前日
翌朝ケイとプロメターは、玄関前で桶に積み上げた粉石鹸の袋の山とガソリン缶を並べた脇に立っていた。
そこへサーリムが走って来る。
「館長がこれから持って来るそうです。」
それを聞いたプロメターは言った。
「では始めるか。」
プロメターは足下に並べた紙袋を持ち上げると、次々に破って白い粉末を桶にぶちまけた。
もうもうと白い粉末の霧が立つ。
「風がない室内でやった方が良いんじゃ・・・」
そう言いかけるサーリムに、ケイが答える。
「ガソリンは揮発性が高いし、気化ガソリンは有毒な上に恐ろしく着火しやすいから、死にたくなければ密閉された環境では扱わん方が良い。」
プロメターが言う。
「さあ、ここにガソリンを少しずつ入れながら混ぜましょう。」
ケイとサーリムが缶を持ち上げて流し込むと、プロメターは棒でかき混ぜて行く。
たちまち、桶一杯に半透明のゼリーが出来た。
「これはフーフー・ガスと言って、ボーア戦争の時にオレンジ自由国のレジスタンスがイギリス軍に抵抗するために使用した物です。強燃性のゲルだから、取り扱いは慎重にしないといけません。」
そこに館長が、薄茶色の粉末の入った桶を提げて来た。
「言われた通り、アルミと鉄錆を半々に混ぜてある。アルミはまだあるが、錆は今のところこれだけだ。」
プロメターは、下ろされた桶の粉末の量を目検討で量って言った。
「この量なら、何とか足りるでしょう。」
ケイとサーリムが、ゼリーの入った桶を持ち上げて流し込んで行くと、プロメターが、ゆっくりと撹拌した。
やがて、焦げ茶色のゲルが桶一杯に出来上がった。
「紙筒と導火線の方はどうですか?」
ケイが訊ねる。
「女性陣に頼んである。さっき覗いたらかなり出来ていたんで、取り敢えず出来ている分だけ、こっちに持ってくるように言っておいた。」
そこへ、フィルムケース程の大きさの紙筒を山のように盛り上げた籠が、歩いてきた。
山が高過ぎて前が見えないので、足許が覚束ない。
「持ってきたわよ。」
声からすると、マーガレットのようだ。
「ありがとう、そこへ下ろしてくれ。」
マーガレットは、ケイの指示で籠を下ろすと、その縁に突っ込んであった袋を取り出す。
「こっちが導火線。」
それをケイが受け取っている横で、プロメターが紙筒を一つ取り上げる。
「ゲルをこの筒にこうやって、」
そう言いながら、スプーンでゲルを掬い上げる。
「詰め込んだら導火線を刺して蓋をします。手が荒れるから、必ずスプーンを使って下さい。」
それを聞いた館長は言った。
「判った。後はこっちでやっておきます。他にもやることが沢山あるんでしょう?」
「すみません。それではよろしくお願いします。」
プロメターは館長に頭を下げると、ケイとサーリムと連れ立って中に入っていった。
しばらくして、三人は前庭に出た。
ケイはペンキの缶を提げ、サーリムはブラシを持っている。
そこでは、前庭班と重力の指命からの助っ人以外の裏庭班の全員がジョーンズの指示下で、ピストルの練習に余念が無かった。
防壁は、大きな角石をコンクリートで繋いで積み上げた物で、約5メートル間隔で、支壁が内側に張り出している。
三人は、正門前の三日月型のスペースの左端と向かい合う支壁で区切られた区画の前に立った。
「番号は、ここから始めよう。」
そう言うとケイは、ブラシの柄を梃子にして缶の蓋を開け、ブラシにたっぷりとペンキを含ませた。
背伸びしながら大きく数字の1を書くと、次の区切りに移動する。
そうして、次々に数字を記入していった。
全て書き終わると、ジョーンズに向かい、
「指示は、この番号で出すからな。」
と言った。
「了解、頼りにしてるぜ、司令官殿。」
ジョーンズはニヤリと笑って、敬礼した。
そこに五人の男達がやって来た。
「教主様。遅くなりまして申し訳ございません。」
「皆さんよく来てくれました。献身に心から感謝します。」
プロメターが頭を下げると、男達は慌てて答える。
「勿体のうございます。我ら五人は何処までも教主様にお供致す所存にございます。」
その言葉に頷いたプロメターは、ケイに向いて告げた。
「私はこれから裏庭班の打合わせをする。ここからは別行動だ。」
「判った。よろしく頼む。」
そして、プロメターは裏庭班の残りのメンバーを呼びに行った。
ケイは、サーリムを連れて鐘楼に登った。
ここからは中央広場が一望できる。
もう、炎の剣の巡礼団は、各地から到着し始めているようで、広場の各所に、荷物を積み上げた小集団が散らばっている。
まだ昼食が終わったばかりの時間なのだが、気の早い集団はテントを組み立て始めている。
