5. 妄執の勇者 (2)
勇気を取り戻したらしい勇者アビゲイルは剣を振るい、懸命に踊った。白い光が放たれるたびに玉座の間のあちこちに蜘蛛の巣のように光が留まり、それが私を包み込もうとしているのを感じた。マントに直接に触れない聖剣の力はマントに頼って無効化することはできない。
このまま黙って座っていては、少々面倒なことになりそうだ。じわりじわりと肩に重みが増してくるようだ。
「ああー、なんか息苦しいな」
深き毛皮の友をマントの中にしまったが、それでも押しつぶそうという力をすっかり削いでやることができない。
「目がちかちかしやがる」
ああ、黒い沼の神よ。なんということだ! 深き毛皮の友が舌を出してぐったりとしてしまったではないか!
「しっかり、しっかりせよ。我が友。お前がいなくなったら困るのだ。私をおいて行かないでくれ。お前を失ったら、それこそ暗黒世界の始まりだ!」
そっとゆすっても友は唸るばかりだ。これはいけない。急がねば。
私は長く息を吐いた。吐息は四足の魔物の形をとった。長い蠍の尾、獅子のような輪郭と鬣に人間の老人の顔。マンティコアだ。
「自ら呼び出されるとは珍しい。厄介事か、魔王よ」
「ああ、あの娘が私と皆を封印するというのだ。我が友が苦しんでいる。すぐに止めさせねばならない」
マンティコアは我が友の様子を覗き見ると三列も並んだ鋭い牙を大きく剥きだした。
「ならぬ、マンティコア! これはそなたの餌ではない! 私の友だ!」
「分かっておる。分かっておる。目の前にこのようにうまそうな鼠がいるのに手が出せないのは実に腹立たしいが、魔王の仰せだ。この者には手を出さぬ」
まったく油断のならない奴だ。こうした特別な理由でもなければ絶対に呼び出したりしなかったものを。しかし、真綿で絞め殺すようないやらしい攻撃をやり返すなら、こいつをおいて他にない。
「すぐにあの勇者に封印を止めさせろ。そして二度とこのような真似ができないように追い立てろ」
マンティコアは醜い顔を歪ませて笑った。
「お安い御用じゃな」
彼はトンと飛び立つと尻尾から針を飛ばして騎士と魔術師を床に縫いとめた。更に娘の両袖を壁に留めると悠々と騎士の頭の上に迫った。
「娘よ、封印は諦めろ。さもなくばお前の騎士の頭を食いちぎるぞ」
「ど、どうしてそんなに軽々と動けるの?! もう封印の術は効きはじめているはずよ!」
「ああ、効いておるとも。狭苦しいところに押し込められて凝りに凝っていた腰が押されて心地よいわい」
さすがに気が遠くなるほど長い時間を生きてきた爺だけのことはある。本当は飛び上がるのも辛いだろうに、皺だらけの顔にはそんな様子は微塵も見えない。その様子は勇者の心を動揺させ、術者の心の揺らぎは未完成だった術の綻びを大きくした。
これだけ戒めが緩めば、あとは力づくでも解除できる。腕を大きく振るって蜘蛛の巣を払えば術が砕け散る音がした。
「そんな……。こんなにやすやすと」
娘は青ざめて震えた。そしてまた妄執に憑かれたように何事か呟きだした。目がうつろだ。
「アビー! しっかりしろ。俺達がついてる。絶対に君を一人にはしない」
「もう国なんか捨てて、田舎で静かに暮らそう。無理をして勇者になんてならないでいいんだ。君は優しい子だ。戦場に立たされて、怖かっただろう」
「お前を勇者足らしめている恐ろしい剣など捨ててしまえ!」
騎士と魔術師の呼びかけに、声色を使ったマンティコアがまんまと便乗した。混乱の極みで勇者アビゲイルが投げ出した聖剣をマンティコアが器用にくわえた。
「魔王。この忌まわしい剣はどうしてくれよう?」
嗄れ声に戻った奴の言葉にアビゲイルたちは真っ青になったが、既に遅い。聖剣はこちらのものだ。
「私が引き受けよう。良い鍛冶師を知っているのだ。無垢なる乙女を戦場へ駆り立てるような忌まわしい剣な鋳つぶした方が世のためだ」
私は白い炎を上げる剣を丸呑みにした。良い鍛冶師は私の腹の中にいる。
「聖剣を……。食べた」
勇者アビゲイルは目玉が落ちそうなくらいに目を見開いて呆然と崩れ落ち、そこから半狂乱になって騒ぎ出した。
「何よ! 魔王が平気で食べられちゃう聖剣なんていんちきじゃない! そんな頼りにならない道具一つで勇者に祭り上げて、私の人生を台無しにしたのね! 信じられない!」
「マンティコア、煩いから早く連れていけ」
マンティコアは髪を振り乱して騒ぐ代理人アビゲイルと騎士と魔術師を見えない紐で引きずって玉座の間を去って行った。ここから先の処遇はあいつに任せておけば間違いはない。
「相変わらず魔王は腹壊しそうなもんを平気で食うよな」
「友よ。もう調子は戻ったのか? 苦しかったであろう」
「おお、骨も内臓も無事だよ。マンティコアの爺のおかげと思うと気分が悪いけどな!」
「案ずるな、あれが我が深き毛皮の友を害することはない」
「分かってるよ。お前に逆らえる魔物はこの世に俺様だけだからな」
ひげをゆすった我が友は私の腕から飛び出すと、体が軽いと喜んで玉座の間を駆け回った。うむ。短い手足が軽快に動く様子が実に愛らしい。我が友が無事でよかった。そうでなければ、この世を滅ぼしかねないところであった。
***
勇者アビゲイルは自分を勇者に仕立て上げ、役に立たない聖剣を押し付けて送り出した大神官に文句を言わねば気が済まないといきり立って母国へ戻った。怒れる勇者を迎え、聖剣が魔王に丸呑みにされた顛末を聞いた大神官はそれを信じなかった。アビゲイルを嘘つき呼ばわりし、聖剣を失った咎で彼女を処刑しようとした。これに怒った騎士と魔術師が仲間を募って神殿を襲撃し、白き湖の国の伝統ある神殿機構は破壊された。以降、新たに正統な国家元首が決まるまで白き湖の国は長い混乱の時代を潜り抜けることになる。