三日前
ケイの報告を受けたSI局長のランドルフは、緊急に監査官を集めた。
といっても、ケンジントン支局以外の監査官はほとんどが遠方に派遣されており、ケイの他にはジョーンズがいるだけであった。
恐らく、今回の炎の剣の蜂起はその点も折り込み済みなのであろう。
またジョーンズは現在弟子をもっておらず、弟子を持っている監査官達はみんな弟子を派遣先に同道しているため、見習いはサーリム一人だった。
そして、ケンジントン支局からは支局長のジョージ・セジャンズだけが出て来た。
ケンジントン支局に関しては、監査官と言う肩書きは名目上の物に過ぎず実質的にはただのガーディアンであるから、必ずしも不適切とは言えないが、それにしても協力的な姿勢とは言い難かった。
総勢五人だけの緊急会議となった。
会議の冒頭でケイが事態を説明して禁書館防衛の必要性を訴えた時、セジャンズはきっぱりと言った。
「ケンジントン支局は、防衛戦には参加できません。」
周りが驚いて非難の視線を向ける中、平然と続ける。
「我々には崇高賢者の身辺警護という任務があり、ケンジントンが不穏な状況にある今、他の事に人数を割く余裕は有りません。」
SI局で実質的に戦力といえるのは、ケンジントン支局だけである。
その支局が離脱を宣言したとなると、最早SI局に戦闘能力は無い。
「ちょっと待て!今どういう状況なのか判っているのか?」
ランドルフが、激しく詰問する。
セジャンズはその剣幕を意にも介さず
「状況が判っているからこその判断です。我々は本来の業務で手一杯です。」
と、全く妥協の余地が無い事を、強い口調で示しつつ立ち上がった。
「それでは、至急に警護体制の再点検をする必要があるので、これで失礼します。」
ランドルフが引き留めようと立ち上がりかけた時、セジャンズは振り返ると付け加える様に言った。
「誤解の無いように申し添えて置きますが、ケンジントン支局としても勿論協力する事に吝かではありません。武器弾薬は幾らでも提供させて貰いますよ。」
そう言って、引き留めようとするランドルフを無視して出ていった。
部屋を後にするセジャンズは、この件に介入する気は全く無かった。
中立を保ちさえすれば、後は上手く取り計らって貰える約束になっている。
これを期に、ケンジントン支局からは局長は出せないという悪弊を改めさせるつもりである。
監査をやらないケンジントン支局の人間には、SI局長は勤まらないなどという偏見を力づくで叩き潰してやる、と固く決心していた。
「どういうつもりだ。」
憮然とした表情で、ランドルフが呟く。
「炎の剣の差し金でしょうね。」
というケイの推測に、全員が頷いた。
「まあしかし、考え様によっては、最悪のシチュエーションは避けられたと言えるんじゃないですか?」
ジョーンズが明るく言う。
「最悪じゃないだと?」
その言葉に、ランドルフは眉を吊り上げた。
「考えて見て下さい。セジャンズ一党が炎の剣の意を受けて防衛戦に参加した上で肝心な時に裏切ったら、それこそ手の打ち様がありません。早々に出ていっただけましですよ。」
「それはそうかもしれんが、我々3人だけで立て籠ってもどうしようもないぞ。これで禁書館の人間を巻き込むしかなくなった訳だ。」
ケイが指摘する。
「ちょっと待って下さい。局長が一緒になって立て籠って貰っては困ります。」
「何だと?君たちが戦っている間に私一人高見の見物なんて、できるわけがないじゃないか。」
ケイは窘めるように言った。
「局長まで一緒に立て籠ったら、一体誰が崇高賢人会議に働きかけるんですか。」
ランドルフは無言のまま腕組みをしたが、その表情は明らかに不承知を示していた。
「いいですか。籠城戦では、外部から救援が来ない限り勝ち目は無いんです。私にもポールにもそれを実現する手段はありません。局長の政治力だけが頼りなんですよ。」
ケイの言い分は筋が通っており、ランドルフは反論できなかった。
腕組みのまま無言で座っているランドルフに、ジョーンズが追い討ちをかける。
「さあ、後は我々が何とかしますから、スペンサー師の所へ行って衝突を回避するべく働きかけて下さい。」
急き立てられたランドルフは、不承不承立ち上がった。
その背中を見送った後、ケイが言った。
「それじゃあ、禁書館に行くか。」