どうやら、このまま広場で野営する気のようだ。
「申請では明日の早朝に最大の団体が到着するようだから、恐らくそれまでは始まらないだろう。」
そう言いながらケイは、サーリムにトランシーバーを渡した。
「だが、突発事態に対する警戒は必要だ。私はこの後他の部署も見て回る必要がある。片付いたら戻って来るが、多分夜中になるだろうから、それまでお前はここで監視するんだ。」
サーリムは頷いた。
とっぷりと日が暮れ、蒸し暑い夜が訪れた。
広場は炎の剣の巡礼団によって、完全に占拠されている。
あちこちで焚き火が燃え上がり、周囲で殺気立った男達がうろつく様を照らし出している。
サーリムは、明日起こるであろう事態を想像すると、恐ろしくて堪らなかった。
なるべく考えない様にしようとするのだが、話し相手も無く当面何もする事が無い状況ではいかんともし難く、ふと我に返るとその事を考えて震えている自分に気付くのだった。
そもそも目前に広がる不気味な光景から目をそらす事ができない今、それを考えないで済む道理が無かった。
震えている自分を他人事のように眺めながら、ケイでもこんな時は震えるのだろうか、とぼんやり考えていた。
その時、だれかが階段を登って来た。
ようやくケイが来たかと安堵しつつ振り向いたが、ランプの炎に照らされたのは、マーガレットの心配そうな顔だった。
「ケイはまだ来ないの?」
「夜中までかかるって言ってた。」
マーガレットは、何故かほっとした様な表情を浮かべた。
「そう。晩御飯を持って来たわ。」
素っ気なく言って、布を被せた皿とスプーンを差し出す。
サーリムは、その時初めて自分が空腹である事に気付いた。
「ありがとう。」
受け取って布を取ると、パンと簡単な料理が山盛りになっていた。
そのまま皿を抱え込む様に胡座をかくと、食べ始める。
しかし、空腹にも関わらず食欲は沸いてこなかった。
三口程食べたところで、スプーンが止まる。
「どうしたの?」
気遣わしげにマーガレットが訊ねる。
「いや、別に。」
少女の前で意気地の無いところを見せたくない少年は、強いてスプーンを動かそうとしたが、その先端は細かく震えており、掬い上げた料理が膝にこぼれた。
「あらあら、こぼしちゃダメよ。」
少女が穏やかに笑いながら膝をつき、ハンカチを取り出して拭こうとした時、少年はそれより先に皿を置いて膝を手で払った。
今、体を触られると震えている事が判ってしまう、と思ったのだ。
少女は、膝をついた姿勢のまま少年の肩に手を掛けると、無言で抱き締めた。
「な、何を・・・」
少年が言いかけるのを制して、少女が優しく囁く。
「大丈夫。恐いのが当たり前なの。震えていたって、恥ずかしい事は無いわ。」
少年の肩から一気に力が抜けた。
しばらく二人はそのまま抱き合っていたが、少年が少し落ち着いたのを確めて、少女が立ち上がる。
「恐くなくなるおまじないをしてあげる。」
そう言って少女は、ブラウスのボタンを外し始めた。
やがて、身に付けていた物を全て捨てた少女が、少年のシャツのボタンを外し始めると、少年はされるがままでいた。
二人が再び抱き合い、互いの素肌が直接触れた時、少年が気付いた様に言った。
「君だって震えてるじゃないか。」
「しょうがないでしょ。初めてなんだから。」
二人はそのまま固い石畳に横たわった。
ケイは、頭の中で事前準備のリストを反芻していた。
あれから一人で禁書館中を駆け回って、できる事は一通り済ませた。
これで今日中にやらねばならない事は、あと一つだけだ。
夜も更けてきたので、そろそろ向こうも手が空く頃だろう。
ケイはヴィジフォンブースに向かった。
ブースに向かう廊下は灯りが消えており、闇の向こうにヴィジフォン画面の光が漏れているだけだった。
その淡い光を頼りにブースにたどり着くと、三つのブースは全てドアが開いており、未使用となっていた。
事は内密に進めなくてはならないので、ありがたかった。
右端のブースに入り、ドアを閉めてロックを掛けると、政府庁舎を呼び出す。
「こちらは、SI局のケイ・アマギです。保安局のオコーナーをお願いします。」
全ての準備を終えたケイが鐘楼に上がると、サーリムはマーガレットの膝枕で眠っていた。
ケイに気付いたマーガレットがサーリムを起こそうとするのを止め、ケイは小声で言った。
「この後交代で見張りに着かなくてはいけないから、もう少し寝かせてやってくれ。」
マーガレットが無言で頷くのを見たケイは、彼女が何かはにかんだ様子である事をいぶかしんでいた。