10. 勇者の貪欲
城を出ようか。
別にどこにいても魔王は魔王だ。この場所に留まっているのは、その方が訪問者にとって都合が良いだろうというだけの理由に過ぎない。もう客を待つ気も失せた。どこかもっと水に近い、湿り気のある場所に移ってしまった方が良いかもしれない。
私はこのところ、この考えに取りつかれている。魔物の仲間の目を借りて、良さそうな転居先を探している間に一日が終わってしまう日さえある。
水が豊富で、深い森があり、しかし我が友の好む山羊のチーズだけは欠かさず手に入れられるような場所だがいい。人の子にとっては近寄りがたい場所ならもっと良い。
かつての旅の途上でみかけた場所を思い返す。あちこちで様々な事件があった。私はどうしても水辺に引き寄せられてしまうので、しょっちゅう道を誤ったものだ。一度など、目的地を大きく外れ……。
また来客か。やはり引っ越した方が良いのかもしれん。
***
玉座の間に現れた男は騎士や戦士には見えなかった。かといって、先日の嘘つき王子とも少々違う。服装は煌びやかだが王子ほど豪華ではない。ただ首を覆うほどに伸ばした髭にまで手入れが行き届いているので裕福なのは間違いない。
「いやあ、お目通りできて光栄です。魔王閣下。私は大陸商会のモルガンと申します」
「商会? 商人が何の用だ?」
モルガンと名乗った男は笑みを浮かべて手を広げて見せた。
「何、悪い話じゃないんですよ。話は大陸人間世界連合から聞いたんです。そして私はあなたの方が、あの連合の連中よりも賢いようだと思って今日ここに来たわけなんです」
「もう少し具体的に答えてもらいたいものだな、商人モルガン」
「もちろん、詳しくお話します。これは仕事のお話です。大陸人間社会連合軍は潰走した。しかし、消えてしまったわけではない。彼らはこれからも閣下に対立し、戦いは続くでしょう。彼らには彼らの面子というものがあります。振り上げたこぶしを無為に振り回しただけで退くわけにはいかないんです。そして大陸中の人間の国に対して魔物の国はここ一つきりです。戦いが長引けば長引くほどあなた方は不利になるでしょう」
モルガンの説明は淀みない。きっと慣れているのだろう。その目は油断なく私をうかがっている。先日の芋虫のような指をした将軍よりもよほど警戒心を刺激する相手だ。その油断ならないモルガンは目を細めてわざとらしい笑みを浮かべた。
「しかし、魔物の国がじり貧で弱って滅んでしまうのは良くない。慧眼の閣下にはそのくらいのことはお分りになっていらっしゃるはずですね?」
「確かに我が国が滅ぶのは良いことではないな」
「ええ、そうでしょうとも。ですが慈悲深い魔王閣下は人間の平和まで考えて下さっている。分かりやすい対立軸があれば、それに伴って仲間というものもはっきり線引きができる。魔物がいるからこそ、人間は結束していられるんです。あなたがたが滅んでしまえば大陸人間世界連合は長くもたないでしょう」
正直、そこまで考えていたわけではないがモルガンの言うことは真実だろう。あの同盟は脆い。
「それとお前の仕事はどう関係するのだ?」
「よくぞ尋ねて下さいました。我々は魔物の皆様が大陸人間世界連合に後れを取ることのないように僭越ながら支援して差し上げたいと思っているんですよ」
「支援?」
「ええ。私どもは商人ですから必要なものを取り揃えましょう。戦は何かと物入りです」
「ほう。そうやって私達を支援することで対立を長引かせるというわけか。戦争が続く限り、私はお前達に支払を続け、お前達は潤い続ける。良い商売だな」
「ははは、恐縮です。何を成すにも先立つものは必要です」
モルガンは悪びれもなく、そう答えた後でじっと私を見上げた。
「しかし、我々は金のためだけに申しているのではありませんよ。閣下がお考えの通り、対立が長引けばお互いを抑止力として人間側、魔物側の中での抗争は抑えられるはずです。私どもは両者が睨み合いを続けることで、現在の均衡を維持することが肝要だと考えています。その間にもっと穏便に共存の道を見出せるかもしれません。多くの問題を解決できるかもしれません。勇者様方のような立派なやりようではありませんが、私どもはこれもまた平和へ至る一つの道であろうと信じているんです」
「商人モルガン。お前の言い分は分かった」
この商人はずいぶんのやり手であるようだ。表情はまるで本心を語っているように真摯だが、これが本当か嘘か、どうにも判断がつかない。だが良い。判断がつかないときの結論はもう出ている。私は人の子相手の賭けはもう止めたのだ。完全に信じられる確信が持てない限り、人の子は信じない。