そしてケイが立ち上がろうとすると、ジョーンズが制した。
「待て、その前にもう一つ話がある。」
そう言ってサーリムに向き直ると、話し掛けた。
「なあ、サーリム君。」
「はい?」
突然話を振られたサーリムは、虚を突かれて生返事を返した。
「我々はこれから禁書館に立て籠る訳だが、その際には外部で折衝を行う局長と緊密に連絡をとる必要がある。だから、その伝令役を君に頼みたい。この一件が片付くまで、局長の側に居てくれないか。」
その言葉を聞いて、ケイは心の中でジョーンズに感謝した。
できればサーリムは籠城に巻き込みたく無かったが、ジョーンズの手前もあり言い出しかねていたのだ。
ところが、少年はきっぱりと拒絶した。
「いいえ。僕の居るべき処は、ケイの側です。」
「おい、サーリム。その・・・」
ケイが説得に掛かろうとしたのを遮って、サーリムは続けた。
「監査官見習いの僕が籠城に参加しない事は、禁書館の人達の説得に良い影響を与えないでしょう。第一、籠城が始まったら伝令なんて役に立たないじゃないですか。」
ジョーンズとケイは無言で顔を見合せていたが、やがてジョーンズが言った。
「解った。一緒に来なさい。」
ケイ達の説明を聞いた館長は、禁書館職員全員を緊急に招集した。
大会議室は、50人を越える人数でごった返している。
ほとんどの職員が最近の不穏な気配を感じており、周りの者達と話し合っている。
黒板を背にした館長は、声を張上げた。
「静粛に!忙しい中で集まって貰った理由については、皆想像がついていると思うが、SI局のアマギ君から説明してもらう。」
促されてケイが立ち、状況を簡単に説明した上で籠城に参加するよう求めた。
しばらく職員たちは口々に話し合っていたが、やがて、マイケルが参加者を代表して口火を切った。
「ここには『文明』がある。その事はここにいる全員が理解している。」
そう言って参加者を見回し、全員が無言で頷くのを確めてから続けた。
「で、その『文明』とやらは、本当に我々が命をかける値打ちが有るのか?」
マイケルの問いかけには、明らかな揶揄の響きがあった。
ケイは答えた。
「我々が守ろうとしているのは、そういう形而上的な物じゃない。人類滅亡を回避するための鍵だ。」
その答えは意外だったようで、次の質問には攻撃的なニュアンスは無く、純粋に疑問をぶつけて来た。
「禁書館が無くなる事と人類滅亡が、どう繋がるんだ?」
ケイは、諭す様に話し始めた。
「今、人口は減少の一途をたどっている。大いなる再構築直前の総人口は82億だったが、その後の内乱や相次ぐ飢饉と疫病で、今は概算で30億強まで、減少している。」
話の方向が分からないまま、マイケルは反論する。
「それは、現状ではやむを得ない事だし、いずれはどこかでバランスするだろう。」
今度はケイが訊ねる。
「その『いずれ』ってのは、どの時点だ?」
この質問を想定していなかったマイケルは、軽く狼狽しつつ答えた。
「そ、そりゃ、大賢人会議の言う『実り豊かな中世への回帰』が達成された時点だろう。」
ケイは鋭く斬り込んだ。
「『実り豊かな中世』なんてのがただのお題目に過ぎない事は判ってるだろ?」
マイケルは成り行き上、別に信じている訳でもない大賢人会議の弁護をする羽目になってしまった事で、多少苛立ちつつ答えた。
「もちろん俺だって中世の暮らしが素晴らしい物だとはこれっぽっちも思っちゃいないが、別に中世だって人類が滅亡していた訳じゃなし、人類は何とか折り合いをつけてやって行くだろう。」
「そなたは、それを本当の脅威だと判断した訳じゃな。」
連邦政府最高賢者ウィンストン・スペンサーは重々しい口調で訊ねた。
スペンサーの権力基盤が極めて不安定な物である事は、ケンジントンでは誰でも知っている。
彼を頂点に戴く団体『救国の盾』は、大賢人会議で最大勢力を擁する『炎の剣』を除いても、大勢力とは到底言い難かった。
本来ならとても最高賢者に就任できる勢力ではないのだが、炎の剣に対する批判的なスタンスが、大勢力を頼む炎の剣の傍若無人ぶりに対するカウンターパートとして期待を集めた結果、現在の地位に就いたのである。
その彼の内閣において、炎の剣の代表であるケルブは崇高賢者として入閣しているが、特に担当任務を持たない無任署大臣の位置付けである。
