2. 独善の勇者 (1)
私は魔王であるが、天地開闢以来の王というわけではない。過去の魔王には諡名が与えられるために魔王と呼ばなくなるだけで過去にはもちろん別の魔王達がいた。
先代の魔王の諡名は「追跡の王」である。何かを心に決めると、それを手に入れるまで実に執念深く追い求めたからだ。若い日には力と富を求めて国中を旅し、猛者どもに挑んで周るうちに魔王に上りつめた。老いてからは知識を求め、この世の神秘を解き明かして回った。
その彼が最後に追い求めたものは自身の死であった。魔力が高まれば高まるほど寿命が延びてしまう魔物ならではの望みだ。魔王ともなれば自分の命がいつ果てるか想像もつかない。今、魔王となった私にとって、生きることに飽いてなお死の気配すら感じられなかった「追跡の王」の苦しみは察するに余りある。私には慈悲深い友がいるのでまだ生きることを止めたいとは思わないが、かつては少しでも長く握りしめていたいと執着したこの生が、苦しみになりつつあることは間違いない。私がまだ黒々した沼に暮らしていた頃には想像もつかなかった人生になってしまった。
私がまだ小さく弱く、黒々した沼のほとりで、どうやって生き延びるかばかりを考えていた頃など……。
おや、失礼。来客だ。話の続きは、また今度。
***
「この世を混乱に陥れる魔王よ! その首、千年王国が勇者カーランデルが貰い受ける!」
玉座の間に飛び込んできたのは長身の騎士、そして四人の仲間たちだった。カーランデルと名乗った騎士は重たい甲冑に負けない鍛え上げられた体つきをした精悍な男だ。年のころは三十半ば。魔物で三十歳など若造もいいところだが、人の子でいけば十分に大人だろう。仲間もそれぞれ経験を積んだ手練れのようだ。慣れた様子でお互いを守り合うように並び、私を睨むように見上げてきた。
そのように緊張しなくとも私はいきなり人の子を襲ったりはしないのだが、どうもそういったことは人の子の間では伝えられないらしい。やってくる者は誰も同じように興奮し、緊張し、怯えながら私を見上げる。その視線が私の腹の底に潜んでいる魔物達を震わせる。
私はその震えを抑えるように手のひらに神経を集中した。玉座の肘掛けにいつものように友が丸まり、私の手からひとかけらのチーズを食している。
何度見ても飽きることがないこの姿。ふわふわと豊かな茶色の毛皮。丸い瞳。尖った二本の前歯。長いしっぽ。
ああ、我が深き毛皮の友はこの世の何よりも愛らしい。
玉座の間に並ぶ十の魔将のための椅子はたいてい全部空席だが、この愛らしい友の他に何が必要だろうか。
おお、見るがいい。この膨らんだ頬を! ひくひくと揺れる鼻を! 必死にチーズを握りしめる健気な指先を!
魔王の他にこの玉座に座すことが許されるのは、我が深き毛皮の友ただ一人だ。彼の愛らしい姿のおかげで私の心はすぐに静まり、腹の底のざわつきも収まった。
やがて我が友はチーズをすっかり平らげた。
「げふう、やっぱりチーズは山羊に限るな」
「我が友は本当にこれが好きだな。だが食べ過ぎはいかんぞ」
「お前に言われたかねえや、大喰らいの魔王め。お前みたいに腹が破裂する心配なしに食べられるなら、溺れるほどのチーズを食べたいもんだ」
残念ながら友の腹は食べれば食べただけ素直に膨らむので、それは叶わぬ夢だ。チーズの食べ過ぎで我が友が死んでしまったら、それは私にとって世界の終わりの始まりだ。
「なあ、ところで魔王。お前、あの勇者たちを放り出したままでいいのか?」
「ああ、そういえば来客であったな。彫像のように固まっているから忘れそうになったわ。些末なことまできちんと覚えているとは、さすがは深き毛皮の友だ」
「お前、俺のこと崇拝するふりしてちょいちょい馬鹿にしてんだろ?」
全くよう、と呟きながら深き毛皮の友は食後の毛づくろいを始めた。彼は毛づくろいを邪魔されることをとても嫌う。この隙に人の子の相手を済ませてしまうのが良いだろう。
改めて向かい合うと、カーランデルと名乗った勇者とその仲間たちは相変わらず緊張した面持ちでこちらをうかがっていた。他国の王に謁見した際には、相手から話しかけられるのを待つという礼儀は弁えているらしい。勇者にしては珍しいことだ。千年王国から来たと言ったか。千年王国といえば、我ら魔物の国と並ぶ長い歴史を持つ人の子の国。長い歴史にはぐくまれた豊かな文化の国であり、ここ三十年程は力を入れて国土を拡大していた。今もってますます盛んに栄えているのであろう。伝統に縛られ、潰えていく国も少なくない中で千年王国の長い繁栄は特筆すべきものがある。
その国から選ばれた勇者というからには凡百の男ではあるまい。
ふむ。この男なら多少は実りある議論を期待できるかもしれん。