神妙な表情で私の返事を期待して待つモルガンを見返した。
「だが、断る」
少々意外な返事であったようだ。我が友の言う通り、私は人の子に甘く見られているのかもしれない。
モルガンはすぐに動揺を抑えて尋ねてきた。
「なぜです?」
「支援が不要であるからだ」
それは最初から分かり切っていたことだ。しかしモルガンは、まだ商機があると感じたのか顔に笑みを戻して反論してきた。
「我々の提供できる品物を想像できていらっしゃらないのです。一度ご覧になれば気が変わるはずです」
「奴隷はいらん」
私はいくらでも魔物の戦士を呼び出すことができる。死霊や骸骨の戦士たちは崩されてもすぐに再生できるのだ。
「武器も不要だ」
サイクロプスは素晴らしい職人だ。それだけで二つの王国ができるほどの職人を抱えている。そしてこの国には十分な資源を産む山がある。
「食料も必要ない」
現在、ほとんどの魔物は私の腹の中に住んでいて飢えを知らぬ状態にある。食料の蓄えなど全く心配無用だ。
「情報もいらん」
知るべきものは遠見の魔術で見ることができる。それに何より、私は大陸人間世界連合と真面目に対立し続け、馬鹿正直に戦争を続けるつもりなど毛頭ない。あちらだってきっとそうだろう。
モルガンはいよいよ鼻白んだ。他にどんな切り札があるか考えているのだろう。何を出しても無駄だと言うのに。
「しかし、人間はお持ちではないでしょう? 戦士は閣下の配下の魔物の戦士があるのでしょうが、例えば人の国に入り込むとなれば人間が必要です。いかがですか?」
「人の子の国を、人の子に探らせ、売らせようというのか」
モルガンは片頬を釣り上げるようにして笑った。
「反吐が出るな」
そのような薄汚い策略など不要だ。探りたければ自分でいくらでも探り様はある。我が友のごとき賢き鼠も、いつも私に目と耳を貸してくれる鳥たちもいる。それをこの商人に教えてやる義理はないので、情報と反吐の代わりに息を吐いた。
それは見る間に牛の頭を持つ巨人、ミノタウロスの姿になった。
「お客人がお帰りだ。丁重にお見送りせよ」
「ひっ!」
モルガンは短い悲鳴を上げて尻餅をついて後ずさった。
「歩けぬようなら、抱えあげてお送りすることも可能だぞ?」
商人は今度は弾かれたように立ち上がった。前に立ちふさがるミノタウロスの脚の間から私を睨むように見上げてくる。
「これが閣下のお返事と承りましょう。ですが、この先に必ず我々の助けが必要になりますよ。そのときに友誼を結んでおかなかったことを後悔なさいませんように」
さすがに魔王の城に乗り込んでくる商人だけある。この状況で捨て台詞が吐けるとは。しかし、そこが限界のようでミノタウロスが一歩踏み出すと、その後は一言もなく玉座の間を去って行った。
「人の子ってのは何でも金に換えるもんだな」
私の懐で蹲っていた深き毛皮の友はぶるると毛を震わせた。
「俺の毛皮までひん剥かれたら敵わねえから思わず死んだふりしちまった」
「おお、友よ。友よ。お前の深き毛皮は何物にも代えがたい我が宝だ。あのような卑しい商人になど渡すものか!」
指を包み込む柔らかな毛皮、滑らかな光沢。これを奪うような輩は地の果てまでも追いかけて、生まれてきたことを後悔するまで攻め立ててやる。
「いやいや、待てよ、魔王。俺の毛皮は俺様のもんだぜ?」
ああ! なぜ私も友と同じ深き毛皮を持つ身に生まれなかったのか! 生まれる前のこととはいえ悔やまれる。
そうか、あの商人が私に立派な毛皮をまとった体を与えるといえば、一度くらい取引をしてやっても良かったかもしれないな。
***
魔王には取引を断られたものの商人モルガンの商売は非常に上手く行った。多くの国を内乱や壊滅に導いた魔物という差し迫った脅威は残る国々の軍備拡張を促すには最高の材料である。さらに魔王が連合軍を追い返した後も、魔物のためにと備えた隣国がいつその矛先を自分に向けてくるかもしれないと囁けば、どの国も疑心暗鬼になって張り合うように傭兵や奴隷、武器を欲した。
「魔王には最高の酒と女をいくら贈っても良い」
商売が育つたびにモルガンはそんな冗談を言った。
やがて物資と金を武器に各国の奥深くまで入り込んだ商人モルガンは、国を持たぬ帝王として大陸に君臨するまでになった。
「王になるなど愚かなことをしなくても、賢いやり方をすれば世界は手に入る」
今や、彼の思うままに動かせないのは魔物の国と魔王のみであった。
「そろそろ魔王にもご退場願おう。ふん、私もとうとう勇者の仲間入りか」