炎の剣の権力が大きくなりすぎない様にするための配慮なのだが、同時に、敢えて特定の権能を求める必要も無いほど、炎の剣の影響力が大きいという客観的な事実の反映でもある。
炎の剣は、大いなる再構築とその後の動乱の収拾において、極めて大きな役割を果たして来た事から、連邦政府の実質的なスポンサーと見なされ、自身もそう振る舞って来た。
そして、最高賢者は、しばしば釈迦の掌上で踊る孫悟空と揶揄されて来た。
今や炎の剣は、歴代の(炎の剣出身でない)最高賢者にとって、抜き難い刺であり、その影響力を少しでも減衰させる事が(表立って表明はできないが)最大の課題である。
「はい、彼らは本気でやるつもりだと考えます。」
スペンサーは、ランドルフが自局の利益を最優先する様な事の無いバランスの取れた考えの持ち主であり、その発言は常に信じるに値する物である事を良く理解していた。
「難しいのう。」
申請その物は当然ながら正規の手続きに沿っている筈だし、だからこそケネスも受理するように指示せざるを得ない、と判断したのだろう。
いずれにしても、正規の手続きを踏んで提出された申請を一旦受理してしまった以上、これを覆すのは不可能に近い。
「知っての通り、閣僚たる崇高賢者に対して、その専管事項に関して指揮命令を行う権限は、最高賢者には無いのじゃ。」
特に、炎の剣を相手にこの許可の取り消しを行う事は、政治的自殺とほぼ同義だから、仮にスペンサーが命令したとしてもケネスに受け入れる余地はあるまい、と思っていた。
ケイは、そろそろ本題に入る事にした。
「中世が終焉を迎えた15世紀初頭の総人口は10億程度だったと考えられている。中世の低い生産性で養えるのは、せいぜいその程度だ。」
話の主題が見えてきたマイケルは、先回りしてやろうと思った。
「更に20億の減少が必要だとしても、世界は緩やかにそこへ向かって行くだろうし、奇跡的に世界が理性を取り戻せば、喪われた技術が再発明されるかもしれん。一度できた事なんだから、必要があればもう一度できるだろう。」
「蒸気機関の発明者は誰だ?」
ケイの唐突な質問の意味を計りかねて、マイケルはいぶかしげに答える。
「ワットだろう、それがどうした?」
ケイは説明を始めた。
「実用的動力としての蒸気機関を最初に考案したのはドニ・パパンだが、蒸気が凝縮するときの負圧を利用するパパンの機関は結局動作しなかった。それをより高温高圧の蒸気から駆動させる事で、何とか動作するところまでこぎつけたのはトマス・セイヴァリだが、セイヴァリの機関は頻繁に爆発事故を起こし、セイヴァリ自身もそれで命を落とした。そこで、高温の蒸気膨張による正圧を利用する事でより安全に稼働するように改良したのが、トマス・ニューコメンだ。だがシリンダー内で蒸気を冷却し凝縮させるニューコメンの機関は恐ろしく効率が悪く、炭鉱の排水を行うために採掘された石炭の1/3を消費した。これを、蒸気凝縮機を独立させる事で解決したのがジェームズ・ワットで、ここに至ってやっと実用的な蒸気機関ができた。他の3人も、間違いなくワットと肩を並べる天才だった。そして、ニューコメン機関無しに、ワットによる蒸気機関の完成は無かったし、セイヴァリ機関無しでニューコメンの発想の転換は難しかっただろう。もちろんパパン機関無しで、セイヴァリが稼働する機関を作れたとは思えない。これは蒸気機関に限った事じゃない。科学技術史を見れば、一人の独創的な天才が、何も無い所から新しい技術を完成させた例は皆無と言って良い事は、直ぐに解る。」
突然始まった科学技術史の講義に、マイケルは面食らった。
「それがどうした?」
ケイは簡潔に纏めて見せた。
「つまり、この先いつか理性を取り戻した人類に『蒸気機関を再発明する』ために、4人の天才と100年の時間を投じる余裕があるか、という問題だよ。」
マイケルはしばらく考え込んだが、顔を上げて反問した。
「何故、その余裕が無いと思うんだ?」
ケイは、解説を続けた。
