛想笑いを浮かべながら答えた。
「お怒りの段まことにごもっともではございますが、何分にも尊師は只今重大な用件を抱えておりまして、私にご用件を伺って参れとご下命ありました。」
そう言って、無遠慮に入って来て、許しも得ずに会議卓の末席についた。
スペンサーは、不快感を顕にしてグロムイコを睨み付けていたが、やむなく閣議の開催を宣言した。
続いて、保安局長のサリバンに尋ねた。
「今、広場はどのようになっておるのか?」
「昨日早朝より炎の剣の巡礼団、えー申請書によれば、総勢1987名がケンジントンに来訪致しました。これに先立ち炎の剣ケンジントン支部より、巡礼団の来訪当日の野営及び翌日の集会を目的とする禁書館前広場の占有申請がなされており、現在、広場は炎の剣巡礼団によって占有状態となっております。」
「それがどうしました?きちんと手続きに則ってやっておる事でしょう。」
「本職は、別に非難しているわけではありません。単に議長閣下のお求めに従って、事実を述べているだけです。」
サリバンは、グロムイコの半畳を軽くいなして報告を続ける。
「巡礼団は占有許可を盾に保安局の立ち入りを拒んでおり、現在の広場の内部状況は把握出来ません。」
それを聞いたスペンサーはグロムイコを睨み付けたが、グロムイコは素知らぬ振りで視線を反らした。
「なお、本事案との直接的関係は不明ですが、先週始めより崇高賢者ケルブ師宛に、大量の物資が搬入されていることを申し添えておきます。」
保安局には崇高賢者名義の荷物に対する臨検の権限が無いので、誰の目にも明らかに不穏な荷物が山のように運び込まれていることについて、責任を問われないための予防線を張っているのだ。
そう言い終えたサリバンが座った時、議長秘書が入ってきてサリバンにメモを渡した。
それを見たスペンサーは、サリバンに尋ねた。
「サリバン君、何かあったのか?」
サリバンは再び立ち上がると、メモを見ながら言った。
「只今入りました報告によりますと、ケルブ師が広場の壇上で信徒に向けて演説を始めたそうです。」
報告を聞いたスペンサーは、皮肉な口調で問いかけた。
「 グロムイコ君。これが君の言う『重大な用件』とやらかね?」
グロムイコは、全く悪びれた様子もなく答えた。
「尊師にとって何が大事であるかは、尊師ご自身がお決めになります。」