5. 妄執の勇者 (1)
セイレーン達は上機嫌で帰ってきた。廊下や広間を水浸しにされたのには参ったが、それより他には問題もない。魔物にかけられた濡れ衣も晴れたようだし、良かったことだ。盗賊たちは代わりに捕えてやったのだから、海の連邦公国もしばらくは平穏であろう。良いことをした。
しかもセイレーン達がいくばくかの土産を持ち帰ってくれたので、私と深き毛皮の友は久しぶりに海の魚を食することができた。昔懐かしい沼の魚とは少々違うが、やはり魚は故郷の味だ。心が安らぐ。
長く故郷を離れていると、どうしても帰りたくて仕方がない時期が訪れるものだ。私のもとを訪れる勇者達も、長旅の果てに疲れ切っているからいつも結論を急ぐのかもしれない。私との決着がつけば、故郷に帰れると思えば気も急くだろう。
私も長い旅をしていた頃は、何度も黒い沼に戻りたくなったものだ。帰れない日も大勢の兄弟が待っていてくれると思うと、それだけで慰められた。ああ、懐かしい……。
おや、来客だ。今度はどこからの客であろうか。
***
「白き湖の国の勇者アビゲイルが命じます。魔王よ、城を明け渡しなさい」
今度の客人は白い鎧をまとった女性であった。まだ若い。後ろに付き従うのは騎士と魔術師。三人ともが輝くばかりに麗しい。白き湖の国は容姿に優れた人の子を産むのだな。しかし、この世で一番愛くるしい深き毛皮の友を見慣れた私は容姿の優劣によって惑わされたりはしない。必要なことは相互の理解、そのための問答だ。
「勇者アビゲイル。分かるように説明してくれ。私がお前の命令に従わねばならない根拠は何だ」
麗しの勇者殿は緊張のためか白い頬を朱に染めた。握りしめた細身の剣からは白い炎が立ち上っている。あれは湖の国の聖剣。無垢なる乙女にしか扱えないという呪いのかかった剣だ。無垢なる乙女をもっとも過酷な戦場に駆り立てようとは、あの剣を作った者はよほど女性に不人気であったに違いない。まるで手に入らない乙女たちへの腹いせのようだ。そのようなおぞましい剣を未だに現役で使い続けているとは、白き湖の国はまだ古き悪しき伝統から脱することができていないということだろう。歴史はただ古ければ良いというものではないということを、彼らは理解できていない。
「魔王よ、私自身には命令するに足る根拠はないかもしれません。私は聖剣を授かったとはいえ、一介の神官に過ぎない。しかし、この命令は白き湖の国の王の言葉であり、神の言葉でもあるのです。私達の神は魔王をこの世に野放しすることを許してはいません」
「ふむ。ではお前は国王や神の代理人であるというわけだな? それは理解できる。では、代理人アビゲイルに尋ねよう。お前の王や神は、どうして私に城を明け渡せというのだ? 野放しにしないとは、どういう意味だ?」
質問を重ねると、若い娘は口をきつく結んで目尻に涙をたたえた。解せぬ。
「友よ、あの娘はなぜ泣くのだろう?」
肘掛けの先の定位置で爪を研いでいた深き毛皮の友はちろりと代理人アビゲイルをみやった。
「武器だよ。女の涙は最強の武器だって昔から言うだろ」
「ただの水分が?」
さっぱり解らぬ。瞳から落ちる水に何の効果があるというのか。私は聖水の製法も学んだが、あのようにしても聖水を得ることはできない。
「お前みたいな奴には、これっぽっちも効かねえんだろうな。幸いなるかな、我らが魔王。この世で最も凶悪な武器の一つをお前は既に乗り越えてる」
「しっかりしろ、アビー! 魔王の目的はお前の心を挫くことだ。俺達がついてる、惑わされるな!」
「いや、惑わしているのはお前だろう。白き湖の国の騎士よ。私の目的はお前達の訪問の目的を正しく理解することだ」
代理人アビゲイルを支えていた騎士は忌々しげに私を見上げた。間違いを訂正して睨まれるというのは割に合わない。
「目的ならば既に告げました。城を明け渡しなさい。魔王とその配下の者どもは永遠にこの城の下に封印します」