「今の人口は、科学肥料を含む近代的農業技術なしの『中世的』生産手段で安定的に支えられる10億人を大幅に超過している。つまり、生産手段としての土地から、地力を収奪する形で生産が行われているんだ。このまま農産物の連続的生産を続ければ、土地は痩せる一方だ。この問題に対する中世的な解決手段は三圃制だが、これは三年に一度耕地を休ませ、耕作する2年のうち1年は、地力回復に役立つが生産性の低い作物に切り替える、つまり、全体の生産量を1/2以下に切り下げる事を意味する。今でさえ飢饉が頻繁に起こっているのに、この生産量の低下はとても許容できるもんじゃない。結局、地力が喪われるのを覚悟の上で最高収量の作物の連作を続けるしかないんだ。しかし、これを続ければ単位面積当たりの収穫量は低下の一途をたどり、最終的には耕作不能なバッドランドになる。良いか、バッドランドってのは雑草の茂る荒れ地の事じゃない。雑草すら生えないむき出しの地面だ。そうなれば、表土が全部入れ替わる程の破滅的な大洪水以外で農地が自然回復する事はあり得ないし、中世的な農業技術での再生も不可能だ。もう科学肥料を含む大規模な土壌改良技術なしでは再生できないんだよ。そして、今こうしている間も農地のバッドランド化は進んでいる。」
ケイはここで一旦話を切ったが、反論はなさそうだったので再び続けた。
「今の人口で収奪的農業生産を続ける限り、耕地のバッドランド化は進行し耕作可能地は減少し続ける。それは残る耕地に対する再生産力収奪の強化に繋がり更なるバッドランド化を加速する。今の人口は、中世の技術で自然の回復力の範囲内で社会を運営して行くには多すぎるんだ。これは農業だけの問題じゃない。例えば、30億人が森に行って日々の煮炊きをする薪を取るだけで、森は消えて行く。人口が多過ぎて、全員が最低限の生活に甘んじてもその消費量の総計は自然の再生力を大きく上回っているんだよ。あらゆる意味で環境の自然再生力は不足しているのに、今飢え死にしたくなければ不足分は自然再生力を超える『収奪』で賄う他はない。当然、収奪した分だけ再生力は喪われ、時間の経過と共にそのギャップは加速度的に大きくなって行く。このままでは、人口が10億になる頃には大地の再生力の範囲内で許容できる生産量は2億人分程度しかなくなっているだろうし、恒常的な生産性の維持を度外視する収奪を前提とした生産量でもせいぜい5億人分程になってしまう。恒常的な飢餓が世界を覆い、豊作とは『今年の餓死者が3割減る』という意味に過ぎなくなり、食料やわずかに残った耕作可能地を奪い合う内乱が日常となり、そして破局が訪れる。」
「どうじゃろう、ケネス師?この件について再考の余地は無いかのう?」
突然スペンサーに呼び出され、訳も判らずやって来てみれば、昨日の件の蒸し返しである。
ケネスは、サリバンに怒りを覚えていた。
裁可済の件について最高賢者に直訴するとは、私を蔑ろにするにも程がある、と握り締めた拳が小刻みに震えている。
「いやいや、そなたが考えている事はおおよそ見当が着くが、この件にサリバンは関係ない。話の出元はSI局のランドルフじゃ。」
ランドルフだと?なんでSI局がでしゃばって来るんだ?ケネスの怒りはますます高まった。
「そう仰られましても、何分にも正規に申請の手続きを踏んで来ておりますから、却下する理由がありません。」
沸き上がる怒りを抑えて、ようやくそう答えた。
「ふむ、君の難しい立場は充分に理解しているつもりじゃ。その上で今回の状況を鑑みて、敢えてお願いしたいのじゃ。」
驚いた事に最高賢者が頭を下げた。
ケネスはスペンサーが嫌いではないし、いずれは最高賢者を目指している身としてここで恩を売っておくことは損にはならないので、できれば良い返事をしたかったが、そうするにはこの問題はあまりにも重大過ぎた。
この件で炎の剣を怒らせれば、自分の未来は無くなる。
いくら最高賢者の頼みでも、聴く訳にはいかない。
とは言えここでスペンサーを失望させるのも愚である。
とりあえず、間に合わなくなるまで誤魔化すしか無いと考えた。
「しばらく検討させて頂きたいと存じます。」
マイケルは、ケイの示した暗澹たる未来図に愕然としつつも、反論を試みた。
「それは大変な事だが、その内乱の中から事態を収拾する強力な指導者が出て、新しい国家を再生しないとは限らんだろう。過去の歴史はみんなそうだった。中国もローマもそうやって何度も再生したじゃないか。」
ケイは冷やかに答えた。
「その可能性はゼロではないが、極めて低いだろう。」
「何故だ。もう優秀な指導者のタネは尽きたとでも言うのか?」
ケイは穏やかに続ける。
「人材に不足はないさ。今までと同じくな。しかしその指導者の手元には、人類を救済する事が可能な国家を立ち上げられるだけの資源は残っていない。それらは元々不足している上に、内乱につぎ込まれてしまうからだ。」
マイケルは尚も希望を探そうと足掻いた。
「その指導者が、強力な指導力と長期的な展望を併せ持つ天才なら、いたずらに闘争に全てをつぎ込むような愚かな行動は取らないだろう。」
ケイは諦めの表情で言った。
「今日殺されないためになら、明日への貯えをつぎ込む事に躊躇うやつはほとんどいないし、もし長期的展望を持ってそれを躊躇う者は、躊躇わない者に勝てない。だからそういう絶望的な闘争では、勝者は全てを躊躇う事なく闘争につぎ込む者の中からしか出ない。そして、どのみち山分けして全員がやって行けるだけの資源は存在しないんだから、対話による調整は不可能だ。生き延びたければ、相手の持つ資源を全て取り上げて自分の方に繰込むしかない。そこでは、敗者を奴隷化する余裕すら無いだろう。全てを取り上げられた敗者は、打ち捨てられて自然に滅びるか、将来の危険の芽を摘むために積極的に滅ぼされるしかない。そういう融和的な対話の余地がない闘争の中でその勝者が打ち立てる国家は、アッシリアのような対外的にも対内的にも圧政的な帝国に成らざるを得ない。その帝国の中では、指導者が認定する内外の敵を打倒する事が全てに優先される。そういう指導者にとっては、ますます小さくなっていく資源というパイに依存する中で、自国民ですら自分にとって代わり得る潜在的な敵だし、そもそも生きているだけで自分達の取り分を危うくする脅威になる。そしてどの文明段階でも、戦争は他の全ての活動を遥かに凌駕する勢いで資源を消費するから、ますます資源の不足は加速して行く。そして、アッシリア型の帝国が興亡する度にその領域の資源は使い尽くされ、その分だけ人類の滅亡が早まる。」
ケイは再び言葉を切って、聴き手が理解している事を確かめた。
「そうなってから理性を取り戻して、もう一度科学技術を再発見する余裕があるだろうか。」
マイケルが訊ねる。
「それで、何か手はあるのか?」
「科学技術史は試行錯誤の歴史だ。前もって正解が判っていれば、その分だけ試行錯誤無しに先に進める。もし、パパンがニューコメン機関の設計図を見る事ができたら、18世紀のフランス全土に鉄道網が敷かれていたかも知れない。原始的な内燃機関を発明したエティエンヌ・ルノアールがゴットリープ・ダイムラーの自動車を見ることができたら、19世紀のパリに2CVが走っていたかも知れない。人類が理性を取り戻した時に、少しでも科学技術情報が残っていれば、そこまでの試行錯誤の時間が短縮でき、その分だけ滅亡を回避できる確率が高まるんだ。」
ケイは、ここで一旦言葉を切った。
「それに、ごくまれにだが科学技術上の1つの知見が大きく世界を変える事もある。19世紀末までのコレラの死亡率は50%を上回っていた。つまり、コレラを発症する事は死ぬ事とほぼ同じだった。しかし、20世紀初頭には死亡率は5%にまで低下した。対応を間違えなければ、助かる事が期待できるようになったわけだ。これは、医学全体の急速な進歩による物でも衛生状況の大幅な改善による物でもなく『嘔吐や下痢は体内の水分過剰から起こる物なので、患者に水分を与えてはいけない』という古い知見から、『コレラによる死亡原因の大半は脱水症状による物だから、水分を十分に摂取させれば、とりあえず発症直後の死亡は回避できる』という新しい知見への転換があったためだ。これによって、最新の医療技術の恩恵や大規模な衛生状況の改善が期待できない地域でも、コレラの流行による人口の大幅な減少は起こらなくなった。勿論こういった新しい知見も、何もない所から突然現れた訳じゃなく、人類が文明を築きはじめてから1万年にわたる観察に基づく天才の発見なんだが、その発見が必然だったとは言い切れない。それが一旦喪われた時に再発見できるという保証は全くないんだよ。」
ここでケイは一呼吸置いて、聴衆が問題を理解している事を確かめた。