「待て、待て。代理人アビゲイル。先程と答えが変わっている。城を明け渡すまでは聞いたが、封印の話は初耳だぞ」
どさくさに紛れて要求を水増ししてくるとは、無垢な乙女のやり口ではない。やり手ババアとかいう年増女のやり口ではないか。この娘、本当に聖剣を使えるのだろうか。
「魔王、あなたは世界で最も危険な生き物です。このまま放っておくことはできません。残念ですが私達の手で滅するには力が足りないことは認めましょう。だからこそ、封印するのです。これ以上の混乱が世界を襲う前に」
「代理人にして勇者のアビゲイル。この世は混乱しているのか?」
若い娘は緑色の瞳でしっかりと私を見た。
「ええ。あなたが知らないはずはありません。千年王国の混乱は王宮に入り込んだスキュラがもたらしたもの。自由貿易連盟の瓦解はラミアーの魔術によるもの、海の連邦公国の内乱はセイレーンの大軍が国を蹂躙したがためです。伝統の柱、経済の要、海運の雄を相次いで欠き、今や世界は急速に暗黒時代に戻ろうとしています。私はそれを決して見過ごしにはしません」
「アビゲイル。お前の挙げた三つの混乱は全て自業自得というものだ。私はそれぞれの国の勇者達に使者をつけて送り返したに過ぎぬ。どの国でも行われている外交だ」
「言い訳は結構。私は選ばれた勇者として魔王を封印します」
これまでのどの勇者よりも冷静で話のできる娘に思えたが、所詮、勇者は勇者か。旗色が悪くなると、すぐに剣の力に頼る。嘆かわしいことだ。
「どうしてもと言うのならば仕方がない。私はお前に抗わねばならん。代理人にして勇者のアビゲイル。私は封印される謂れはない。そして私が封印されてしまえば祖先より受け継いできた魔物の国が滅んでしまう。それは全く受け入れられないことだ」
「あなたに選択の余地はありません」
言うなり勇者は剣を振るった。まるで剣舞でも舞うように華麗であったが斬撃ではないので聖剣の炎は襲ってこない。あれは何の技なのであろうか。
「追跡の王」に聞いた勇者達の特徴を思い出す。
『白き湖の国の勇者は常に若い乙女で、騎士や魔術師を伴って現れる。白い炎の聖剣は切り結ぶためではなく魔術の媒体として使われる。あれは、魔術師の杖と同じ』
そうか。魔術の発動のための動作であるわけだな。なるほど、人の子はあれほど仰々しい操作をしなければ魔術を操れないということか。あれでは疲れるだろう。見ている分には舞のようで美しいが、実用的でない。
私は数体の死霊の戦士を呼び出して娘の舞を止めさせた。騎士と魔術師が勇者アビゲイルを守ろうと奮戦しているが、数が違う。押し込まれる騎士達が邪魔で娘の舞は窮屈で遅いものになっていく。そしてとうとう舞いは頓挫した。
「駄目よ、諦めないわ!」
傷だらけの騎士の背後で勇者はもう一度剣を構える。
「せっかく怖い思いをして、痛い思いもしてここまで来たのに。魔王を倒さなければ、勇者がいる意味なんてないじゃない。勇者じゃなければ、私はつまらない神官に逆戻り。ここにいる意味さえなくなってしまう。私は勇者じゃなければいけないのよ。勇者じゃなければ誰も私なんか見てくれない。勇者じゃなければ!」
ぶつぶつと呟く様子は可憐な乙女というより、妄執に取りつかれた乙女だ。若い娘に負担をかけ過ぎなのではないか、白き湖の国は。あれはどう見ても心の病だ。
「アビー! そんなことない。勇者じゃなくても、君は君だよ。君は君のままで素晴らしいんだ。だからこそ選ばれた。間違えないでくれ。何があっても、僕は君の味方だ」
魔術師が死霊の戦士を相手にしながら必死に勇者に呼びかけている。それを聞いた騎士が慌てたように割り込んだ。
「アビー! もちろん私もだ。君に出会えたことに本当に感謝している。君が勇者に選ばれたのは出会いのきっかけに過ぎないんだ」
勇者アビゲイルはまた瞳一杯に涙をためて二人の仲間に頷き返した。
「ありがとう。なんだか、勇気が湧いてきたわ!」
私は一体、何を見させられているのだろうか。