「更に大きな問題として、個々の知識の喪失は社会全体の状況に関係なく簡単に起こる、という点がある。例えば21世紀初頭の科学技術が大きく発展し続けていた時代に、20年以上稼働していた半導体を製造する大規模なプラントに対して、工程の見直しを含む生産設備の全面的更新による生産の合理化が図られた事例がある。ところがそのプラントの中に、文書記録が残っておらず旧設備構築当時の関係者もすっかり忘れてしまったために、どういう目的で実施されているのかが全くわからなくなった工程があった。そのため、この工程が廃止可能かあるいは他のより進んだ手段で代替できるのかが全く見当が付かなかった。結局この工程は、全く手を加えず従来通りに実施する以外ない、という結論になった。こんな風に知識という物は、適切に記録し継承されなければ周りの環境がどうであろうと高々20年程で喪われてしまうものなんだ。そして、さっき挙げたコレラに関する知見が失われれば、再びコレラは死亡率50%の致命的な病気になる。」
聴衆は、無言でケイの言葉を噛み締めていた。
「今のやり方で進む限り、恐らく人類が滅亡するまで、自然回復力と収奪量がバランスする事はあるまい。更に、文明の再建に向けて舵を切り直すまでの期間が長くなれば、それだけ再建を可能とするための余裕は加速度的に減少して行く。もし禁書館の知識無しに文明を再建しようとするなら、今すぐに方向転換しても間に合わないだろう。だから今ここで禁書館が消滅すれば、千年後の人類は石器時代を生きているだろうし、一万年後には言葉を話す動物に過ぎなくなるだろう。」
マイケルはそれでも食い下がった。
「しかし禁書館が残っても、今同様に顧みられなければ意味がないだろう。」
「方向転換は起こるかも知れないし、起こらないかも知れない。未来の事は誰にも分からない。しかし今ここで禁書館が無くなれば、将来方向転換が起こっても最早どうにもならない事は確かだ。」
マイケルは俯いて暫く考えていたが、再び顔を上げたその表情には迷いが無かった。
「俺は、ここに命を懸けるに価する物があると信じる。我々はここに立て籠って戦うべきだ。」
それまで黙って対話を見守っていた館長は、徐に立ち上がり話し始めた。
「確かに、我々は禁書館を守るために今戦う必要がある。しかし、全員に戦う事を強いる事はできない。希望者だけが残ってくれ。取り敢えず今この場で決定する訳にもいかないだろうから、それぞれ自宅に帰って落ち着いて考えてみてくれ。」
ここで一旦言葉を切って、聴き手が考える余裕を与えた。
「とは言えあまり時間的余裕がある訳でもないから、参加しても良いと思う者は、明日の9時に再びここに集まってくれ。参加を希望しない者は、巻き添えを避けるために必要な荷物をまとめて安全が確保できる明日中に退去して欲しい。その際には、残留者は退去する者を引き留めてはいけないし、退去者は残留者を誘ってもいけない。全て本人の意志に任せるんだ。また、幸いにして防衛に成功した暁には、退去者を従来同様に受け入れなければならない。何か質問はあるか?」
誰も手を挙げなかったので、解散を宣言した。
「それではまた、明日の9時に集合しよう。」
ケイは重力の使命ケンジントン支部のオフィスを尋ねた。
プロメターはケイを迎え入れると、冗談めかして言った。
「なかなか面白い事になってきたようだな。」
しかし、ケイはその軽口に乗らず、固い口調で答えた。
「お前さんには貸しが有った筈だ。そいつを取り立てに来た 。」
プロメターはその言葉を予測していたが、ケイの勢いに驚いた風を装い、目を丸くして聞いた。
「何をしろって?」
そのおどけた口調に、ケイはようやく肩の力を抜いていつもの調子に戻って続けた。
「教団で、ケンジントン巡礼を企画する気はないか?」
「なんでこの時期に?」
「いつであれ、信者達に世界の中心を見せる事は悪い事じゃあるまい。あと 、道中は色々と物騒だから、対象を若い信者だけに絞って全員が護身用の武器を持っていたほうが良いな。」
ケイは気楽な調子を装って、できるだけ婉曲な言い回しをした。
唐突にプロメターは真顔になり、答えた。
「借りはケイ・アマギとエドワード・プロメター個人同士の間の話だ。信者達の命で支払うわけには行かんよ。」
そう言ってプロメターは、ケイの表情を窺った。
「判った。この件は忘れてくれ。」
食い下がるかと思っていたら、あっさりと取り下げたので、拍子抜けした。
肩を落として出て行くケイの背中を見送ってから、プロメターはヴィジフォン・ブースに向かった。